156 中村誠 『金子光晴 〈戦争〉と〈生)の詩学(抄  笠間書院 2009年04月 09/04/29掲載)

 以下は、中村誠「金子光晴 〈戦争〉と〈生)の詩学」笠間書院 2009年04月 刊〉の中のごく一部のベ平連と関連して述べられている部分の抄録である。


 (前略)……このような全てを飲み込んで平然と歴史を継続させる東洋の「泥」という認識は、「ひとりごと」の他の一編である「――あめりか大使らいしやわあ氏に」にも現れる。

泥のなかから、一人の骨なし女が現はれる。/(中略)//さはらないことだ。泥は、君をよごすことよりしない。/黄ろい東洋は、君と、君の方程式とを分解し、底泥の一部として沈澱させることのほか、君をもてなすことをしらない。/からかはないはうがいい。それはナーガ(七頭の大蛇)で、一つをつぶせば、のこりの六つの顔が立ちあがるのだ。

「さはらないことだ」「からかはないはうがいい」、これはライシャワーに対してアメリカはベトナムから手を引けということを言ったに等しいが、東洋を知るライシャワー相手だからこそ、「底泥の一部として沈澱」させられる前に自ら手をひけということを「泥」という東洋の特性を引き合いに出して説得してみせたわけである。無論、この説得は「ひとりごと」で終わるしかなく、アメリカは以後「泥沼」のような戦争状態に突き進んでいく。そして、この詩から六年後、今度は怒りの対象がニクソンへと移動する。次の詩は一九七二(昭和四七)年五月一日の「負けるな市民・世直し集会」(べ平連主催)に寄せ、小田実によって朗読された「人間の敗北」という詩であるが、これは中央公論社版全集にも未収録であり目にする機会がほとんどないので、全文を引いてみる。

ニクソンの国の人々は、/平和とはしづかなものとは知つてゐるが、/そのしづかさは、あいてを皆殺しにして、/墓場のしづかさにすることと思つているらしい。//ニクソンの国の人々ばかりではない。/大国の考はおよそ似たり寄つたりで、/その責任は、少数の権力者だけではなく、/それを支持した国民の一人一人にある。// 朝空に、披璃(ガラス)のやうに澄んだボーイング。/清浄な死を運んでくる使者のゼラルミンが/ベーダロンのうへに現はれ、ハイフォンを/ハノイの小湖(プティ・ラック)、あの美しい小鳥と霧雨の町を、//飛ぶ肉片と血泥で汚そうとやつてくる。/人間が生きるために人間の血を流させることは、/彼らの神が邪神か、文明が偽物だつたのか、/それとも、人間が最初から失敗だつたのか。// まったく世話の焼ける野郎とあまだ。/ひでえ目にあって皮膚がべろべろむに剥(む)けても/そのからだで抱きあつてやつてゐた人間たち。/いぢらしくて見てはいられない。その悲運の極みを。/ 子にまで伝えたいのか。このへのこ野郎。(2)

 ベトナム戦争の終結から三〇余年の今日、金子の予言通り、ベトナムは何事もなかったかのようにすべてを「平気でのみこんで、すずしい顔」をし、今も泥流を湛えている。ホーチミン市の戦争博物館では、ホルマリン漬けの二重胎児を前にして、枯れ葉剤を撒いた側の国民達に淡々と解説を加えてもいる。
 しかし、たとえベトナムが「東洋といふ泥んこ」の中に西洋を飲み込んだとしても、「人間が生きるために人間の血をながさせる」 というのが戦争である以上、多くの兵士と民衆が生命を落としたという事実に違いはない。国家は再生されたとしてもかけがえのない一人ひとりの個人の命は帰らない。ここに詩集『泥の本』のもう一つのテーマが浮かび上がってくる。即ち、戦争とは〈代替不能の個人の命〉を奪うもの、そういう根元的な理由故に、忌避されねばならないということである。これは帝国主義や軍国主義とも、西洋/東洋という歴史的な抑圧/被抑圧の構図とも無縁なところから発想される反戦の論理であり、極めて自明な論拠であるが、マックス・シュティルナーの説く「唯一者」への共感を募らせた金子にとっては、ことさら重い意味を担うテーマとなるのである。そしてまた、生の途絶を強要しかねない戦争は、金子の死生観をも揺るがすこととなる。……(中略)

