155 吉岡忍「この国で生きるということ 吉岡忍が詠むニッポンの風景」(抄)  『週刊朝日』緊急増刊「朝日ジャーナル創刊50年 怒りの復活」2009年04月30日 09/04/21搭載)

原宿 光が囲い込み 排除する
(前略)……夕張からの帰り、空知支庁砂川市に立ち寄り、旧友小黒弘に会った。
ここの周囲も、旧産炭地。小黒は革工芸をやり、喫茶店をやり、いま四期目の無党派市議をやっている。
「オレの考えは、簡単だよ。起債ってのは、借金のことだろ。言葉でごまかすなって。普通の言葉で語れば、やっちゃいけないこと、やるべきことがわかる、ということ」
一九六九年二月から六月、毎土曜の夕方、東京・新宿西口地下広場。二十歳かそこらの小黒と私と友人たちは〈フォークゲリラ〉を名乗り、ベトナム反戦の歌を歌っていた。
二十人の輪が、数千人のうねりとな って、やがて私たちは、公安条例と道交法の違反容疑で逮捕された。
しかし、三十数年ぶりに会ったとき、話したのは別のこと。
小黒は言った。
「オレら、一度、日比谷野音でコンサートやったよな。満員だったけど、フアンみたいなやつばっかりで、つまらなかったな。この現実はおかしいって、世の中とじかに張り合うから生まれる緊張感がなくって、あんなの、音楽じゃなかった」
日比谷の連想から話題は飛んで、年末年始の日比谷公園派遣村。不況、派遣切り、リストラの深刻、資本や貧困ビジネスの非情もわかる。村運営の大変さは、もっとわかる。
だけど、昔、私はサンフランシスコでホームレス、凍える路上で寝起きしたから、少しは知っている。教会配給の、食事とコーヒーとシャワー、愛と優しさと励ましのあと、人々はまた一人にもどっていった。
「派遣村は、状況の結果だろ。あそこに来る前に、これはおかしい、と主張しないと。負けたっていい。一人で闘ったことのあるやつが集まって、初めて力になるんだから」
小黒はそう言い、私たちは、こんなことを口にするから団塊世代は嫌われるんだ、と苦笑いした。
     *
〈若者の街、ファッションの原宿〉を歩きながら、そうだ、フォークゲリラのアジトはこの近く、竹下通りの向こうだった、と思い出した。
あの頃も、光はあったが、アートは広告から距離を置こうと、もう少し意地悪かった。
あの頃も、広場はなかったが、それは勝手に自分で作るものだった。
あの頃私たちは、世間なんか知ったことか、世界の方が大事だと思っでいた。いまも私はそう思う。……(後略)
 (『週刊朝日』緊急増刊
「朝日ジャーナル創刊50年 怒りの復活」2009年04月30日 126〜127ページより)

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