161 田中美津インタビュー「未来を掴んだ女たち【第2部】」(抄)【聞き手】上野千鶴子 岩崎稔・上野千鶴子・北田暁大・小森陽一・成田龍一編著 『戦後日本スタディーズA 60・70年代』(紀伊国屋書店 2009年05月刊)に所収 09/05/13掲載)

 55ページもある長いインタビューだが、その中から、ベ平連運動に触れているごく一部を以下に紹介する。

 ◎新左翼とリブの分岐

上野 今回私は、リブの運動と歴史をきちんと話してもらいたいと思ってきました。一番気になっているのは、新左翼とリブの分岐は何だったんだろうかということ。
田中 分れ道?
上野 そう。『いのちの女たちへ』には、「十月十日(とつきとうか)月満ちて、リブという鬼子が生まれた」と書いてありますね。十月十日新左翼の胎内に孕(はら)まれてたリブって何だったんでしょう。美津さんの始めたベトナムの子どもたちの救援活動では、べ平連と行動を共にしたり、べ平連を名乗ったりしました?
田中 救援活動は自分たちだけでやってたの。それがやがて反戦のグループに変身してからは、べ平連や全共闘の呼びかける集会やデモに参加、べ平連とはいつもつかず離れずの関係だった。
上野 べ平連は、誰でも、自由に名乗ってよかったわけですよね?
田中 うん、でもべ平連って、スマート過ぎるっていうか……。自分のぐるりのことから世界とつながっていくという点では一緒だと思ったけど、泣いてるベトナムの子どもは私なんだという発想から救援活動を立ち上げ、やがて反戦にたどり着いた私とは、持っている言葉が違ってた。べ平連の人ってみんなすーっと当たり前のように「市民」とか「民主主義」とか言ってたでしょ。
上野 そういうのに違和感があった?
田中 そういう言葉と自分がしっくりつながらなくて。「市民」ってものに、女の私は入っていない感じがした。
上野 あの当時は国労の青年部とかが反戦運動をやっていて、自分たちのやっていることがそのまま加害につながるから、日本の基地から北爆の飛行機飛ばすなっていう主張をしてましたよね。
田中 そう、日本の繁栄はベトナム戦争に加担することでもたらされてる、私たち市民も沈黙してる限り加害者の側に立つんだという考えよね。それ、言ってることはわかるんだけれど、べ平連の「市民」って男でも女でもない存在みたいで、そこにスカスカしたものを感じながら、でも市民って言わないでどう言ったらいいのかわからないから、「私たち市民は…」なんて私もビラに書いていた。
上野 べ平連がかっこいいっていう見方もあるけれど、新左翼からはべ平違ってヌルい・ダルいと見られてましたね。目の前のキャンパスの中では闘争はどんどん武闘化していったでしょ。最初素手で行ってたデモに、今度はヘルメットが加わり、それからゲバ棒が加わってというふうに。ひとつの転機は火炎瓶が登場したことですね。その急速な武闘化のプロセスを目の前で見てたわけですね。
田中 私、学生じゃないから、目の前と言っても街頭で、たとえば御茶ノ水のカルチェラタン闘争のデモに参加したときに目撃したってだけの話だけど。
上野 美津さんは投石しなかったんですか。
田中 しない。火炎瓶放るのを見たりゲバ棒の林立を見たりとか、その程度よ。
上野 自分には関係がないと思っておられた?
田中 いや、関係ないと思わなかったけど、じゃ主体的に武装に関わりたいかというと、そんな気はまったく起きなかった。ヘルメットかぶって、自分で書いたビラをまいたりデモしたり機動隊に追われて逃げたりしてただけ。佐藤首相訪米阻止の闘いで羽田に行っても、ヌルい人たちに混ざって、なるべく過激なことをやらず、向こうからも過激にやられないようにと気をつけながらの参加だった。
上野 じゃあ組織にオルグされたこともない?
田中 ゼーンゼン。
上野 そうすると、「新左翼の中から十月十日月満ちて生まれた」という表現は、あなたにとって何を意味するのかしら。
田中 だって、私の中ではべ平連も新左翼の中に入ってたもの。
上野 はいはい、広い意味ではね(笑)。
田中 私たちの小さな市民反戦のグループの中には明治学院や早稲田全共闘のお兄ちゃんたちもいて、その後過激派のお兄ちゃんたちにも知り合った。いわば市民運動派から過激派まで、幅広く付き合ってきたって感じ。
上野 巻き込まれたことはない?
田中 私の場合は自ら巻き込まれたのね。新左翼の運動が総崩れした後、友人のアパートにある日呼ばれて行ったら赤軍派の若者がいて、「あなたのところにも泊らせてあげて」と頼まれた。戸惑ったけど、「ま、いいか、部屋もふたつあるし、一軒屋だし」と思って泊らせたら、だんだん赤軍派のアジトみたいになってしまって。でも断れたのにそうしなかったんだから、いわば自業自得。今思えば、新左翼の運動って盛り上がりが短かったね。そして壊れるときはだらだらと壊れていった。……(中略)

