*  173 鈴木邦男組織か個人か =べ平連から学んだこと=(全文)(サイト『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』の「今週の主張」2月15日号に掲載)(10/02/22掲載)

 以下は、鈴木邦男さんのサイト、http://www.kunyon.com/shucho/index.html に掲載されている文章です。転載させていただきます。(写真は省略してあります。)

=べ平連から学んだこと=

@全国の高校の教科書にしたらいい

「ベタ誉めしてもらって…。ありがとう」と、いきなり言われた。吉川勇一さん(元・べ平連事務局長)に言われた。2月6日(土)午後1時30分、四谷の主婦会館で「樋口篤三さんの見果てぬ夢を語る集い」が行われ、そこで会ったのだ。

「あれは本当にいい本でしたよ」と私は吉川さんに答えた。〈これは教科書として全国の高校生に読ませたらいい。これこそが生きた歴史だ〉と、この本について書評した。「アエラ」(2月1日号)だ。この本といったが、『戦後日本スタディーズ2。60年・70年代』(紀伊国屋書店)だ。2400円だし、400頁近くあり、ぶ厚い本だ。でも一気に読んだ。それに「60年・70年代」は日本が最も輝いていた時代だ。私にとっても、60年の山口二矢事件で触発され、右翼になり、一度は運動を辞めたが、70年の三島事件で運動の世界に引き戻される。それ以来、40年以上、右翼の世界にいた。

だから、この時代には特別な思い入れがある。極端に言ったら、私にとっては、「60年」と「70年」のこの2つだけだ。これが全てだ。その中で、べ平連は、とりわけ気になる運動体だった。武装闘争の中核、革マル、社学同、そして赤軍派とは違う。といって、「合法」だけの日本共産党とも違う。入るのも、辞めるのも自由という。徹底した〈個人原理〉を貫いた組織だった。これは私らが一水会を作り、運動してきた時にも大いに参考になった。真似た。

一水会は、1970年の三島事件以降、昔の右翼学生運動をやった人間が集まり、1972年につくったものだ。学生運動の昂揚を体験し、全共闘と闘い、又、内部での争い、葛藤に苦しみ、傷ついた学生運動のOBにより作られた組織だ。大正時代、「老壮会」という左右を超えた勉強会があった。北一輝や大杉栄なども参加していた。老人も壮年も、そして右翼も左翼も集まって論議した勉強会だ。それを参考にした、と私は書いてきた。だから、それが新右翼の「正史」になってきた。

しかし、老壮会よりはべ平連だったな、と思う。だって、老壮会は、同時代に生きたわけではないし、その雰囲気も生では分からない。その点、べ平連は同時代だ。そして個人原理を貫いた運動体だ。生で見てきた。べ平連の人とは何人も会ったし、べ平連を辞めて一水会に入ってきた人もいた。だから、べ平連の影響の方が大きかったと思う。

一水会は、「入るのも辞めるのも自由」で、「除名」はなかった。右翼の学生運動の中で、その弊害をいやというほど体験したからだ。私自身も、命を賭けてやってきた「全国学協」の委員長になった途端に、除名されてしまった。そんな苦い体験もあった。だから、除名などない、「自由で明るい運動体」を作ろうとした。「右の側のべ平連」を目指したのかもしれない。いや、そうだ。でも、そのことは大声で言えなかった。「何だ、左翼コンプレックスか」と思われたくなかった。だから、「昭和の老壮会を作ろうとした」と「正史」には書いてきたのだ。

Aイデオロギーではなく、〈個人原理〉で分類すべきだ

『戦後日本スタディーズ』は全3巻だ。これで戦後の全てが分かる。その3巻の内容をちょっと紹介してみる。

〈第1巻〉「40・50」年代
東京大空襲。憲法。GHQ。復員兵。東京裁判。生活綴方教室。講和。サークル詩。朝鮮戦争
(インタビュー)井上ひさし、金石範、無着成恭

〈第2巻〉「60・70」年代
55年体制。安保。べ平連。三里塚。文革。水俣。アングラ。全共闘。リブ。連合赤軍。沖縄。コミューン。少年マンガ。
(インタビュー)田中美津(聞き手・北原みのり)
吉川勇一(聞き手・小熊英二)

