35. 解放戦士の平和への希求の強み ベトナムを二度訪れて  ( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.72  2002.6.1) (2002/05/28新規搭載)

 

                                        吉川 勇一

 

――本誌前号に、ベトナム訪問についての吉岡忍さんの文が載った。私もその一員に加わっていたのだが、帰国後すぐに、ベトナムの友好団体連合会と平和委員会から、四月三〇日のベトナム解放・統一記念日を中心に、旧ベ平連活動家二〇名を招待したいという連絡があり、またまたベトナムを再訪することになった。

二度目のグループも、作家の小田実さん、小中陽太郎さん、TVプロデューサーの坂元良江さんら、ベ平連やジャテック(反戦脱走米兵支援日本技術委員会)の元メンバーのほか、元相模原「ただの市民が戦車を止める会」の山口幸夫さん(原子力資料情報室代表)、「武蔵野・三鷹ちょうちんデモの会」の八代俊長さん、元「大泉市民の集い」の写真家、巨島聡さんら、首都圏の主要なベトナム反戦グループのメンバー、それに鎌田慧さんや加納実紀代さんも加わるという多彩な顔ぶれだった。

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何もなかった解放記念行事

 

 前回は、招待ではなく、すべてこちらの自弁で、それに戦争証跡博物館に資料を届けるという仕事が目的だったのだが、それにしても、帰国早々、追いかけてのこの招待は何だったのだろう。表面的には「解放記念日を中心に」とあり、直前に知らされてきた行動予定にも「解放記念祝典に参加」が入っていた。ところが、ハノイでベトナムのさまざまな団体幹部との懇談のあと、解放記念日の前日にホーチミン市――旧サイゴンに着いてみると、そこでは式典はおろか、記念行事は何もないと知らされ、一同、驚いた。戦争終了後の数年間、四月三〇日には、戦車やジェット機まで参加する記念行事が旧大統領官邸前の大通りで催されたそうだが、年々その規模は小さくなって軍隊の参加もなくなり、ここ数年は職能団体や町内会単位のパレードのようなものになっていたという。今年はといえば、昼ごろ、ホテルのロビーにいたら、外の通りを飾りたてた自動車が十数台、連続して通ったのを見たぐらいだった。車には、ベトナムの国旗のほか、赤と青の地に黄色の星が描かれた旧解放戦線の旗がなびき、「4・30」という文字も見えたから、これは解放記念の行事だったのだろう。しかしそれだけだった。

 とすると、私たちの招待は何だったのだろう、ということになる。ベトナム側から説明はなかった。以下は私の勝手な推測だ。

 

このグループは一体何だ?

 

 まず、前回の訪問に、ベトナム側は驚いたのだと思う。とにかく、戦後二七年もたってから、三〇人もの元反戦運動参加者が、その資料を集め、一時間にも及ぶ記録のDVDをベトナム語や英語などの版で製作し、戦争証跡博物館に寄付金や大型テレビ受像機、DVDデッキまでつけて贈りに来たのだから。DVDの上映を、ベトナム側参加者は食い入るように見つめていた。私は見なかったが、グエン・チ・ビン副大統領をはじめ、参加者の中には涙をぬぐっていた人もいたという。日本のベトナム反戦市民運動の全体像を初めて伝えられ、驚いただけでなく、本当に嬉しかったのだと思う。それに、私たちはずいぶん、率直だった。ビン副大統領をはじめ、指導者たちとの会合では、それぞれ、自由に発言した。その一部は吉岡さんも紹介していたが、ベトナム側への期待、注文、ときには失礼かと思うような提案までした。たとえば、私は、今のベトナムが経済的にアメリカや日本との関係を重視せざるを得ないことは理解できるものの、政治的発言はそれとは別のはずだ、アフガン、中東などでアメリカ、日本などがやっている勝手気ままな戦争政策に対し、ベトナムの声は国際舞台ではほとんど聞こえてこない、ベトナム戦争という大変な経験をしたこの国こそ、これを批判する十分な資格を持つ国ではないか、などと言った。これらに対するベトナム側の対応も率直だったと思った。

