69. 道場親信「『核時代』の反戦平和――対話と交流のためのノート2」『現代思想』2003.08.(2003/08/17搭載)

 これは、『現代思想』2003年6月号に掲載された道場親信「『反戦平和』の戦後体験――対話と交流のためのノート1」の続編として書かれたもので、6月号には1950年の朝鮮戦争までの時期について述べられ(20ページ)、この8月号の論考でそれ以後から現在に至るまでの時期の反戦平和運動の流れとその問題点が指摘される。8月号の論考は36ページの長文で、1.「平和共存」期における「反戦平和」、2.ベトナム 反戦運動と「反戦平和」の転換、3.移行期としての七〇−八〇年代、4.「冷戦」以後:「反戦平和」の再定義、の4章に分けられているが、このうち、2章の12.5ページの大部分がベ平連の記述に割かれており、ベ平連の活動を多岐にわたって紹介、論じている。そのため、ここでは、とても全体を紹介しきれないので、そのごく一部だけを抜粋してご紹介する。関心をもたれる方は、ぜひ、全文に当たってくださるようお願いする。文中、10ポイントの小文字になっている部分は、引用文献と注の番号だが、その参照先は省略した。

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道場親信「『核時代』の反戦平和――対話と交流のためのノート2『現代思想』2003.08.)154〜190ページ

 ……この一九六〇年代末−七〇年代初めは、「新左翼」・労組・政党・市民の競争的共存が社会運動において生じていた時代であった。べ平連の思想と行動は、この時代の無数の反戦市民運動、また党派無党派を含む「新左翼」の運動にもさまざまな影響を与え、また影響を受けていた。…… (167ページ)

 ……こうしたJATECの活動の中から、新たな課題がいくつも見つかってきた。韓国軍の脱走兵であった金東希は、日本に密入国したところを逮捕され、刑に服したあと大村収容所に収容されていた。彼は日本への「亡命」を求めたが容れられず、韓国への強制送還を避け、希望する国への出国を支援する活動がさまざまな団体によって行なわれた。べ平連もまた金の支援に加わった。最終的に金はナホトカ経由で北朝鮮に向かった(11)。金東希への対応が十分にできなかったことに対する反省から、京都べ平連を中心に大村収容所問題への取り組みがなされるようになった(12)。ここで「入管」問題や収容所の歴史などが掘り起こされていく。一九六九年三月三一日、べ平連の「九州反戦キャラバン」は大村収容所へのデモを行なっている(宮嶋、1969、森、1969)。…… (171ページ)

 ……だが他方で、べ平連の活動スタイルに飽き足らない思いを抱いた人々による「造反」もあらわれる。一九六九年八月、大阪城公園で行なわれた「反戦のための万国博(ハンパク)」では、べ平連のスタイルに対して批判的な若者・学生らによって、突き上げがおこなわれた。これには高島通敏なども加わっており、鶴見俊輔も同調するに及んで、突き上げられた小田実としてはずいぶんとショックを受けたようである。こうした伏線もあって、べ平連内部から、「直接行動」を主眼とした「安保拒否百人委員会」の活動が生れてくることになる(安保拒否百人委員会、1981)(14)。同委員会は、「逮捕」を覚悟の上での「坐りこみ」闘争を主軸に、あくまで安保条約に抵抗する個人の集合体として活動を続けた。のち、七〇年の安保闘争以降は、横田基地解体運動や三里塚闘争へも関わっている。
 この「直接行動」への志向は、同時代の学生や青年労働者の「ゲバルト」を支える基盤でもあったが、べ平連においては「非暴力」を選択する動きが主流であった(学生についてはそうだとはいえないこともあったようである)。これに対し、ベトナム戦争反対の「直接行動」でも、アナキスト系の「ベトナム反戦直接行動委員会」は、銃器製造企業「日特金属」(田無市)を襲撃する事件を起こしている(ベトナム反戦直接行動委員会、1967)。彼らの行動は、工場の設備の一部を破壊し、工場生産を止めることに主眼が置かれ、人体に危害を加えることを回避しようとしていた。この事件について、鶴見良行、高橋和巳らはその「非暴力」性を評価した(吉川、1998)。このグループに属していた斉藤和は、のちに東アジア反日武装戦線大地の牙″として爆弾闘争に携わり、逮捕にあたって自死を遂げる。ここに見られるように、戦争への抵抗をめぐる「暴力」「非暴力」という問題がさまざまな実践を通じて浮上し、また議論の焦点となる。
 べ平連においては、ジン、フェザーストンの来日以後、すでに「非暴力反戦行動委員会」という動きがつくられている。ハノイへの爆撃が行なわれた際には、アメリカ大使館前で坐り込みをする、という計画で、爆撃があってからではデモの申請も間に合わないため、「非合法」の坐りこみで抗議の意思表示をする、というものである(鶴見、1968:222頁)。かつて久野収が一九四〇年代に理論的に提示していた「市民的不服従」のさまざまな形が、このベトナム反戦運動の中で開花していく。その中には、アリス・ハーズや由比忠之進、またベトナムであいついで身を捧げた僧侶たちのように、自らを炎に包んで抗議する、という激越な方法がとられることもあった。
 こうして見てくると、「この戦争」を止めるために起こされるアクションというものは、その思想よりもはるかに類似点が多いことがわかる。と同時に、「直接行動」をとることは、「暴力」と「非暴力」のきわどい部分を横断することを免れない。「暴力」「非暴力」という判断は、「合法」「非合法」とは異なる価値軸によることもまた確認しておかなければならない。…… (172〜3ページ)

 ……こうした「国家を越える原理」すなわち抵抗の原理を掘り当てる作業は、当然のことながら「反戦」の根拠を問う作業でもあった。そして、このベトナム反戦の体験の内でも、最も重要であると思われるのは、そこで個々人の「反戦の根拠」が問われたということである。ベトナム戦争があまりにも「不正な戦争」であったということが、「この戦争に反対」する根拠を人々に与えた、という消極的理由ばかりでなく、その反対する行動の中から、「反戦平和」の思想と行動を練り上げていったというプロセスの重要性を指摘する必要がある。鶴見良行の「わが内なるベトナム」という認識は、そうした思索の産物であるということができる。
 ベトナム戦争は、反対運動が始まってからでも九年続き、持続的な反戦運動を通じて思想・行動ともに深まっていくことになった。そうした長期にわたる反戦運動のなかから、「平和」を再定義する指向も生れてきたといえるだろう。つまり、五〇年代の理念的な中立主義、平和主義から、具体的な「この戦争」を止めるための闘争へ、幾重にも複雑に構築された戦争に「加担」するシステムの認識へ、そして、個々人がそうしたシステムの内にあって何をなすべきなのか、という、個々のレベルでの「反戦の根拠」 に対する問題意識である。
四 諸課題の拡散と深化
 こうして、「反戦」=抵抗の「根」が掘り下げられていく一方で、運動の取り組む課題は多様に拡散していった。この多様化した課題が抵抗を企てているのは、「社会化された安保」、すなわち軍事化された社会構造そのものである。…… (177ページ)

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