〈第3巻〉「80・90」年代
ニューアカ。フェミニズム。おたく。ピースボート。バブル文化。グローバル化。オウム。9・11。イラク戦争。格差…。
(インタビュー)辻井喬、三浦雅士。

この全3巻は、壮大な「戦後研究」だ。そして、壮大な「証言集」だ。特に第2巻の吉川さんのインタビューに衝撃を受けたのだ。

人間を区分する時、よく、右翼・左翼という物差しを使う。その左翼の中で、日共系(代々木系)と反日共系(反代々木系)という分け方をする。共産党の本部は代々木にあるので、〈代々木〉と言えば共産党を表していた。そして反日共系(反代々木)が、一般的に新左翼と呼ばれる。べ平連も共産党ではないから反日共系(反代々木系)だ。つまり、思想地図としては、右翼と左翼がある。それに、昔はアナキストもいたが、今は絶滅種だ。そして左翼の中に新左翼(反日共)と旧左翼(日共系)がいる。大きく分けると、そうなる。

しかし、別の分け方もあるんだろう。これは吉川勇一さんのインタビューを読んで思ったことだ。それは何か。「個人原理」を生かせる組織か、殺す組織か。ということだ。

元々、組織は、「個人原理」を否定する。いや、個人原理を中心にして集まり、組織を作ると、今度はその出来上がった「組織原理」を守り、強固にしようとする。「民主集中制」をという言葉でそれを正当化する。つまり、一つの問題について討議する。皆で、好き勝手に議論する。100%の個人原理が保障されている。そして、多数決でその党の意見を決定する。そうしたら、それが「全員の決定」になり、皆はそれに従う。そのもとに闘う。「いや、自分は反対だった」と思っても、言ってはダメだ。党として、「一つの意見」で団結して闘うためだ。

もし決定した後でも多数決に従わないで、反対を唱え、行動する人間がいれば、「反党分子」として処分され、除名される。これは実は、右翼、左翼を問わずある。日共、反日共を問わずある。又、初めにおける「自由な論議」も実は、保障されていない。党の中央が、「こう思う」と提起したら、他の人間は逆らえない。だから、どう賛成するか。その賛成の程度をどう表すか。その「自由」しかない。党全体に「自由な討論」を保障したら、「敵の考え」や「反動の考え」「スパイの考え」が混入するかもしれない。そう思うからだ。それに、〈思想〉において同じことを考えている党だ。党中央の人がそれを提起したら、皆、賛同するはずだ、という思い上がりがある。

だから、「組織」を持つと、それが一つの「人格」になる。個人はその中で埋没する。いや、人格の中の「血液」になる。だから、共産党では、昔、支部のことを「細胞」と言った。人格を支える血であり、筋肉である。血液や筋肉が発言したり、自己主張してはならないのだ。それをやったら、「人格」が破壊される。

今までの組織は、敵(巨大な権力)と闘うために、こちらも強力な、一枚岩の組織にしなくてはならない。よく言えば「民主集中制」だ。それが組織であり、党である。右翼も左翼も、そう思っていた。だから、反党分子や分裂分子は除名しなくてはならないし、スパイは処分しなければならない。

ところが、べ平連は、そんな組織論を採らなかった。これは組織の革命だ。だって、デモをやって、入るのも自由、辞めるのも自由だ。又、地方でも、べ平連を作りたい人が勝手に作ってやればいい。勝手にデモをやり、集会をする。処分なんてしない。

B「べ平連三原則」は、いいね

べ平連は正式には「ベトナムに平和を!市民連合」という。〈市民〉という個人原理を前面に押し出したものだ。いわば、「市民運動」のハシリだろう。べ平連は吉川さんの他、小田実、開高健、鶴見良行…さんなどが参加した。

小田実は「べ平連三原則」として、こんなことを言っている。

「何でもいいから、好きなことをやれ」
 「行動を提案するなら、必ず自分が先にやれ」
 「他人のすることにとやかく文句を言うな(そんな暇があったら自分で何かやれ)」

