70. 小田マサノリ「都市ノ民族誌2 東京フォークゲリラ・ノーリターンズ (別称=昭和残響伝)」『10+1』No.32 2003.09.(2003/09/27搭載)

     地下広場に今までになかった現象が起こっていた……
                 大内田圭弥「地下広場」より

昭和四四(一九六九)年の春、坂倉準三が設計した(旧国鉄・新宿駅西口広場)の地下に突如として巨大な「ゲリラ建築」が姿を現わした。それはバリ五月革命の年の終わりに、ポザールの学生たちがパリ郊外を占拠して建てた(人民の家)の出現から数カ月後のことだった。そのやや遅れて東京に出現したそれは都市の郊外ではなく、その中枢部である駅の地下に現われた。通称「地下広場」、別名「新宿解放広場」。それが、「東京フォークゲリラ」を名のるべ平連の若いシチュアシオニストたちが、その「地下の見えないゲリラ建築」に与えた名前だった。その年の二月二八日、フォークゲリラたちの音楽による反戦行動が、新宿西口広場と銀座数寄屋橋で同時にはじまった。もともとそれは、関西のヤング・べ平連が大阪梅田の地下街ではじめた「梅田大学」に感化され、それを東京に移築してきたものだったが、新宿のフォークゲリラたちは、わずかな数のアコースティックギターとトランジスタ式メガホンのアレンジメントによって西口広場を大胆にリノベーションし、音楽を通して抵抗の情動を通いあわせる地下の水脈をそこに探りあてた。地下広場の低い天井は、アンプラグドのギターが弾きだす単調なコード音の塊とトランジスタで増幅された生の声を、広場の隅々まで鳴り響かせる格好の反響装置だった。このラウドなサウンドの介入が、広場の地下に眠っていたライヴな音響 空間としてのポテンシャルを目覚めさせ、都市の隠れた音響資源を発掘した。その後の七月二六日までの行動で、それまではただ人が通り過ぎてゆくだけの場所、大量の人間をただ吐き出し続けるだけの吐人空間であったところに、次第に人々が立ちどまりはじめるようになった。……(中略)
……そして皮肉にもこのゲリラ建築の「現われ」が、その直後に始まる権力による首都の公共圏の徹底した規制と長期にわたる管理のプログラムを始動させた。……(中略)
……立ち止まらないで歩いて下さい……このアナウンスはその翌年に開かれた大阪万博会場でのそれを思い起こさせる。実際、万博会場の様子を報じる昭和四五年のニュース映像のなかでこれとそっくり同じアナウンスを耳にすることができる。立ち止まらないで歩いて下さい……それは何のために? 無論それは、経済の繁栄と豊かな生活のためにであり、人類の退屈な進歩と調和のためにであったろうが、この高度成長時代のアナウンスメントは一見ありふれた言葉ではあっても、実はまぎれもなき国家の号令であった。地下広場と万博会場の両方で国民に向けてくり返し発せられたこのアナウンスは「立ちどまって考えたりせず、ただおとなしく見ていて下さい」というスペクタクル社会の従順な市民を集成し、管理するための命令であったし、それはまた、状況の構築や状況への介入の現場から市民を排除するものでもあった。その後、新宿西口で九四年と九六年に執行された地下通路からのダンボールハウスの強制撤去は、この場所がいまなお吐人空間として在ることを改めて知らしめたが、その後も六九年の弾圧の亡霊は新宿の地下でしぶとく生き続け、そのアナウンスは依然としてその残響を響かせている。平成一五(二〇〇三)年の二月、米英軍のイラク攻撃に対する全世界的な反戦行動の盛り上がりのなかで、あの「現象」が再び小さな息を吹き返し、いま地下広場で静かに呼吸を始めている。三四年前の同じ月にその同じ場所でフォークゲリラとして地下広場をたちあげた元・べ平連の大木晴子氏がもう一度、自らの原点である西口広場に立ちもどって、反戦の意思表示を行なうアピール行動を始めたのである。……(後略)

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