そして、彼らは、一体この連中は何なのだ、これは仲間かもしれない、もうちょっと付き合って、そのへんを確かめて見る価値があるだろう、そんな風に思ったのではないだろうか。だから、解放記念行事への参加などというのは、招待の日付を決める単なるきっかけにすぎなかったのだろう。

 

小泉首相の訪問とぶつかる

 

もう一つは、日本の小泉首相のベトナム訪問との時期の合致だ。私たちの着いたハノイのメインストリートには、ベトナム国旗と日の丸が並び、小泉首相歓迎のスローガンも掲げられていた。翌日、小泉首相はハノイに到着、私たちのグループの参観スケジュールと小泉氏らのそれとのニアミスさえ起こった。新聞はトップで日本首相の訪問を大きく伝えていた。ところが、その翌日の新聞一面には、今度は日本のベ平連グループの訪問が報じられ、テレビは、私たちが前回携えた反戦運動の記録DVDを二度も全国放映し、それ以外にも、解放記念日には、この二回にわたる日本反戦グループの訪問についての特別番組を何度も流した。私は、バランスに苦労するベトナム側の知恵を見た思いもした。前回の私たちの提案への、一つの答えがこの招待だったのかもしれない、とも思った。ベトナムは、混乱するこの世界の中にあって、今、国の前途を必死に模索中なのだ。これが私の勝手な解釈だ。

 

クチの戦士の三つの問い

 

さて、二度のベトナム訪問で、書きたいことはたくさんある。だが、紙面の制限もあり、その一つだけをご紹介する。

これまで、ベトナムの代表の発言を聞く機会は何度もあった。たとえば毎年夏の原水爆反対の集会に来る代表の演説などだ。正直言って、それはあまりにも公的すぎていた。だが、今回の訪問では、一人一人のベトナムの人びとの個人的体験や思いをじかに聞けたが、それは感動的であった。

クチの地下トンネルを見学に行ったときのことだ。クチとは、旧サイゴン市北西にあった解放戦線の根拠地で、米軍を散々苦しめた地下壕が延々とつながる一帯であり、今、そこは観光客に公開されている。(左の写真は、クチの地下壕への入り口 撮影=大木茂)クチへのマイクロバスに同乗したのは、ホーチミン市ベトナム日本友好協会の書記長、グエン・コン・タンさんだった。日本語を話す。みちみち、彼から、戦争中のクチでの個人的体験を聞いた。彼は、元来は中国語のベテランだった。毛沢東・ホー・チ・ミン会談の通訳までやったという話に驚いた。それを聞かせて、という私たちの注文に、「それだけは絶対に言えない、墓場まで黙って持って行くんですよ」とタンさんは笑った。日本語はラジオなどを聞いてまったくの独学で学んだのだという。

タンさんは、周囲にいた私たちに三つの問いを出した。

一つは、トンネルを掘るときに出る膨大な土砂の捨て場所だ。全長二五〇キロに及び、その一つはクチから旧サイゴン市内にまで達し、サイゴン解放戦の直前には、それを通して弾薬や武器を市内に運び込んだというのだから、トンネルの規模は大変なもので、それを掘って出る土砂の量も膨大だ。ただ捨てたのでは、たちまち米軍に地下壕のありかを発見されてしまう。どう処分したのか、当ててごらん、というのだ。(右の写真は地下壕を掘るクチ村民。)

第二問は、米軍が地下壕の発見に犬を使ったことだ。犬はその鋭い嗅覚で、巧みに隠した地下壕の入り口を発見してしまう。それにどう対処したか。(左の写真 犬を使う米軍)

第三問、米軍は、夜になると解放戦線側に向けてベトナム語の放送をスピーカーで流した。女性や幼い子どもの声で、夫や父親がいなくなったあとの家庭の寂しさや困難を切々と訴え、早く帰ってほしいと呼びかけてきた。神経戦だ。毎晩それを聞かされると、さすがの闘士たちの心も動揺してきた。それをどう克服したか。

