75. 保坂正康・「昭和史がわかる55のポイント」( PHP文庫 2001.04)(2003/10/29搭載)

40 ベトナム戦争と日本人
 ――なぜ安直な戦争反対にとどまったのか

「べ平連」の安直な戦争反対

 ベトナム戦争への反村運動は、日本人にとって感性をゆるがす意味をもっていた。昭和四十年代初期の全共闘運動、そして新左翼運動、それに市民運動は、ベトナム侵略戦争反対のスローガンを掲げたほどだった。昭和四十年(一九六五)四月に生まれた「べ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)」は、ベトナム戦争反村という運動にしぼって、国民の多くに影響を与えたほどだった。
 ベトナム戦争反対は、実際にはアメリカ軍のベトナム戦争への介入に反対するという意味で、政権を担っていた自民党政府はアメリカとの協調路線からあからさまな反対はできず、むしろ日本にある米軍基地をアメリカが後方陣地とすることを黙認している状態だった。佐藤栄作首相は、アメリカのベトナム政策に追随する発言をつづけていたほどだった。
 ベトナム戦争は、北ベトナムと南ベトナムという社会主義国と自由主義国に分断された国家が、その統一を目ざして戦った“内戦”であった。表面上は南ベトナムの反政府勢力(南ベトナム解放戦線)が、政府軍に対する武力抵抗を行い、それを抑えようとする政府軍をアメリカが支援するという構図になっていた。南ベトナム政府は実際上はアメリカの傀儡(かいらい)国家のような様相を呈していた。南ベトナム解放戦線(ベトコン)も自立した勢力とはいいがたく北ベトナムの支援を受けていた。
 したがって、この戦争にはいくつもの断面がみられた。ひとつは自由主義国と社会主義国の代理戦争、もうひとつは民族自決に反するアメリカの介入、さらにもうひとつはベトナムの解放闘争といった側面だった。
 いずれの局面を見てもアメリカには理がきわめて稀薄で、ベトナムでアメリカの青年が戦死する事態にアメリカ人が納得しなかったのも容易にうなずけることだった。アメリカ国内でベトナム戦争反対が広がり、ベトナム帰りの兵士たちが歓迎されるどころか白眼視されたのも、アメリカ社会の平衡感覚ということができた。
 日本のベトナム戦争反対運動は、アメリカが南ベトナム解放戟線の背後にいる北ベトナムを叩こうと決意し、昭和三十九年(一九六四)にトンキノン湾を爆撃し、以後、北爆をくり返すことになってしだいにその勢いを増すようになった。
新左翼のセクトは、ベトナムへのアメリカの侵略反対というスローガンを掲げた。べ平連は、ベトナム戦争反対というだけで、その内容はもっばらアメリカの介入反対という点に重点が置かれていた。ベトナム戦争にみられるそれぞれの断面から少しずつエキスをとり、反対運動をつづけていたといえる。
 とはいえ、日本のベトナム戦争反対運動は、ヒューマニズムを土台にしていることでも共通していた。戦争はいけない、アメリカは介入すべきでない、といった大雑把な論で、アメリカを批判すればベトナム戦争に反対する良心的な位置を占められるという甘えがはびこっていた。他国の戦争だから、安全地帯に座って、耳ざわりのいい言葉を吐いていれば、いくぶんカタルシスが得られるといった様子であった。

太平洋戦争の延長としての民族自決闘争

 ベトナム戦争は日本に関係がなかったか。決してそうではなかった。……
 ……ベトナム戦争に対する日本の態度は、単に「戦争反対」というスローガンで済むものではなかった。ましてやアメリカ政府にすべて追随すべきではなかった。ベトナム戦争がもっている民族自決の側面をアメリカに説得し、こういう戦争は目的も曖昧な無益な戦争であることを説くべきだった。もし日本が官民あげてこのような態度をとっていたら、太平洋戦争は正しく日本が植民地解放″のために戦ったともいえるのだった。
 アメリカは泥沼にはまり、そして世界中からダーティー・ウォーといわれるほど汚名を浴び、世界への信頼を失ってしまった。こういう泥沼に陥らないために何ひとつ助言ができる姿勢をもっていなかった日本は、歴史から教訓を学ばない国といわれても仕方がなかった。私の知るところ、この戦争がもつ歴史的意味をアメリカに主張したのは、自民党の代議士のなかでもひとにぎりにすぎなかった。
 ベトナム軌争は、昭和四十人年(一九七三)一月に、サイゴンに北ベトナム軍と南ベトナム解放戟線がはいってきて終わりを見た。一月二十七日にはパリでベトナム和平協定が宣言され、ニクソン大統領は三月にべトナム戦争終結宣言を発した。アメリカは十年間という時間をかけて、膨大な戟費と五万人の死傷者をだす犠牲を払ったのである。
 南北ベトナムの統一後、ベトナムがカンボジアに侵攻し、ときに中国軍と交戟するのは、あきらかに戦争の意味をかえている。民族自決闘争から東南アジアヘの覇権主義にと変化しているのだ。こうなって、初めて「ベトナムの軍事的膨張政策」を糾弾しなければならない。
 あれほどベトナム戟争に反対した人たちが、変質したベトナムの政策の反対運動を起こせないでいるのは、かつての反対運動がヒューマニズムという実体のない、テレビや写真や活字で知ったベトナム戦争への感性だけのものだったことをよく示しているといえる。
 あの太平洋戦争は、ベトナム戟争をもって歴史的にはひとまず結着をつけたという見方をもっていないからであった。…… (保坂正康『昭和史がわかる55のポイント』p.247〜p、251)

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