153 和光晴生「日本赤軍とは何だったのか――その草創期をめぐって――(第二回)」 (抄) 月刊 情況 2009年04月 09/04/11搭載)

 月刊『情況』では、09年3月号から、和光晴生さん(1974年のハーグ事件、75年のクアラルンプール事件に関与したとして、逮捕監禁罪、殺人未遂罪で起訴され、一審は2005年3月23日に東京地裁で無期懲役判決、2007年5月9日、東京高裁で控訴棄却となり、まもなく下獄するとのこと)の手記日本赤軍とは何だったのか――その草創期をめぐって――」を連載している。4月号にその「第二回」文が掲載されているが、その中に、「旧ベ平連」系の人たちとして、「Tさん」と「Kさん」についての話が、かなり詳細に述べられている。以下、TさんとKさんについて触れられている部分のみを引用、転載する。全文はかなり長いもの(同誌で20ページ)であり、また、これ以後あと2号は連載が続くとのことである。関心をもたれる方は、ぜひその全文をご参照ください。

……(前略)……
旧「べ平連」系の人たち

 「リッダ戦士」や重信さんよりも早く、一九七〇年にPFLPと関係を持ち始めていた日本人グループがいた。日本国内で旧「べ平連」の非公然活動として、脱走米兵を支援し、北欧への亡命を援助したりしていた人たちで、ヨーロッパにも活動拠点を持ち、各国・各民族の革命組織や解放闘争主体とのネットワークを展開していた。その流れから、北欧、旧西ドイツ、フランスなどの在留邦人社会に根を下ろした日本人グループが形成されていた。
 一九七一年に、訪欧中の昭和天皇の車列に糞尿入りコンドームを投げつける行動を起こしたグループは、そんな在欧主体の中から登場したのだった。
 どんな経緯からなのか、私は知らないままでいるのだが、彼ら在欧グループの中からTさんとKさんの二人がアブ・ハニさんとの共働を始めるようになり、国際ゲリラ作戦向けの調査活動や、各国の革命主体との連絡任務などを担っていた。二人ともアブ・ハニさんからかなり信頼されているようだった。
 Tさんは東大仏文科筋の学者で、私大の助教授になっていた時期もある。Kさんは京大出身で北欧にしっかりした生活基盤を持っていた。七四年以降、彼らはアブ・ハこさん抜きに、重信さんとの直接の共闘関係を持ち始めた。それが彼らには極めて気の毒な結果をもたらすことになってしまった。……(中略)

 
「ホンヤク作戦」の始まり
 シンガポールでの作戦に一区切りがついた一九七四年二月の頃、重信さんと旧「べ平連」のTさんとKさんとがバグダッドで、在欧の日本人商社員を誘拐し身代金を要求する作戦を立案していた。当初はアブ・ハニさんに提案する作戦計画としてあったのだが、できれば日本人だけで実行したいという方向に話が進んだ。
 重信さんはアブ・ハニさんの指揮下から離れ、自立した日本人組織を立ち上げたがっていた。その原蓄となる資金を得るための作戦をTさんとKさんに相談していたのである。
 Tさん自身も、在欧の東南アジア人や南米人の政治亡命者たちといくつものプロジェクトを立案していて、そのための資金を欲していた。
 Kさんは、アラブの「アカ軍」とコネがあることを拠りどころにして、在欧の日本人グループの中でイニシアチブを発揮しようとしている様子が見受けられた。
 在アラブの日本人グループが実行部隊となり、調査やサポートを在欧の日本人や外国人亡命者たちのグループが担うという大筋の計画ができたところで、「ホンヤク作戦」と名付けられ、重信さんが一度、ヨーロッパに行って協力者と見込まれている人たちと会議を持つことになった。
 このあたりの経過は、その後、被逮捕者が続出して、自供も相次ぎ、すっかりバレてしまっている。重信さん、西川さん、それに私の裁判の中でも繰り返し引き合いに出されて来た。……(中略) 

 ……Tさんは東大の大学院を卒業後、フランスへの留学歴もあり、都内の私大に助教授職を得ていたこともあるかなりのインテリである。そんな人がアブ・ハニさんや重信さんと共働しているのは、私にはミスマッチに感じられていた。べ平連の非公然部門の活動として反戦米兵の脱走と北欧への亡命を支援していた経歴があり、その人脈を生かしてヨーロッパに活動拠点を築き、東南アジアや南米からの亡命者たちとの共働関係を深めていた。
 重信さんたちよりも一年ほど早く、一九七〇年には、PFLPとの関係を持ち始めていた。それでもTさん自身は組織と組織とをつなぐコネクターかブローカーのような活動を担って来た人であり、ハイジャックなどの国際ゲリラ戦を展開するアブ・ハニさんと共働するよりは、PFLPの公然部門の国際部と共闘する方が本人にはふさわしかったように思われる。
 七四年八月初め頃に、これら重信さん、足立さん、Tさんのブローカー三人衆による「三者会議」が始められた。三人のそれぞれのこれまでの活動について報告し合う形で二、三回討議が持たれたところで中断せざるを得ない事態が生じた。結局、「三者会議」はそれっ切りで終わってしまうことになる。

