28. 古川昂宗「われ=われ」のベ平連 高校生によるレポート(2002/03/21搭載)

 以下は、 つい最近、埼玉県立浦和高等学校の一人の学生が「ベ平連」をテーマにして調べたことをレポートにまとめたものです。これは、「総合学習」授業の自由課題として取り上げたもので、埼玉大学共生社会研究センターに来てベ平連資料を読み、合わせてHP、文献などを参考にして書いたそうです。執筆者、古川昂宗さんの了解を得て、ここに掲載いたします。

  「われ=われ」のべ平連  

    古  川 昂 宗  (埼玉県立浦和高等学校)

 べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は、1965年2月のアメリカによる北ベトナム爆撃開始を受け、4月に始まったベトナム反戦の市民運動である。声なき声の会の高畠通敏が鶴見俊輔に声をかけ、さらに小田実に話を持ちかけ、小田を代表として運動は始まる。実際のスタートとなる4月24日のデモの際のビラの文面は、しばしば引用されているが、べ平連の運動の雰囲気を伝えるものとして重要であるので、ここで引用しておきたい。

 私たちは、ふつうの市民です。

 ふつうの市民ということは、会社員がいて、小学校の先生がいて、大工さんがいて、おかみさんがいて、新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している少年がいて、つまり、このパンフレットを読むあなた自身がいて、その私たちが言いたいことはただ一つ、「ベトナムに平和を!」

 政治的主張をする場を持たない人々にべ平連は自分の威力を主張する場を開いた。街道を行くOLやサラリーマン、主婦や高校生、デモを目にし、ビラを手にとる「あなた」に呼び掛け、「ベトナムに平和を」という思いを共有する人々に、その思いを行動によって示していく場を提供したのである。

 ここにべ平連の性格がよく出ている。組織に属さず、いても立ってもいられない気持ちを持ちながら、その気持ちを表現する場、方法を持たない人たちが政治に対して自らの意思表示をする場をつくろうとしたのである。こうしてべ平連は生まれてきたのである。

 アメリカによる北爆は悲惨な事件として人びとを刺激し、かわいそう、ひどすぎる、という気分は多くの人に共有されていた。そこにべ平連が「誰でも入れる」という行動の場を提供し、運動は広がっていったのである。

 ベトナム戦争に対して社会的関心は高く、この悲惨な戦争に対して黙っていていいのかと思いながら、行動に踏みだす勇気と行動する場を持たず動きだせずにいる、そういう人びとにべ平連は「自分なりの行動を」呼びかけ、カンパ活動や老人から子供まで入れるデモ等、参加しやすい形の行動を提起し、行動する場を開いたのである。

「やらなければならない」と思うのは、「沈黙は同意につながる」と考えるからであり、あるいはベトナム戦争の悲惨さに感情的に「とにかく何もしないでいるのがたまらなく苦痛」であると感じるからである。自分自身を状況から切り離して考えず、何もせずにいることは何もしないことによって、現状を容認し加担することにつながると考える。そして、その加担から自分を切り離していくために何かをしなければならないと考えるのである。

 べ平連の大きな特徴は「組織ではなく運動体であること」を強調し、規約も会員登録もなかった。「ベトナムに平和を!」、「ベトナムはベトナム人の手に」、「日本政府はベトナム戦争に加担するな」ということを主張し、行動するとき、その時その一人一人がべ平連なのだった。そこでは個人の自発性が大きな意味を持つ。ベトナム戦争に反対して自発的に立ち上がった個人個人がつながっていくことでべ平連は成り立っていたのであり、反戦運動に自発的に立ち上がれるだけの強さを持った人ひとの運動だったのである。

 さて、その個人個人はどのようにつながっていったのか。小田実は人びとの集まりを「われら」という言葉ではなく「われ=われ」という言葉によって表現する。個人が集約されて一つの集団となり、外に対して切り離され、内に対しては集団に個人が埋もれてしまうような集団のあり方ではなく、あくまで一人一人の人間がいて個性が尊重されながら、「われ=われ=われ=…」というように無限につながっていく人と人の結びつき方がイメージされている。それがべ平連のめざした関係のあり方であり、その個人と個人を結びつける力は、ベトナム戦争に反対する意思にあった。

 差異を消し去り同質化を図るのでもなく、差異ばかりを強調して対立しあうのでもない。一人一人の個性を認め、自分が一人であるという孤独感に耐えながら、そういう一人一人がつながれる点において結びついたのが、「われ=われ」のつながりだったのである。ベトナム反戦をより強く訴えていくにはともに行動をしていく人を増やしていく必要があった。その必要にせまられて止むを得ず行動を共にするという側面もあるだろう。しかしべ平連のしようとした人と人の結びつき方はそのような消極的側面以上に、個人個人が互いの個性を認めあいながら、一つの点によって結びついていく方法として評価できるものではないか。

 個人と個人の結びつきによって運動を実際に行っていく際のルールとして、べ平連には「言い出しベエの原則」というものがあった。

 (1)言い出した人間がする、(2)人のやることにとやかく文句を言わない(そんなひまがあったら、自分で何かしろ)(3)好きなことは何でもやれ。

自分がアイデアを出したときは、その行動のなかではその人がリーダーシップをとる。自分が言い出しておきながら他人にやらせるということをせず、また指導者がいて誰かのアイデアを採って運動を指導するということもしない。指導・被指導の関係が固定化されていくと、もともとは横のつながりであったとしても、命令・服従の縦の関係に転化し、組織のピラミッド化を招く危険性をもっている。べ平連には自分がいつも落し穴を持っていること、危険性をのぞききれないことを意識しつつ、何らかの仕組みによってその危険性をできるだけ小さくしていこうという姿勢があり、この一つ目の原則もピラミッド化の危険性を小さくしていくための役割を持っていたのではないか。思想、信条のさまざまな人たちが、指導・被指導という関係を固定化させず、行動を押し進めていくための原理が運動のなかで作り出されたのである。

