160 吉川勇一インタビュー「国境をこえた『個人原理』」【聞き手】小熊英二 岩崎稔・上野千鶴子・北田暁大・小森陽一・成田龍一編著 『戦後日本スタディーズA 60・70年代』(紀伊国屋書店 2009年05月刊)に所収 09/05/13掲載)
 
これは全部で39ページあるかなりの長さのものだが、以下にはその中で、全共闘運動に触れた部分と、最後の部分だけを紹介する。

(前略)……
小熊
 だけど日大はむしろ例外で、そんなに学生が抑圧されていない大学にも全共闘運動は広がった。当時は高度成長の盛りで、就職率はほぼ一〇〇%。年長者には、戦後懸命に働いてやっと生活のゆとりができて、大学に通えるようになったのに何が不満なんだ、なんでこんな好況期にマルクス主義を掲げてゲバ棒を振りまわす必要がある、といった反応が多かったようです。吉川さんは、あの学生叛乱はなぜ起きたと思っておられましたか?
吉川 たしかに好況期ではあったけれど、一種の閉塞感が非常にあったからだと思いますね。つまりこれから俺たちどうなんの? 何になれるのか? 社会はどうなるんだ? といった閉塞感がかなり強くあった。それがひとつの原因だと思いますよ。
小熊 当時の若者の手記などを読んだ印象だと、二種類の閉塞感があったと思います。
 一つは、大学進学率が上がって、そのうえベビーブーマー世代が大学に進学して、大学生数が急増し大衆化したこと。そのため、昔は大学を出れば「末は博士か大臣か」という感じだったのが、「末はしがないサラリーマン」という感じになってきた。つまり「自分は何になれるのか? サラリーマンで一生を終えるしかないのか?」という閉塞感ですね。
 もう一つは、高度成長による社会の激変についていけない。彼らは幼少期は高度成長前の社会で生きていて、田んぼでカエルを採って育ったのに、高度成長を経た今はビル街の大学でつまらないマスプロ講義を受けていて、公害も出てきた。それで「これから社会はどうなるんだ? こんな社会は間違っているんじゃないか?」という閉塞感が湧いてくる。しかもその高度成長がベトナム戦争への協力に支えられている、日本の貿易の約二割はベトナム戦争特需だということが、彼らに加害者意識と反戦感情をかきたてた。
 こういう閉塞感を若者が感じていたというのは、当時の学生の手記などをよく読むとわかるんですが、当時の年長者はそれを理解していなかった。学生自身が明確にそれを言語化できていなくて、マルクス主義用語で飾り立ててしまったせいもあると思いますが。
吉川 そうですね。年長者はあまり理解していなかった。しかしべ平連内では、年長者でも鶴見良行さんはそこを理解していたし、武藤一羊さんも言ってました。そういう若者の閉塞感は、国際的に共有されていたんじゃないんでしょうか。パリでもロンドンでもベルリンでも。
小熊 武藤さんはアメリカの新左翼の文献を読んでいたし、吉川さんや鶴見良行さんは若者と親しくつきあっていたから、世間の年長者より彼らの感覚がわかったのかな。
 しかし吉川さんなどが若者の閉塞感を理解していたといっても、相違はあったと思うんです。たとえば、第一次羽田事件で「機動隊の前にわれわれの実存をさらすんだ」という有名なアジ演説が行なわれましたよね。あの世代を代表する歌人の道浦母都子にも、「迫りくる〔機動隊の〕楯怯えつつ怯えつつ確かめている私の実在」という短歌がある。つまり、高度成長による社会の激変のなかで、アイデンティティの危機を感じた若者が、機動隊や大学と闘うことで自分のアイデンティティや「主体性」を確認したいという欲求があった。
 しかし吉川さんは、一九六九年の「公開質問状に答える」という文章で、「私は、べ平連運動を一つの政治運動(政党運動ではない)と考えています。決して『主体性確立運動』でも『実存的自我確認運動』でも、もちろん『道徳運動』でもないと思います」と述べ、「政治運動である以上、運動の効果を考え」る必要があり、「問題のラジカルな形式による提起だけで、問題が解決できるなら簡単なことですが、そんなわけにはいかないでしょう」と述べている。これは大人の感覚というか、政治的効果なんか考えずにとにかく機動隊とぶつかってバリケードを作って自己確認をするんだ、みたいな感覚とは違いますよね。
吉川 そこは議論の分かれるところですね。以前にある講座で、僕と埼玉べ平連の元メンバーが話をしたとき、元中大全共闘の天野恵一さんが意見を述べた。彼によれば、全共闘運動はたしかに自己確認運動という側面があったけど、そこが若者の支持を広げたんだと。だけど僕は、学生のなかではそれで支持が広まったかもしれないけれど、大人を含めた大衆運動やベトナム反戦運動という大きな枠でいえば、支持を広める効果はなかった、むしろ孤立していく要因を作ってしまったという意見を述べました。政治的効果も考えずに、ただただ機動隊とぶつかってそのなかに生きがいを見出すみたいなのは、支持できなかった。
小熊 若者の自己確認運動であれば、若者の支持は広がるかもしれないけれど、世間の大人からほそんな青臭いことに関心ないよ、という反応が出ても仕方がないでしょう。……(中略)
(本書 254〜256ページ)

