138. 小熊英二小田実さん の死を悼む」 (『毎日新聞』2007年8月2日 夕刊) 

 以下は、全文です。小熊さんの諒承を得て転載いたします。
 

 小田実氏が死去した。近年、戦後に活躍した知識人の訃報をよく目にする。小田氏は敗戦時に一三歳であり、戦争体験を基盤として思想を形成した、事実上最後の世代に属する。戦後六二年という時の流れと、時代の区切れ目を感じずにはいられない。
 小田氏は一般に社会運動家として知られる。しかし彼は、六〇年代にベ平連(「ベトナムに平和を! 市民連合」)の代表として著名になった時も、また最後の病床でも「みな私を社会運動家と思っているようだが、私は作家なんだよ」と述べていた。
 彼は一九五一年に一九歳で初の小説を刊行し、五六年には二四歳で原稿用紙千二百枚の大著を出版した。また彼は一九六五年にベ平連の代表になるまで、社会運動に参加した経験がなかった。
 また小田氏は、「よく誤解されるのだが、疑うことを知らぬ陽気な豪傑ではなかった」と書いている。友人だった真継伸彦は、「長身痩躯」の文学青年だった小田氏を、「『過去に致命的な傷をうけ、行為不可能になった』懐疑主義者」と形容していた。
 そうした小田氏が、なぜ社会運動家として知られるようになったか。私は二つの理由があったと思う。
 一つは、小田氏の戦争体験である。彼は一九四五年八月一四日に大阪大空襲に遭い、そこで「一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていくのを見た」。ここで彼は「致命的な傷」をうけ、「懐疑主義者」になる。
 しかし小田氏は、原点である空襲の記憶が刺激された時は、座視していられなかった。六五年にベ平連の代表を引受けたのも、米軍の北爆をうけるベトナムの惨状を放置できなかったからだった。九五年の阪神大震災の際も、廃墟と化した神戸をみて空襲の記憶を想起し、公的支援の法制度を求める活動を起こした。
 第二は、彼が小説を多義的に捉えていたことである。懐疑主義者になった敗戦直後の彼は、人間の根源を探るべく古代ギリシア文学を大学で専攻した。周知のように古代ギリシアでは、詩や文学は、単独で成立しているものではなく、民会の弁論術をはじめ政治活動と不可分であった。
 そのためもあろうか、小田氏は「小説家になるために小説を書く」ことを嫌っていた。彼は自分の小説は、「胸のなかのさまざまなものが小説のかたちをとってあらわれて来た」ものであり、社会のすべてを多様な人びとの視点から描きだす「全体小説」を書きたいと述べていた。あるいはベ平連も、彼にとっては「胸のなかのさまざまなものが社会運動のかたちをとってあらわれて来た」、いわば広義の作家活動だったかもしれない。
 彼の懐疑主義は、ベ平連でも発揮された。ベ平連にはマルクス主義者も少なくなかったが、小田氏はマルクス主義を始め特定の思想を決して信奉しなかった。ベ平連に全共闘運動出身の若者が流入し、「内ゲバをも辞さない討論と対決のなかからのみ、強固な連帯が生れる」と主張したとき、小田氏は彼らを「人間」や「連帯」に絶望したことのない「ひとりよがりの甘ちゃん」とみなした。ベ平連を新左翼系の若者が批判しても、「まあ、どうでもいいんだよ」とうけ流していた。
 ベ平連は批判に寛容で内ゲバもなく、拘束のないゆるやかな連帯を創出し、後年の市民運動の原点になったともいわれる。そうしたベ平連の特徴に、小田氏の懐疑主義も一役買っていたといえよう。
 小田氏はよく、「人間みなチョボチョボや」と述べた。万人が常に偉大であることはありえないが、「どんな人間でも、あるときには、偉大であり得る、正しくあり得る、誠実であり得る、美しくあり得る」というのが持論だった。懐疑主義者でありながら作家であり社会運動家だった、彼らしい信念だった。
 小田氏はおそらく、自分が欠点皆無の偉大な英雄だったと描かれることは好まないだろう。しかし彼は、「あるとき」には偉大であり、誠実であり、美しかった。彼自身の望みであるかはわからないが、歴史に名を残す人物だったことはまちがいない。

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