*  177 鶴見俊輔『思い出袋』(抄)PDFファイル(岩波新書 2010年3月)(10/03/20掲載)

  岩波出版の月刊『図書』で鶴見さんが80歳以後に、『一月一話』として連載されていた文章を集成し、それに書下ろしの新章「書ききれなかったこと」を付けて一書となった新書。そのごく一部で、ベ平連に関連したいくつか の文だけを以下に紹介します。

 政治史の文脈

 人を殺したくないと思った。学齢に達する前に、張作霖爆殺の号外が写真入りで家に投げこまれたころから、日本人が外に出かけてそこの人を殺すことへの恐怖は私についてまわった。学校に行くようになっても、この事件が私から離れることはなかった。
 そのあと、戦争をしないと誓う憲法ができた。これはうれしかったが、人を殺したくないという五歳からの自分の不安とは、かかわりのない理論として、新聞や雑誌や学校でとりあげられていた。さらに六十年近くたって、イラクへの派兵とそれについての論議に、ふたたび不安がよみがえった。
 イラクの戦争被害をやわらげにいった三人の日本人が、現地で人質になり、やがて解放されたが、日本政府に迷惑をかけたという声が高くなり、国会では、「反日分子」として追及する議員が出た。
 「反日分子」という言葉は、私が育ったころによく使われた。当時「暴戻(ぼうれい)なる支那を断固膺懲」(だんこようちょう)というふうにつづいて、新聞紙上をにぎわした。
 こういう言葉遣いは、今も残っているのか。そして現代日本政治史の文脈の中で、その文脈の記憶をもたない代議士によって復活し、今ふたたび私たちの前にあらわれた。
 イラクで人質になった三人の日本人を、米国国務長官パウエルはほめて、こういう若い人が出ないと社会は前に進まない、と言った。日本とアメリカとの前提の違いが出ている。
 なぜ、日本では「国家社会のため」と、一息に言う言い回しが普通になったのか。社会のためと国家のためとは同じであると、どうして言えるのか。国家をつくるのが社会であり、さらに国家の中にはいくつもの小社会があり、それら小社会が国家を支え、国家を批判し、国家を進めてゆくと考えないのか。
 四十年前、ベトナム戦争の中で米軍からの脱走兵があらわれた。宗教者会議(シノッド)を通して良心的兵役拒否をする個人を助ける制度ができた。シノッドの構成によって、その裁定はちがった。あるとき、君は子どものころから教会に行ったか、聖書のどこをおぼえているか、というメソジスト系カナダ人牧師の試問にあって、良心的兵役拒否の資格なしとして落第した少年兵を、私は家に引き取った。すると、ユニテリアン系のアメリカ人牧師が、自分がその少年兵に会おうと言って、私の家まできた。「君のお母さんは、どういうふうに君を教えたか、どういうことがいいことだといったか」と彼に問うた上で、牧師は別のシノッドをつくり、証明をつけて彼を基地に送り返した。
 人を殺したくないという感情は、「良心的兵役拒否」という法律用語よりも前にある。(『思い出袋』51〜53ページ)