(中略)……
小熊 わかりました。それでは最後に、戦後日本の社会運動史においてべ平連はどのような存在だと考えますか?
吉川 大きすぎる質問だな(笑)。べ平連は日本初の市民運動だったわけじゃない。「声なき声の会」とかが一九六〇(昭和三五)年からあるわけですから。でも、最初の大規模な市民運動として成功したと思います。
 それから原水爆禁止運動とかそれまでの大衆運動は、国民運動と言っていたけど、べ平連は市民運動と自称した。これは日日米市民会議とか、日米同時デモとか、脱走兵援助とか、国境とか国という概念を越える運動をべ平連は切り拓いたということだと思います。それまでの米軍基地反対運動は「ヤンキー・ゴー・ホーム」と言っていたけれど、われわれは「GI・ジョイン・アス」という言い方をした。国家という枠を捨てて、民衆同士の連携を探ったのは、前例のない運動だったと思います。
小熊 しかしあえていうと、それは高度成長によって「労働者」でも「農民」でもない「市民」が大規模に誕生していたからできたことだ、また国際化の進展によって国境を超える活動が可能になったからやれたんだ、要するに時代の産物だとも言えませんか。
吉川 可能な時期に可能なことをやるのは、悪いことでも何でもない。それが可能になっているのに、既存の運動が発想の転換ができていないなかで、べ平連は時代の要請によく応えたと思いますよ。
小熊 それは私も高く評価します。しかし同じことを五〇年代にできたと思いますか。
吉川 同じことはできなかったかもしれない。しかしべ平連のもうひとつ評価できる点として、加害の問題をいちはやく提起した。たとえば一九五四(昭和二九)年にビキニ環礁の水爆実験があったとき、原水爆禁止運動が盛りあがったけれど、スローガンは「世界で唯一の被爆国日本」という被害者意識のものでしたよね。だけど少し想像力があれば、五〇年代の物質的条件下でも、ビキニの島々の住民が被爆していることは想定できたはずで、そうしたらずいぶん原水禁運動は違った様相を呈したと思います。べ平連はその限界を超えた。
小熊 それが国境を超えた活動ができたという評価と重なるわけですか。
吉川 そう。一言でまとめると、国家というものを相対化して、個人の自立と自覚によって組みたてる運動が、初めて大衆運動として成立しえたのがべ平連だと思います。
 べ平連が開拓したもののひとつである、市民的不服従とか非暴力直接行動も、自己の艮心なり自覚のほうが、国家の法律より優先するという発想です。『四時間で消された村』という、ベトナム戦争のソンミ村虐殺事件を取りあげたイギリスの記録番組があって、そこで虐殺に加わった兵士に次々インタビューをするんですけど、そのなかで一人だけある黒人兵が、命令を拒否したと答えていた。理由を聞くと、そんなことは難しい反戦思想とかの問題じゃない、教会に行ってりやわかることじゃないかというんですよ。
 これは今の日本でも同じです。たとえばあなたの子供なり孫の入学式のときに、君が代を歌えと言われたとき、あなた自身はどうするんだということとかね。
小熊 つまりべ平連の言葉で言えば「個人原理」ですか?
吉川 そうです。上からの命令に従うんじゃなくて、個人の自覚によって行動し、人を批判するよりまず自分がどうするかを考える。それが最終的には国境をも超える行動、市民的不服従の行動にもなりうるんです。
 べ平連があるていど成功した理由も、いちばんの理由は個人原理だったと思いますね。それまでは、個人が自分の思うように参加できる運動はなかったわけですよ。たとえば労働者も、労働組合という場から離れて自分個人の意見を政治的に表明する場はなかった。べ平連はその受け皿を作ったわけで、そのこと抜きにはああいう成功はなかった。この個人原理の意義は、現在の社会運動でも、まだ十分に汲み取れ切れていないと思います。
(本書276〜278ページ)

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