65. 伊藤幹彦「『ベ平連』運動とは、何であったか――小熊英二著『〈民主〉と〈愛国〉』に触発されて」『 もくの会・通信』第32号 2003.07.(2003/07/29搭載)

 『もくの会・通信』とは、名古屋市に在住する伊藤幹彦さんが発行しているミニコミ通信誌。伊藤さんは、定年退職した元名古屋市職員で、60年代から退職するまで、労働運動、反戦運動に参加、現在も「声なき声の会」の会合などに参加するなど、反戦の意思表示や行動を続けている。その『もくの会・通信』の2003年夕焼号(7月発行)に、「『ベ平連』運動とは、何であったか」という、以下のような文が掲載されているので、筆者の了解を得て、全文を転載する。
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 ●小熊英二著『〈民主〉と〈愛国〉』に触発されて
    「ベ平連」運動とは、何であったか

 左掲の本は、戦後いかに日本人は振る舞い、思想したかを、占領期から「ベ平連」期までの主として三十年間をたどった著で、吉川勇一さんの言を借りれば、「千頁に近い大著である。それに書名にある〈愛国〉という言葉だのその字体だの、そして天皇裕仁が原爆ドームの前の大群衆に帽子を振る写真といった装丁などから、一見、右翼を論じた書物かと思え、すぐ手に
取る気持ちになれないかもしれない。だが〈戦後日本のナショナリズムと公共性〉というサブタイトルからも判るように、これは戦後の思想史についての労作、力作である」『季刊・運動〈経験〉』ニ〇〇三年冬号)より。
 以下、この本の著者である小熊英二さんのインタビューと、吉川さんの対談などを引用しながら、べ平連運動とは何であったかを、今一度考えてみたい。(伊藤幹彦)

 最後の章が「べ平連」で終っているのは何故か、という問いに対して著者の小熊英二さんは次のように答えている。

 ●リンチ・査問はもうご免
小熊=今の二十歳前後の何も知らない若い人達が読んで、希望が持てるような本にしたいということでした。全共闘運動や新左翼にもいい点はあったと思う。しかしそのマイナス点の一つは、やはり年長者を切ったことだと思う。年長者と決別したことで文化的に面白いものが出てきたという評価もあり得ますが、しかし、思想面・運動面では実りの少ないものになってしまったのではないか。
 例えば、五十年代前半の共産党の火炎瓶闘争時代や、リンチ体験者がある程度混じっていたら、ちょっと違っていただろう。(中略)べ平連には、そういう年長者がかなりいた。事務局長の吉川勇一のように、活動家としてはベテランで、しかも共産党内紛期にリンチ事件の凄惨さを体験した人が裏方をやっていた。
 本を書いたあと、鶴見俊輔さんに合って話しを聞いたのですが、べ平連に警察のスパイらしき人が入ってきた時、どう対処したかという話が面白かった。
 自由参加が原則だから入ってくるのは拒めないし、査問とかはやりたくない。仕方がないから会合と称して夕飯を食べ、飲み屋に行き、深夜喫茶を梯子し、スパイらしき人が帰ってしまうまでそれを続け、夜明け近くになってから重要なことを決めていたという。
 食い倒れ作戦とか呼んでいたそうですけど(笑い) 
 こういう姿勢が連合赤軍などにもあったら、事態は違っていたでしょうね。(中略)
 べ平連から学ぶものがあるとすれば、組織論よりも柔軟さといったこうした「いい加減さ」ではないでしょうか=  
 (『SENKI』1110号)

●寝っころがっての会議
 この「いい加減さ」の流儀を体現し、べ平連という組織を守り包んだのが、小田実、鶴見俊輔、そして吉川勇一といった皆さん。
 べ平連が発足したのは、一九六五年四月。時に小田実(三十二歳)、鶴見俊輔(四十二歳)、吉川勇一(三十四歳)。最長老と目されていた久野収(五十四歳)。
 理論的には、小田実の「加害者−被害者論」、鶴見俊輔の「市民的不服従の思想」で運動は展開されたが、実務面では事務局長の吉川勇一の果たした役割が大きかったことは、小熊英二の言う通りであろう。

 私事を言えば、私は一度も「べ平連」と名乗ったことはなかったが、当局や組合の一部役員からは「危険なべ平連」と呼ばれていた。「危険」の意は、私たちは烏合の衆故、統制が利かなかったからではないか。
 それに関連することを、吉川勇一さんは次のように言っている。
吉川=規約も会費も会員名簿もない。デモに参加した人、機関紙を買ってくれた人がべ平連。
 正式な役員もいない。なんとなく小田が代表で、私が事務局長ということになった。
 言いだしっぺがやる。
 人の批判はしない。
 文句があるなら自分でやり、目標を達成したら解散する。
  (『週刊二十世紀・一九六五』1999・7・11号)