言葉にあらわれる洞察

 私よりも若く、早くなくなった鶴見良行の著作集(全十二巻、みすず書房、一九九八〜二〇〇四年)を読んで、見えてくるものがあった。
 彼は日本の外交官の長男としてロサンゼルスに生まれ、米国国籍をもっていた。二重国
籍をもったまま日米戦争をくぐり、敗戦後二十歳に達して、自分の意志で米国国籍を捨てた。彼は日本国を、自分の意志で選んだ。
 英語はうまかった。彼が文章を書きはじめたころ、その論文は、やがてアメリカの大学に留学して、博士論文として出しても通るような形をそなえていた。明治・大正・昭和戦前・戦後の家族アルバムの比較分析などは、それまでの日本の社会学になかった新しい研究であり、アメリカでも新しい論文として迎えられただろう。
 国際文化会館の企画課長として勤務し、同時に声なき声の会、べ平連の市民運動に参加していたころの彼は、もの書きとしては、まだアメリカの学問のスタイルに属していた。しかし、著作集の終わりの二巻にあたるフィールドノートでは、もはやアメリカの学会に発表される論文には向かっていない。
 記録は今日の足跡を記すことを最終目的とする。フィリピン、インドネシア、マラッカで、エビ、ナマコ、ヤシの実の取得と売り買いの現場を歩き、その日の見聞をその日のうちに日記に書くことの積み重ねから、眼のつけどころが青年時代とかわり、文体も目線にあわせてかわっていく。すでに初老の域に入って、食材を自分で選び、自分で夕食を調理する、その残りの時間に日記を書く。見聞を記録するのは、気力であり、気力は、見聞に洞察を加える。アキューメン*(acumen)という言葉を私は思い出し、この言葉をこれまでに自分が使ったことがないのに気づいた。
 知っていることは知っていた。何年も前にサンタヤナ自伝を読んだとき、十九世紀の高名な、しかし平板な哲学史家パーマーについて、英文学科のノートンが、あの人はアキューメンを欠いている、と批判したくだりがあった。ノートン自身はアキューメンをもっていると自負していた。現に、私のいたころのバーヴァード大学で全新入生に課せられていた毎週七百五十語の作文という形をはじめた人で、それを教師が毎週批評することを通して、表現におけるアキューメンの大切さを教えようとしていた。私も恩恵を受けている。日本の大学教育に、その場所があるか。
 とにかく鶴見良行は、フィールドノートに、毎日の見聞を統括するアキューメンの働きを見せている。それは、彼の想像力の中でおこなわれた、米国に支配される日本から、アジアの日本へという舵
(かじ)の切り替えだった。
  :*acumen:keen perception,
Oxford little Dioctionary   
『思い出袋』115〜117ページ)

 脱走の夢

 私の上司になった課長は、かつて陸軍に召集されて中国大陸にわたり、中隊長に憎まれて命の危険のある方面深く偵察に送られた。偵察から生還すると、中隊長がみずから司令部に報告に行くと言う。
「おれが行ってきたんだから、おれが行く」と言ってけんかになり(もう少しおだやかな言葉遣いだったかもしれないが)、彼は銃の台尻で上官をなぐつて重営倉に入れられた。そのために昇級できず、上等兵で終わった。
 こういう不良くずれの役人はものわかりがよく、軍属として一番身分の低い私に仕事を任せて、どこかに遊びに出かけた。
 軍隊ぎらいの中年ものは、占領各地にいた。かなりの年齢に達していて、ヒゲをはやしてタバコをふかしてすわっている陸軍一等兵が街にいると、そういう人だと見当がついて、日本軍をおそれている私には親しみがもてた。
 それは、ヒゲのコミュニケーションと言って、人間社会には何千年も前から、そういう、言葉抜きのつきあいが成立していたと思われる。
 私は、内面の言葉が英語だったため、日本人が近づくと、それを見やぶられはしないかと緊張した。自服を着ていたが、「君の服はどうしてベルトの下が黒くなるのか」と言われて、手がベルトの下をこする癖があり、その癖まで見やぶられたと、恐ろしかった。それ以外に神経症の徴候が出なかったのは幸運だった。
 現地の娘たちは美しく見えたが、近づくことはなかった。日本人の女性にもひかれたが、「国家社会のために努力してください」などと手紙のむすびに書かれると、近づきにくかった。
 私の仕事は、大本営発表に出ることのない敵側短波放送を聞き、手早く毎日、自分ひとりで新聞をつくることだった。仕事としてはたいへんだった。八十五年の生涯で、このときほど働いたことはない。二度の胸部カリエス手術のあと、内地に送り返された。
 夜中にラジオ放送のとだえたとき、官舎の外に出ると、遠くからガムランの音楽が聞こえた。
 村の暮らしでは、夜中になると涼しくなって、小さい子も出てきて団欒の時間がある。軍隊からはなれてその一座に加わりたいと思った。
 かくまってはもらえるだろう。しかし何日続くだろうか。この島は陸軍の占領地域で、陸軍の憲兵が法律を守っている。これに対して、何日もかくまってはもらえない。
 脱走は夢だった。この夢に、他人の脱走を助ける役割をとおして近づくことができたのは、それから二十四年たって、ヴェトナム戦争から離脱する米国兵をかくまう「べ平連」の活動に参加したときである。私にとっては、それは年来の夢が実現したのであって、突然の決断ではなかった。(
『思い出袋』166〜168ページ)

