159 上野千鶴子×小森陽一×成田龍一「ガイドマップ60・70年代」(抄) 岩崎稔・上野千鶴子・北田暁大・小森陽一・成田龍一編著 『戦後日本スタディーズA 60・70年代』(紀伊国屋書店 2009年05月刊)に所収 09/05/13掲載)

 紀伊国屋書店刊の『戦後日本スタディーズ』(全3巻)の第2巻「60・70年代」の冒頭に置かれた上野千鶴子・小森陽一・成田龍一による鼎談「ガイドマップ60・70年代」の中で、ベ平連に触れられている部分の2箇所(ほかにも若干あり)を以下に紹介する。

(前略)……
上野
 ここで、ベトナム戦争当時、対抗勢力がどういった政治的な力を持ち得たかを、問いとして立ててみたいのですが。このとき保守政権はアメリカの極東支配戦略のなかに日本をがっちり組み込む選択をしたわけですね。その一環として、一九七二年の密約込みの沖縄返還もあったことになります。
小森 対米従属体制のなかにがっちり組み込まれながら日本の高度経済成長を実現していくという流れですね。
上野 それに対して、政治的な対抗軸を誰がどのように打ち出したかを考えてみると、事後的に考えても、べ平連以外にはなかったと思います。べ平連も政治闘争という形をとりませんでしたから、政治的な組織力や結集力を持ちませんでした。社会党と共産党は互いに対立していましたし、政治的な求心力を持ち得ませんでした。結果として、冷戦構造のもとで日本がアメリカを中心としたグローバル戦略のひとつの拠点になっていくという外交的なシナリオも、このときに確立されたまま変わってないわけですよね。
成田 そうですね。この時期につくられた構造が、さまざまな側面である種のプロトタイプになっていった。ただ、問題は先ほど上野さんの話にもあったように、その状況下で五〇年代的な対抗、つまり政治的な対抗がこの時期に廃れたことだと思います。
上野 労働組合運動が骨抜きになっていきます。
成田 大企業の労働組合が春闘方式を採り、労働条件の改善ではなく、経済的な問題を追求する方向に転換していく。
小森 労使協調で企業のおこぼれをもらうために、イデオロギー的な部分はすべて組合から排除していくという方向ですね。
上野 労働組合は経済闘争しかやらなくなっていく。一九八七(昭和六二)年に連合こと全日本民間労働組合連合会が誕生して、そこに合流するために総評(日本労働組合総評議会)が解散したときが、日本の戦後労働運動の最終的な解体だったと思います。労働組合はそれ以降、弱体化していきましたからね。……(後略)
 (本書26〜27ページ)

(前略)……

一九七二年と対抗文化の脱政治化

上野 こういった政治的な保守革命が進行していくなかで文化史を考えたとき、かつて対抗文化(カウンターカルチャー)と呼ばれた
ものが、いったいどんな役割を果たしたのだろうかを考えてみたいと思います。先ほどの小森さんの話にあった「反革命四人組」とい
う呼び名からいうと、私生活主義や内面の詠歎に人々を誘導するような装置として働いたにすぎなかったのでしょうか。
小森 そこへ急激に転換したのではなく、いろいろなことと構造的に連動しているのだと思います。当時私が通っていた都立竹早高校は建て直しで新宿高校の旧校舎を借りていましたから、新宿騒乱も、その翌年に新宿駅西口で岡林信康や高田渡らがフォークゲリラをしていたのも目の当たりにしたんですね。西口地下広場に吉田拓郎が来ると、「帰れコール」が沸き起こっていた。だけど、警察は道路交通法で「西口地下広場」の名称を「西口通路」に変え、歩くところだから立ち止まってはいけないと、集会を禁止する手に出た。最終的には歩きながら歌っていましたけどね。
上野 フォークゲリラは反警察闘争でしたよね。
小森 だけどそれが一気に制圧されて、美濃部都政のもとで歩行者天国になってしまう。ここで新宿の空間的構造が決定的に変わりました。新宿御苑でも機動隊がデモを防ぐために通路を堰きとめていて、権力というか行政によって、市民の憩いの場がもたらされている。同じ新宿にいた者としては、これ自体が病理ではないかと感じました。対抗的だったものが、ある日を境にして、なし崩し的に生活保守を支える装置に転換させられてしまった。
上野 対抗文化が脱政治化していった契機には、一九七二年があったと考えざるを得ません。あさま山荘事件の起きた一九七二年は、見田宗介さんの用語を借りれば、「理想の時代の終わり」でした。この事件で、理想主義の息の根を止められてしまった。革命的連帯を叫んでいた人たちのあいだで、合意によるリンチ殺人が行われてしまったわけですから。この事件が偶発的な出来事だったのか、それとも共同体主義あるいは理想主義の辿る必然だったのか。つまり「理想の時代の終わり」は、遅かれ早かれなんらかの形で来るべくして来るものだったのか。もし「総括なき連合赤軍」というものが存在するとしたら、彼らはその後もヒーローとして生きつづけただろうかと問いを立ててみると、やはり一九七二年のトラウマが対抗文化にもたらしたショックは無視できないでしょう。
成田 たしかに、総括なき連合赤軍があったとしたら、対抗文化の様相は異なっていただろうという思いはあります。体制に、距離こそあれ「ノー」と言っていた姿勢が、以後、サーッと引いて行ってしまいました。これまで対抗としての意味を押し出していたものが、自閉したり脱政治化していきました。カウンターカルチャーではなく、サブカルチャーという言い方がなされてきたのもこの頃のことではないでしょうか。同時に、「総括なき連合赤軍」という1f(イフ)はスターリニズムの問い方に関わり、左翼的文化や心情のなかにおける新左翼の登場の意味を考察することに連なっているでしょう。……(後略)
 (本書30〜31ページ)

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