 
「ホンヤク作戦」大敗北
 重信さんたち三人が会議中だったところへ、アブ・ハこさんからTさんに「緊急事態が生じたのでフランスへ連絡役として急いで出発して欲しい」との依頼が届いた。
 後になって判ったことなのだが、七四年八月四日頃にベイルート空港からパリ行きの旅客機に乗ろうとしていた男性が一人逮捕されていた。この男性は在仏のブラジル人亡命者組織「アシェン・グループ」のメンバーで、私たちと一緒にアデンでの軍事訓練に参加していた人だった。
 アブ・ハニさんは、この男性に爆発物をフランスに持って行くことを頼んでいた。ところがベイルート空港の係官がチェック・イン前の彼の所持品を検査し、爆発物が発見されてしまった。出国者の機内持ち込みではない荷物がチェックされ、何らかの擬装が施されていたはずの爆発物が見つけられてしまったのは、これまででは考えられない警戒態勢がとられていたことによる。その理由は一週間はど後に判明した。
 アシェン・グループはTさんと以前から協働関係を持っていて、「ホンヤク作戦」にも協力することになっていた。それでアデンでの軍事訓練にもメンバーを送り込んでいたものと思われる。作戦に協力する見返りということなのか、アシェン・グループと関係を持つ筋が作成したニセドル札をアラブで換金できないか、との話が持ちかけられていたらしい。重信さんが五月頃に「ホンヤク作戦」の準備工作にむけフランスへK・Yさんと行っていたおりには、そんな話まで持ち出されていたのだった。
 私がヨーロッパでの調査・工作に見切りをつけてアラブに戻ることにした際、Tさんから、重信さんに届けるようにということで、ニセの一〇〇ドル札を百枚持たされたことがあった。重信さんは事前に出されていた話だったから何も言わずに私から受けとっていた。
 この件は、結局、こセ札の出来が悪いし、そんな話には乗れない、ということで、K・Yさんがフランスへ出発する時、アシエン・グループに返却するべく重信さんからの断りの手紙とともに携行していた。
 Tさんは、ベイルート空港で逮捕者が出たりしていたことから、七四年八月五日頃に、陸路でシリアへ行き、ダマスカス空港からフランスに向かった。パリに着いたTさんはヨーロッパ中で各国警察による日本人狩りが展開されている事態に直面した。アシェン・グループの主要メンバーは何処かへ逃走してしまっていた。
 こんな事態になったきっかけは、七月二七日にベイルート空港を出発したK・Yさんがパリのオルリー空港に到着したところで、空港警備員に怪しまれ、逮捕されてしまったことにあった。彼の所持品からパリの連絡役の日本人女性が割り出された。彼女のアパートから押収された住所録から、関係を有すると見られた日本人や複数の外国人グループが捜査対象とされた。
 K・Yさんはアブ・ハニさんから在仏の共闘組織宛ての手紙も三通はど持たされていて、その宛先となっていたトルコ人亡命者らも捜査の対象にされていた。
 ベイルート空港で八月四日頃にアシェン・グループの男性が逮捕されていたのも、パリで逮捕されたK・Yさんがベイルート空港からの直行便に乗っていたことで、特別な警戒態勢がとられていたことによる。
 そんな緊急事態が大々的に進行していたことを知らないまま、私たちはベイルートで会議を開いたりしていたのだった。
 七四年八月一〇日頃になって、ベイルートの私たちのもとに、Tさんがパリから発信した電報が届いた。K・Yさんが逮捕されたことを暗号で伝える第一報だった。
 その後、TさんやKさんを含む数名の日本人も拘束されてしまった。彼らはフランスの警察当局による取り調べに、「ホンヤク作戦」の概要や協力者たちについて多くを供述し、更に被害が拡大した。このおりの押収物や自供調書などが、その後、日本警察に提供されている。
 二〇〇〇年以降に開始された日本赤軍関係者の一連の裁判の中で、それらが検察側から証拠として大量に開示されたことで、「ホンヤク作戦」の全容、人の動き、役割等は殆ど明らかになっている。
 とにかく、K・Yさんの逮捕により「ホンヤク作戦」が完全に失敗に終わっただけでなくヨーロッパに大被害が広まってしまっていた。最早、在アラブの日本人グループの組織的な態勢を整えようなどと会議をやっているどころの事態ではなくなった。……(中略)

 
「日本赤軍」の創立
 在アラブの日本人グループが、アブ・ハニさんの指揮下から離れたことを、PFLP本隊は歓迎した。アブ・ハニさんがPFLP指導部に無断で国際ゲリラ作戦を展開し続けていることに対し、何度も処分決定が出されたりして、対立が深まっていたのである。
 丸岡さんは「ハーグ作戦」が決行される直前の頃にベイルートに帰還し、一年と数カ月ぶりに重信さんたちと合流していた。
 七四年二月、PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長が国連総会に初めて招かれ演説を行った頃に、「ハーグ作戦」の実行部隊もベイルートへ帰還した。それを機に、重信さんと丸岡さんが仕切る形で、いくつもの会議が集中的にもたれた。軍事活動関係者、組織活動関係者、ヨーロッパからの撤退グループあるいは経歴別などのグループごとに分けられていて、それぞれの会議の内容が全体で共有されることはなかった。
 ヨーロッパから撤退して来たグループの会議には、アラブ側からは重信さんと丸岡さんだけが加わった。「ホンヤク作戦」についてとらえ返すことよりも、ヨーロッパでの被害の拡大をもたらした被逮捕者の自供を問題にするようなことになっていたらしく、Tさんが重信さんたちとの関係を終わりにしたいと表明するなど、いろいろ問題が露呈していたようだった。
 軍事活動関係者の会議は、「ハーグ作戦」の報告確認のようなことに終始した。「ホンヤク作戦」のとらえ返しへと討議を進めることには、重信さんもK・Yさんも消極的だった。
 重信さん自身は「ホンヤク作戦」をめぐってあまりにも多くの判断ミスを犯してしまっていた。ヨーロッパからの撤退者グループの会議の中でのみ討議することに留めたがっている様子が見受けられた。……(後略)

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