これはいい。「言いだしっぺ原則」といって、1965年のべ平連が出来た当時からあったと吉川さんは言う。

べ平連は、「組織至上主義」ではないし、「反体制」でもない。「反日共」でもない。かなり柔らかい運動体だ。この本(『戦後日本スタディーズ2』)の中で吉川さんは〈国境をこえた「個人原理」〉として、べ平連のことを語っている。聞き手の小熊英二さんがこんなことを言う。

〈初期のべ平連は、自民党からもパネラーを招いて徹夜ティーチインを開き、それをテレビで生放送して、今の『朝まで生テレビ!』の元祖に当たるようなことをしてましたね。
 また意見広告の募金運動も『ボーイズライフ』という青少年雑誌に取り上げられたり、ジョーン・バエズを招いて反戦フォーク集会を開いたりしていた。これらも当時の左翼から「文化人のベトナム遊び」とか批判されましたが、それはどう思われましたか〉

「ベトナム遊び」なんて言われたのか。酷い批判だ。それに対して吉川さんは、こう答えている。

〈これこそ新しくておもしろい運動だ、という歓迎気分でしたね。プチブル的なんて全然思いもしなかった。それにバエズはスターであったけど、「第一に、私は人間であり、第二に平和の戦士であり、そしてやっと第三に歌手である」とか言ってたんですよ〉

これは凄いね。なぜ、べ平連が当時、それほど熱狂的に支持されたかが分かる。又、意外だったこともある。小熊さんの質問の中で知ったことだが…。

〈当時、鶴見良行さんが、いいバエズ論(「『志』の女 ジョーン・バエズ」 「朝日ジャーナル」1967年2月19日号)を書いていますね。逆に、穏健な反戦運動ということで、警察官や自衛官からもべ平連の意見広告運動に募金があったりしましたが〉

これは驚いた。それに、吉川さんの答えにも驚いた。

〈それも、おもしろいですねえ。そういう人々にまでベトナム反戦が広がっているのはけっこうな話だ、という感じでしたね〉

C「敵」をも巻き込む運動だ

吉川さんは、サラリと言ってるが、凄い話だ。だって、警察官や自衛官まで募金したという。もし、そんな事実があったら、それまでの左翼だったら、認めないだろう。あるいは必死に否定する。又、もし警察官、自衛官が「募金したい」と言ってきたら断るだろう。「体制側」「反動」「権力側」から金をもらったのでは、運動が誤解される。「スパイから資金提供を受けた」と批判されるだろう。そんな、諸々のことを考え、募金を拒否する。又、そんな事実があっても、「権力の謀略だ」「デマだ」と反論するだろう。

ところが、吉川さんは、それは「ベトナム反戦運動の広がり」だ、とサラリと言う。なかなか言えないことだ。「敵」側にいる人間すらも巻き込んでいる。又、そうした広がりがあったからこそ、「米兵の脱走」を手助けする、という冒険も出来たのだろう。

これは当時、衝撃的だった。「あのべ平連が?」と思った。「あの」というのは、明るく、自由な運動体で、「非合法」など一切やらないと思っていたからだ。大体、日本の運動は、どこか「苦行僧」のようなイメージがある。苦しい道を歩き、常に権力の弾圧にあい、それでも歯を食いしばって頑張る。というイメージだ。「楽しさ」「明るさ」が入るとその運動は「堕落した」と言われ、「プチブルだ」と批判される。

共産党系の民青(民主青年同盟)は、女性も多く、歌声運動などもやり、合法的運動をしていた。しかし、新左翼からは馬鹿にされていた。「歌って踊って恋をして」だ、と言われたのだ。「そんなことで革命が出来るか!」と罵倒されたのだ。我々、右翼学生も、民青を馬鹿にしていた。