 次頁の写真は、『週刊アンポ』の創刊を決めるべ平連メンバーの会議風景。
 寝ているのが、鶴見良行、武藤一羊、小中陽太郎の諸氏。そして左端が吉川勇一事務局長、中央が小田実代表。お二人はその立場故、寝るに寝られず、憮然としながらも会議をなんとか成り立たせようとしている様が何ともいとおしい。
 寝て会議をするといえば、四十余年もの昔になるであろうか。「愛労評」(総評の県組織)主催の会議を思い出す。
 畳部屋で一泊の文化サークルの交流集会だったが、斎藤孝と計らってこんな提案をした。
 「夜勤明けの人もいるようなので、寝っころがって話しをするというのはどうでしょうか」
 するとネクタイをした役員に一喝された。「遊びに来ているんじゃないっ!講師の先生に失礼だっ」。
 講師は、今は亡き哲学の竹内良知さんだったが、私たちの方を見てにっこり笑いながら言った。
 「いやあ、私も賛成です」。

吉川=偉い小田さんが言ったからとか、哲学者の鶴見さんが言ったからということではなくて、そういう人々を含めて、平等に議論した。
(『現代思想』2003年6月号。)

 しかし一方、吉川さんは、「さあさ、起きてよ」と時には肩を揺することをせざるを得なかっただろう。何故ならどんな組織でも、大事な局面でこの役割を担う人がいなかったら、その組織は簡単に崩壊するからである。だから時に、親愛の情を込めて「官僚!」と呼ばれた。
 「べ平連」発足の半年後、最初の事務局長、久保圭之介さんに代わって、その仕事を受け継いだ時のことを、吉川さんはこう語っている。
吉川=実は、べ平連ができたとき参加したいと思ったけど、共産党から除名されたばかりですからね。そんなのが居ると折角出来たばかりの新しい団体に迷惑がかかると思い遠慮していた。(中略)それでぼくは、デモの時もひっそりと後ろの方にくっついていた。だから 事務局長をやれと言われた時は、ちょっと待てよ、と思いそれで小田実さんと初めて喋ったんですね。私はこういう札付きの男なんで、共産党との関係がまずくなるがそれでもいいのかと念を押したんですよ。
 そうしたら、全然カマヘン、何の関係があるのよ。アンタ手伝ってくれるんやろ、いいやないか。でも金は払えへんでぇ。
  俺、別に金ほしいわけじゃないよ。じゃあ、いいじゃないですか。
 で、決まり。
(『毎日新聞』1999年12月、〈連合赤軍・狼たちの時代〉より) 

●勝負あった
 この共産党との関係に対しては数年前、吉川さんのHPで次のような発言を見たことがある。
 「『赤旗』紙上に、なんと私の名前が非難・攻撃の対象としてでなく載りました」。
 これまで吉川さんは、共産党から〈敵よりも悪い反党分子〉と口を極めて批判され続け、彼が翻訳したウィルフレッド・バーチェットの『立ち上がる南部アメリカ』(サイマル出版)の紹介が『赤旗』の書評欄でなされた時、訳者名だけが削られていたということもあった。そんなこともあっての吉川さんのびっくり発言だった。
 そのことがあったのは、一九九九年の都知事選挙の時のこと。投票すべき候補がいないから棄権しようかどうか迷っている人々が多いという状況の中で、政治はベターの選択だからと、共産党の三上候補を支援する共同声明が出された。その中に吉川さんも名を連ねた故のことであり、これはいかになんでも吉川さんの名前だけを消すことは出来ない。
 ついでに紹介すると、このとき吉川さんには次のような声が、一通ならず送られてきていた。
 「今まで共産党に散々な目にあわされてきた吉川さんが、共産党候補を支援するとは正に晴天の霹靂‥」。
 裏切り者といわんばかりの表現もみられたそれらの声に対して、吉川さんはこう応えていた。
 「…日本共産党に対して私が持っている批判の一つは、非難・レッテルを安易に張り付けるこうしたことにも向けられて」いたことを判ってほしい。
 この一事でもって共産党と吉川さんの勝負はあったというべだろう。

 吉川勇一さんの除名事由は、原水爆禁止運動をめぐるものであった。
 山口瞳は、私の嫌いなものというエッセイの中で、「人工香料」とか「柄物のワイシャツ」と並んで「夏になると原水禁・原水協のゴタゴタを聞かされること」を挙げている。
 これに関連して思い出されるのは、原水爆禁止運動の在り方に関して除籍処分を受けた古在由重さんのこと。古在さん逝去の時、新聞各紙はこの大哲学者の死を悼む記事を大きく載せたが、『赤旗』だけは一行一字も触れなかった。のみならず、「偲ぶ集い」を家永三郎さんや藤田省三さんと企画した川上徹さんたちを除籍処分とした。
 映画「スパイ・ゾルゲ」を観て、そう言えば尾崎秀実の弁護士を探す困難な仕事を為したのは、出獄したばかりの古在由重さんだったことを改めて思った。

 なお、現在の吉川さんは、ガン手術四回の身でありながら、「身障者手帳」二級のお連れ合い共々、そのことを感じさせないお元気で、「市民の意見30の会」を始めとする各種活動に関わっておられる。
 脱帽して心からの敬意を。
もくの会・通信』第32号 2003.07.

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