 べ平連では各人の個性を尊重し、集団があって個人があるのではなく、ベトナム戦争に反対する個人、一人一人がいて、その一人一人がベトナム反戦のために結びつくことで成り立っていた。そして、あくまでベトナム反戦の行動を進めていくことを根底に置きながら、それまでにあったピラミッド型の組織のあり方に対して、はっきりと違った人と人の結びつき方をつくりだそうとしていたのである。

 さて、べ平連が大きな役割を果たしたものとして共同行動というのがある。

 共同行動は、1968年の6月に3月のジョンソン大統領声明を受け、ベトナム戦争即時全面中止と佐藤政府が責任をとることを要求するために始まる。

 この共同行動は6月、10月、4月、と回を重ねられていったが、70年に入りセクトの対立が強まる中で、ついに内ゲバを防ぎきれなくなったのである。70年の4・28沖縄デーの同行動において、革マル派の参加を他党派が実力で阻止するという事態に、べ平連他市民運動団体が主催団体を降りるということが起きる。しかし、その後も市民が諸党派の間に立って内ゲバを防ごうという試みは行なわれている。内ゲバを防ぐために市民は消耗し、共同行動はだんだん難しさを増していったが、68年に行なわれた最初の6月行動は「美しく感動的な集会とデモであった」と高揚感と解放感をもって語られる、多様性が互いに尊重されつつ調和をもった共同行動が実現されている。状況のなかで制約を受けながらも、多くの人がつながる新しい関係のあり方の試みとして、この共同行動はあるのではないだろうか。

 べ平連が目指した関係のあり方は、ベトナム反戦のための方法であったと同時に、ベトナム反戦が政治権力が生み出す抑圧に反対することにつながっていったことからすれば、権力に対する対案としての関係という意味を持っていたとも言える。

既存のピラミッド型の人間関係、価値体系から離れた所より出発し、水平な人間関係の下で運動を進めてきたところに、べ平連の独自性はあるのだろう。しかし、それでもなお内ゲバを防ぎきれなかったのは運動という物がいかに難しいかということをあらわしているのではないだろうか。

 60年代の日本において、経済の成長による賃金の上昇と量産量販に伴って大衆消費時代が到来し、マイホーム主義と呼ばれる私生活中心主義が生まれていった。人びとの関心は、マイカーを持ち、多くの物に囲まれたアメリカ的豊かな生活へと向けられていった。それは内向きの関心であり、社会に対して無関心になっていく傾向が指摘される。べ平連で行動していった人びとは、反戦運動によって社会と積極的に接点を持っていったわけだが、組織に縛られることを嫌い、「私」に重心を置いていた点で、この私生活中心主義の傾向と実はほとんど同じなのではないか。「公」によって干渉されることを拒み、「公」に対して「私」を確立しようという姿勢がまた、逆に積極的に「公」に関わっていくことにもなった。現代の社会的無関心と言われるものとの違いはそこにあるのかもしれない。

(以上)

(蛇足) 最初、このレポートを拝見したとき、このベ平連は立派過ぎる、と感じました。それで、レポートのコピーを送ってくださった埼玉大学共生社会研究センターの藤林泰さんに、「ベ平連の理念は捉えていると思いますが、これは理想型であって、現実はそれほどうまくはゆきません。立派すぎます。このとおりなら、あまり苦労することもなかったでしょう。どんな集団にも、建前はありました。しかし、建前と現実との関係で言えば、ベ平連のメンバーは、建前からたえず外れてゆく現実を是認せず、常にそれを建前に近づけようとする意識的努力を忘れなかった、という点が他と違ったのだと思います」という感想を、送りました。
 それを見た高校の先生から、「……当初はムーブメントの難しさ(失敗の要因)を生徒に考えさせたいと思っていました。しかし、ムーブメントに携わった経験のない生徒たちに、それを考えさせるのはマイナスの影響の方が大きいような気がします。大人がそれを強調しすぎると、生徒たちはこざかしい評論家になってしまい、実践への意欲を失ってしまうでしょう。むしろ、理想を考えさせることで、実践への動機付けになるよう導いた方が教育的だと思っています。運動の難しさや挫折は、生徒たちが実際に運動に関わりながら、みずから肌で感じていってもらいたいと思っています」というご意見を頂きました。
 これに同意いたします。その後、再度、「運動論について考えるとき、「若者への絶望」「周囲への絶望」はついて回るのですが、それは若者への期待が高すぎるからだと思います。最初から期待しないでいると、わずかな萌芽に遭遇するだけで、ポジティブになれます。今回、生徒たちのささやかな文章に触れ、私はちょっとだけ彼らの将来に期待を持つようになりました。(ちょっとだけですけどね。)」というご意見もいただきました。 
 蛇足ながら、若い人のレポートをめぐる周囲の大人たちの意見もご紹介しました。他の方のご意見もぜひ「談話室」にどうぞ。(吉川勇一)

 

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