 ……また、評者によっては、多くの点からこの詩集を批判することもできるだろう。自国である日本に対する認識の甘さが露呈し、ベトナム戦争観が一面的な見方に終始しているというのもその一つである。なぜなら、「ひとりごと」はアメリカの戦争行為や西洋のアジア諸国への侵略行為を批判するものであったにも関わらず、アジア・太平洋戦争での日本のアジア諸国への侵略は全く相対化されず、日本を被害側としてのみ扱うという、偏った認識から作品が成っているからである。『泥の本』が載った『定本金子光晴全詩集』が刊行された翌年には、家永三郎の『太平洋戦争』(岩波書店、一九六八・二)が出版され、中国侵略の開始から戦争の進展、あるいは「大東亜共栄圏」の実態などが批判的に考察されたが、金子には戦後二〇余年を経た時点にあっても、日本をアジア・太平洋戦争の加害側として捉える視点が欠けていたと批判することもできるわけである。あるいは、沖縄の米軍基地からアメリカの爆撃機がベトナムに向けて飛び立つという「戦闘のための補給廠」(6)の役割を日本が担っていたということや、ベトナム特需で日本経済が潤うという構造を批判的に見据える視点が欠けていたとして批判することもできるだろう。
 また、ベトナム戦争批判の理論と具体的な抗議行動を合わせ持つ「べ平連」運動と比すとき、一九六〇年代後半の政治の季節を生きる若者に訴える力を持ち得たのは、実りを伴う活動に繋げた「べ平連」の方にあったはずで、金子の詩は実効性を伴わない空疎な言葉にしか映らなかった可能性もある(7)。かつて息子の徴兵を拒む詩を書き実際行動にも出た金子ではあったが、「イントレビッドの四人」の脱走を手助けした「べ平連」の活動(一九六七年一〇月)などとは異なり、金子は行動の人たり得なかったと批判することも可能である。
 しかし、『鮫』(人民社、一九三七・八)の詩人が日本帝国主義を批判する視点を忘れるはずはなく、これらの視点からの記述をなさなかったのも、戦争を取り巻く実態を〈生と死の諸相〉に収斂させ、そこから戦争の持つ害悪をあぶり出そうとせんがためであったと思われる。こういうノンポリ性は確信犯的であり、むしろ、積極的に余分な状況・関係性を消去したと考えるべきで、そのことは詩集後半においては一層はっきりしたものとなる。……(後略)

(注)
(2) 『べ平連ニュース』(一九七二年七月一日号)に載ったものであるが、この記載は用字・行分け・句読点などの表記上の厳密さを欠くようであるので、ここでは吉川勇一氏から送付して頂いたテクストに拠った。なお、場合によって各連の初めの行頭を一字空けて書き出すのは金子独特の表現方法であるが、ここでのそれは原稿に忠実であるのか、転記の誤り等によるのかは定かではない。
(6)トーマス・R・H・ヘイブンズ(吉川勇一訳)『海の向こうの火事 ベトナム戦争と日本 1965-1975』(筑摩書房、一九九〇年)一一四頁
(7)当のべ平連の側に位置する若者が金子をどう捉えていたかということを以下に付記する。吉岡忍は「六十年代後半から私はベトナム反戦運動に参加していたんですが、そのなかで、誰がいいだしたというのでもなく、金子光晴を読み出した」と記し、「ベトナム人が毎日何を食べ、どんなことを喜びや悲しみとして感じながら生きているのか」、そういうことを知るよすがとして読んだということを証言している(「金子光晴の『南洋』体験」、日本アジア・アフリカ作家会議編『戦後文学とアジア』毎日新聞社、一九七八年、一八二〜一八三頁)。彼らは〈ベトナム戦争という時代〉の中で、反戦詩を読み出したのでも詩人としての金子を発見したのでもなく、アジア放浪の先駆としての金子の位置に注目したのである。それ故、彼らが読むのは『こがね蟲』でも『鮫』でも『落下傘』でもなく、「南方詩集」を含む『女たちへのエレジー』や自伝三部作であり、ことに開高健絶賛の『マレー蘭印紀行』であった。また、べ平連の若者と金子の接点について吉川勇一氏に伺ったところ、吉岡忍氏・井上澄夫氏にも連絡を取った上、丁寧な返事を頂いた。それによると、山口文憲氏・室謙二氏・阿奈井文彦(穴井展彦)氏らも、当時金子の本をよく読んでいたということであるが、むしろ、べ平連が解散(最後の定例デモは一九七三年一〇月六日の第97回定例デモ)した後、それより若い世代の者がよく読んでいて、本を片手に東南アジアを歩き回る者が多かったということである。金子光晴全集出版の時期に当たり、その意味でも関心が持たれていたのではないかと言う。また、べ平連の若者たちにはかなり自由な男女関係があり、金子の女性問題での率直な記述も共感を呼んだ原因だったのではないかと推測されている。

(同書245〜263ぺーじより)

もとの「最近文献」欄に戻る    

ニュース欄先頭へ  placarhome.gif (1375 バイト)