同じように、「合法」「明るさ」のべ平連も、過激な新左翼からは馬鹿にされていた。入るのも辞めるのも自由な運動体では、単なる「仲良しサークルだ」「趣味の同好会だ」と言われた。でも、社会問題に目覚め、関心のある人々が入ってくる。そこを新左翼に狙われた。「一本釣り」でオルグされ、新左翼セクトに行った人は多い。又、べ平連のデモや集会に出る中で、「もっと過激に闘わなければ」「このままではダメだ」と思い、新左翼に流れていった人が多い。べ平連は左翼学生の「通過点」だと言われたこともある。「通過儀式」だったのかもしれない。

その事態に、「もっと強固な組織にしよう」と思った人はいたはずだ。「引き抜かれないように組織防衛しよう」と思った人もいたはずだ。しかし、やらない。新左翼の「草刈り場」になっても構わないと思っていたのか。吉川さんに今度、その点をじっくり聞いてみたい。

実は、学生時代、私らも同じ「悔しさ」を味わったことがあるからだ。私は「生学連」(生長の家の学生部)に属していた。そこは開放的な宗教だった。宗教を基盤にした愛国運動も行っていた。開放的だから、誰をも拒まない。他の右翼団体や他の宗教団体の人も、入ってくる。そして、個人的に知り合って、オルグをかけてくる。特に、原理研究会(統一教会)だった。随分と引き抜かれた。生学連の学生は真面目で、ウブな学生が多い。親が「生長の家」で、「生学連の集まりに行きなさい」と言われ、「はい」と素直に参加するような男女が多い。その人々が、原理研の一本釣りにあったのだ。「生長の家」の学生道場に私は住んでいたし、そこは幹部クラスの人間がいたが、そこも狙われた。ある日、道場生が消える。どうしたのかと思うと、原理研にオルグられて、生学連を辞めた。今は北海道で珍味を売りながら原理研の伝道をしているという。そういうことが何度もあった。

Dさらに、脱走兵を亡命させる

原理研、許すまじ、と思ったし、断固、闘うべきだと思った。怪しい人間は、集まりに入れないようにすべきだ。原理研の本部に抗議に行こうと私などは言ったが、否決された。あくまでも自由な宗教だったから、出来なかったのだ。この『戦後日本スタディーズ』を読んで、べ平連の立場に同情した。それに関連し、この本の中で、こんな質疑がある。

〈小熊 当時は「べ平連トンネル説」といって、運動初心者は、まずべ平連の穏健なデモに参加して、政治意識が成長したらセクトに入るんだ、とか言われましたよね。日本赤軍の岡本公三とか、連合赤軍の加藤兄弟とか、べ平連のデモに参加したあと過激なセクトに入った人もいた。べ平連を経由してセクトに入っていく若者をどう思ってらっしゃいましたか?
吉川 それはまったく個人の自由ですからね。どう思ってもしょうがない。
小熊 べ平連の事務所で、セクトの活動家が若者を勧誘しているのを吉川さんがやめさせたという話もありましたが。
吉川 そりゃデモのあと喫茶店に行くとかなら本人の自由だけど、べ平連の事務所でやってりゃね。ここはそんな場所じゃないよ、やめなさいと止めた記憶がありますね〉

そんなことまでやられたのか。普通だったら、そんな奴は叩き出す。いきなり殴りつけてるかもしれない。査問かリンチにも発展する。しかし、吉川さんは人間が出来ているから、やんわりと注意する。とても出来ないことだ。

そんな、「トンネル」と言われ、「プチブル」と言われたべ平連だったが、何とも大胆なことをやる。日本に寄港した米兵に「脱走」を呼びかけ、実際に脱走した米兵を匿い、スウェーデンに亡命させたのだ。それも、何人も何人も。「あのべ平連が…」と当時、誰もが驚いた。過激な新左翼だって出来なかったことだ。吉川さんは言う。

〈脱走兵援助とか、国境とか国という概念を超える運動をべ平連は切り拓いたということだと思います。それまでの米軍基地反対運動は「ヤンキー・ゴー・ホーム」と言っていたけれど、われわれは「GI・ジョイン・アス」という言い方をした。国家という枠を捨てて、民衆同士の連携を持ったのは、前例のない運動だったと思います〉