 体験から読み直す

 ミドルセックス校に定住してから半年、ともかくも大学入試を受けることにして、課目を英語
(これが難関。英文学と読みかえるほうが実態に近い)、近代欧米史の二課目とした。そこで米国史だけ、後見人シュレジンガー(シニア)に相談すると、三冊推薦してくれた。一つは彼自身の著書『米国社会精神史』、二つめは彼の師チャールズ・A・ビアードの大冊『アメリカ文明』、三つめは、近年広く読まれているジェイムズ・トルズロー・アダムズ著『アメリカという叙事詩』だった。それにミドルセックス校で教科書として使っていたマジー著『米国史』とカール・ベッカー著『近代ヨーロッパ史』を加えると、入試の一課目のための準備は五冊となる。いずれも、日本の本としてとらえると、千ページを越える大冊である。教科書として読んでいても、私にはベッカーのヨーロッパ史はおもしろかった。
 これらの本の叙述が私にとってくつがえされたのは、二十六年後と三十五年後の二度である。最初は、戦後に日本でヴェトナム戦争反対の運動で米軍からの脱走兵を助けたことによる。
 そのとき、べ平連代表の小田実が米国に行ってふたりの米国人と来日を約束してきた。ひとりは白人、もうひとりは黒人で、ふたりとも学生非暴力調整委員会
(SNCC「スニック」)を知った。米国に住む白人とおなじく、選挙の権利を与えられはした。しかし行使することは妨げられた。特に南部においては。南部では、投票所に行こうとする黒人はKKKなどの白人グループにかこまれ、それを排して行こうとすれば首吊りの私刑にあった。
 それをしゅうだんの行動によって突破したのが、フリーダム・ライド
(バスの中で白人・黒人を分ける場所指定に従わない行動)の実践で、やがて学生非暴力調整委員会の運動に移行する。小田実はこの会のふたりを呼んで、北海道から沖縄まで、日本を縦断するティーチ・インをおこなった。白人はハワード・ジン(二〇一〇年一月死去)、黒人はラルフ・フェザーストーン。フェザーストーンは沖縄の集会で、そこに集まった現地の人びとの反応から、日本は沖縄と沖縄以外に分断されているという感想を持ち帰った。
 ティーチ・インが京都であった夜、ジンは檀王法林寺に泊まり、フェザーストーンは私の家に泊まった。彼は、米国に帰ってから、乗っていた自動車を爆破されて殺された。一九七〇年三月九日。
 米国での受験勉強を修正したもうひとつのことについては次に書く。(
『思い出袋』194〜196ページ)

 

… ベ平連は非暴力抵抗の運動だった。しかし、自分たちの中にヴェトコンに対する共感があった。ふりかえると、ヴェトコンは、アメリカ独立の口火となったコンコードのミニッツマン(州兵)の戦いとおなじ性質をもつ。ヴェトナムの抵抗を指導したホーチミンが、一九四五年九月二日のヴェトナム独立宣言でアメリカ独立宣言を引用したこととあわせて、ヴェトナム戦争は、アメリカがアメリカと戦って敗れた戦争である。このことをアメリカ国民が理解するのはいつか。(『思い出袋』「書ききれなかったこと 」227ページ)

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