73. 松岡 完 『ベトナム戦争――誤算と誤解の戦場』 (中公新書 2001年7月 \900 + 税)

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反戦運動熟とその限界

 ベトナム戦争の激化につれて、日本国内でも戦争拡大、米軍基地、米帝国主義などへの抗議運動が盛んになった。軍需品輸送の拒否、戦車輸送の妨害、射撃演習の阻止、野戦病院開設への反対、米空母入港への抗議、ベトナム民衆への医薬品寄贈などの活動が頻繁に行われ、各地で反戦フォーク集会が開かれた。「べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」は定期的に月一回のデモを行い、米軍脱走兵の国外逃亡を助けた。
一九六七年、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの提唱で、ベトナムでの米軍による非人道兵器の使用や残虐行為など、平和に対する犯罪を裁く国際法廷がストックホルムで開かれた。このラッセル法廷の東京版も開催され、とくに日本政府の戦争協力姿勢が槍玉にあげられた。苛立つエドウィン・ライシャワー駐日大使が、日本の新聞報道の反戦・反米偏向を批判して物議をかもしたこともある。
 一九六四年八月、トンキン湾事件で第七艦隊が横須賀や佐世保から出港した時、椎名悦三郎外相ほ、公海上での攻撃に対する自衛権の合法的な行便で、日米安保条約の事前協議の対象外だと述べた。戦争の原因はハノイの侵略にある。北爆は南ベトナムと極東の安全を守るための行動だ。むしろ日本はアメリカが払っている犠牲を理解すべきだ。直接戦闘目的に使われるのでない限り、たとえば離日直後に命令を受けた部隊の出動や爆撃機の出撃も事前協議ほ必要ない。こうした論理に立つ日本政府ほ、アメリカにつぐ第二の戦犯だと内外で批判された。
 国内で反戦の主張ほ高まったが、アイゼソハワ一大統領の訪日を阻止した、一九六〇年の日米安保条約改定反対の運動はどの盛り上がりほ見せなかった。しよせん大多数の日本人にとってベトナム戦争は対岸の火事にすぎなかった。民族解放戟線びいきだったマスメディアの報道も、政府を動かすにはいたらなかった。佐藤栄作首相は、日米貿易摩擦を回避し、小笠原諸島や沖縄の返還を実現するためにも、アメリカのベトナム政策を徹頭徹尾支持する構えだった。一九六七年には参戟国以外の首相として初めて、南ベトナムを訪問している。アメリカも、貴重な味方である日本の保守政権を守るために小笠原や沖縄の返還を決意した。……
(同書p.220〜222)

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