でも、脱走米兵を匿い、ソ連経由で、スウェーデンに逃がすのだ。〈非合法〉だ。よく、そこまで覚悟し、踏み切ったものだ。又、それまで、〈非合法〉をやったことのない人々がやったのだ。よく、やれたと思う。JATECという組織を別に作って、そこが担当したという。しかし、「素人」で、よくやれたものだ。秘密裡に北海道まで連れて行き、船でソ連に逃がし、そこから中立国・スウェーデンに渡らせる。

日本の警察も必死になって追う。捜査する。それ以上に米軍が追う。脱走ルートを見つけるために、スパイまで潜入させた。つまり、「アメリカのベトナム戦争には反対だ!脱走したい」とべ平連に逃げ込み、そしてスウェーデンに行く。そこでJATECの内情や、脱走ルートを探るのだ。まるで、スパイ小説だ。でも、実際に起こったことだ。小熊さんが聞く。

〈1968年11月米軍からニセ脱走兵のスパイが送りこまれてソ連経由ルートが露見して使えなくなり、第一次JATECは活動が停止する。その後の第二次JATECではパスポートや入獄管理局の印までを偽造して飛行機に乗せるとか、本当に非合法行為に手を染めていきますよね。その時、かなり危険な領域に踏みこんでいるという意識はおありになりました?〉

Eアメリカとも、ソ連とも闘った!

それに対する吉川さんの答えにも驚いた。当時は米ソ冷戦の真っ最中だ。アメリカに反対することはソ連を利するかもしれない。しかし、そうはさせじという意気を感じさせる。ソ連とも闘っていたのだ。小熊さんに対し、こう答えている。

〈いいえ。それは、法律違反であるということは明白ですから、そういう意味での危険は感じましたけど、迷いはなかったですね。
 ソ連経由ルートが断たれた理由は、スパイが入ってきただけじゃないんです。ソ連側から、今後は原子力潜水艦の乗組員や将校、つまり米軍の秘密情報を得られる脱走兵しか受け入れないと言われてね。それはないだろう、ソ連さん、と痛烈に思いましたね〉

これは偉い。「ソ連の手先になどなるもんか」という気概があるのだ。でもソ連ルートが使えなくなって、その後はどうしたか。中国や香港を考えたり、日本の暴力団を通じて香港のマフィアと連絡をできないか。…とか、そこまで考えたという。これもすさまじい話だ。「脱走兵を助けてくれるなら、悪魔の手だって借りたいという気分でしたから」と吉川さんは言う。

「暴力は使わないが非合法は辞さない」という覚悟だったという。よくやれたものだ。むしろ、「奇跡」だと思う。

一水会は、自由な運動体であろうとして、べ平連から学んだことが多い。又、「非合法も辞さず」の勇気も学んだ。しかし、それは、やり通せなかった。時に、暴走し、逮捕者が続出し、「一水会はもう潰れた」と思われた。なぜ、べ平連はあそこまで出来たのか。不思議だった。

元日本赤軍の和光晴生さんに面会した時、べ平連の話になった。私の疑問をぶつけてみた。「それは合法部門が盤石だったからですよ」と言う。それが弱いと、ちょっと非合法をやると、合法部門まで、完全に潰される。そうして潰れた組織は多い。権力・公安だって、追いつめて暴発させ、自滅を誘ったことが多い。

今週は、べ平連の話だけで終わってしまった。2月6日(土)、「樋口篤三さんの見果てぬ夢を語るつどい」で、元べ平連事務局長の吉川勇一さんに会ったからだ。この集会では、元JR東労組委員長の松崎明さんにも会った。労働運動の大物たちが沢山来ていた。又、樋口さんのことも、もっと詳しく書きたかったが、又の機会にする。先週書いたように、樋口さんは09年12月26日、亡くなった。81才だった。樋口さんとは2年前、病院で対談し、それは『社会運動の仁義と道徳』(同時代社)の中に入っている。多くのことを教えてもらった。

2月6日の追悼集会では、『樋口さんの見果てぬ夢を語り継ぐ』が発売されていた。実に多くの人が書いている。その中に、私も、書いた。

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