第一問に私は正解を言えた。米軍の爆撃や砲撃で空けられた大きな穴だ。その周辺に積もる土砂に混ぜてしまうのだ。タンさんは、その通りだ、と言った。だが、あとはわからなかった。答えはこうだった。

隠した壕の入り口や排気口などの周囲に、戦死した米兵の持ち物や衣服をばら撒いておくのだそうだ。肉やバター、牛乳などをたくさん摂る米兵はベトナム人とはまったく違う体臭を持つ。それを撒くことで、米軍の犬は、解放戦線側の匂いが判断できなくなってしまった、というのだ。

第三問の答え。「皆さんの闘いなんですよ。ソ連や中国の放送で、アメリカをはじめ各国の人びとがいかに私たちの戦いを支援する運動を展開しているか、それを毎日聞き、仲間に流したのです。日本の人びとが、サイゴン政権軍に送られる戦車を止めている、というニュースも聞きました。離れている妻子への思いに、ときにたじろぐこともあった私たちを、そのニュースはどんなに勇気付けてくれたことか。絶対に勝てる、そう思えました。皆さんに本当に感謝します……。」(右の写真 クチの地下壕の中の解放戦士)

これには、私のすぐ後ろの席にいた山口幸夫さんがとりわけ心を打たれていた。確かに、七〇年代前半、相模補給廠からの戦車搬出阻止に、山口さんや私たちは全力を挙げた。ベ平連の若者たちは輸送車の下にもぐりこんで逮捕され、裁判はベトナム戦争が終わったあとまで続いて、有罪の判決が下った。機動隊の暴力で重傷を負った仲間も多数出た。その時相模原から送り出されたM48戦車の実物にも今度、博物館で再会した。だが、この闘いの影響を、ベトナムの元解放戦士の口から、直接こういう形で聞けるとは、私たちの予想をこえていた。

これは一例だ。会う人ごとに、私たちは、戦争中、あなたはどこで、どうしていたか、と尋ねた。戦争証跡博物館の館長は、獄中にいたという。「虎の檻」のなかに三年間もいたという人、トンネルの中にいたという人、山中の道をひたすら弾薬や食料を運び続けていたという人……。生身の人からそういう個人的体験を聞いたうえで、同じ口から語られる平和への希求の言葉は、大変な比重をもって私たちに伝わってくるのだった。(左の写真は、ベ平連の相模原デモ)

こうした言葉が、今、もっと大きく世界に向けてベトナムから発信されてほしい、私はそう願った。

 

ベ平連の黄色い旗との別れ

 

私は、今度の旅に旧ベ平連の黄色い大きな旗を持っていった。あちこち破れ、つぎはぎがしてある。ベ平連の解散以後、しまっておいたものだ。旗の隅には、「一九七二年八月一三日、相模原のデモの前日、神楽坂の事務所でこれをつくる」と小さく書いてある。この旗が相模補給廠前の電柱の上に掲げられている写真も、戦争証跡博物館には展示されている(右の写真)。出かける前の晩、アイロンをかけて、皺をのばした。大事にしていたものだけに、私はそれを持って帰るつもりだった。

ところが、帰国直前、戦争証跡博物館の副館長らと、今後の連絡についての打ち合わせのとき、ヴァン副館長から、寄贈してくれと頼まれた。「いや、これはダメです。This is our treasure.(宝物ですから)」と私は断った。だが、彼女はすぐ続けた。「でも、吉川さんがもっていても、一年か二年に一度ぐらいしか見ることはないでしょう? 博物館に飾ってごらんなさい。一日に三千人もの人が目にするんですよ。旗はどっちが嬉しいと思います?」

これには参った。”You are very persuasive!” (負けました)と私は言った。旗はいま、ベトナムにある。

(付記 戦争証跡博物館は、私たちに、この博物館の展示を、ベトナムの子どもたちが描いた平和の絵とともに、ぜひ東京で開催してもらえないか、と提案してきた。実現できるよう帰国後検討する、と答えてきた。いずれ、みなさんのご協力をお願いすることになると思う。)

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