……
上野 組織とか党とかいうのはリーダーがいて、命令に従う。スタインホフが、ダッカのテルアビブ空港乱射事件の生き残りの岡本公三にリビアまで面会に行って、そのときに彼の言った言葉を本に書いてる。どうしてあんなことをしたんですか?っていう質問に対して「私は革命兵士です。革命兵士は命令に絶対服従するものです」って。皇軍兵士と同じ台詞なのよ。
田中 恐ろしいね。
上野 組織っていうのはそういう性格を持ってる。
田中 連合赤軍の連中もそう。
上野 それに対して、あなたたちが作ろうとした集団は――ほかのリブの集団もそうだったけど――リーダーを排除することを自覚的にやってたでしょ。組織アレルギーがあったから?
田中 べ平連から受けとったいいものがあるとするならば、トップと下部を作らない、ゆるやかなつながりこそがいいんだっていう考えで……
上野 じゃあ、べ平連から学んだ?
田中 学んだと思う。
上野 戦後の反体制運動というのは、前衛党があって、軍隊型組織で、エリート革命家たちがいて、指導される党員や大衆がいて、組織動員されてっていう組織型の運動だった。それに対してアンチを突きつけたのがべ平連。それに影響受けたのね。
田中 受けた、十分。べ平連は小さいグループの集合体で、外から見ると風通しがよさそうで、そういうのいいなと思った。で、自分たちの拠点も新宿リブセンターじゃなく、リブ新宿センターと名付けたのね、「新宿」を強調して。私たちは新宿の近くにある、リブグループのひとつにすぎない。私たちのようなグループがこれからたくさんできてほしいという願いからね。
 でもべ平連には代表の小田実さんがいて、鶴見俊輔さんも吉川勇一さんもいた。そういうすでに自分の輪郭がしっかりしてる人たちの言葉にみんなが耳を傾け、それがなんとなくべ平連の考えになっていくという、そういうちゃんとした大人がいての運動体という感じで、安定感があって、それが羨ましかった。私たちは目くそ鼻くそ、どんぐりの背比べみたいな陣容だったから。
 最年長の私は家事手伝いで、それぞれ学生だったりアルバイトで働いてたり、子育て中の若い母親だったり。八〇年代フェミニズム
と比べても、リブに集まった大多数は肩書もたいしたことない、どこにでもいる普通の女たちだった。
上野 リブの団体に代表の名前を聞いたら激怒されたというエピソードは、いっぱいありますね。実際にはそれは建前で、代表はいなくてもリーダーシップをとる人は不可欠なのに。
田中 不可欠よね。
上野 あなたは、最初の思惑とは違う立場に立たされちゃったわけですよね。
田中 リーダー的資質ってあると思うの。明晰で、言葉がわかりやすく、自然にみんなから敬意を持たれるとかの。私はそういうのとは違う。誰よりもミーハーで、面白がりで、自分勝手だったから。
上野 美津さんはカリスマだと思うよ。
田中 カリスマ性は、少しはあるかもしれないけど。
上野 それがあるから、今の職業が成り立ってるのよ。何せあなたには他人を乗せる言葉の力がある。
田中 小泉元首相と同じじゃない (一同笑)。……(後略)


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