132 栗原幸夫・池田浩士・天野恵一・水島たかし「『無党』の運動とは何か――シングル・イシュー運動で議会主義はこえられるのか」( 『季刊 運動〈経験〉』2007年21号)(2007/05/12記載)

 これは、『季刊 運動〈経験〉』2007年20号の栗原幸夫『未来形の過去から――無党の運動論に向って』をめぐって、多くの筆者が意見、論文をよせているのを¥受けて行なわれた座談会で、全体で14ページある長いものだが、その中で、ベ平連運動に触れている部分だけを以下に再録する。

天野 結論を暗記するのではなくて、課題、問題に具体的にそくして、一人一人が問題を考える、提起された問題を論議していく。ただ政治的、社会的行動へ向けての討論ですから、それなりの集約点を共有する必要がある。上から下への指導、暗記スタイルでない、討論を媒介にした集約へのリーダー・シップこそが必要ですね。
 こうしたことは、僕たちの日常の中でも運動的に体験され続けていることだとはいえますね。
栗原 これは「べ平連」の運動の遺産だといえると思うけど。討論すると、意見は当然わかれるわけね。党の場合、少数は多数に従うというのが義務づけられるでしょう。だけども、「べ平連」の場合、少数意見の人は、それを自分でやってください、というふうになる。それを許容するわけね。党の場合は、それは分派活動として許されないわけでしょう。そこが決定的に違う。だから、そのリーダー・シップは少数意見者の権利と義務と表裏の関係なのね。
池田 たまたま、その日にいなかった、あるいは、まだその時に入っていなかったメンバー、そういう人は新しく提案できるわけですよね。僕はべ平連のデモにだけは行きたくないと思っていた人間ですけど(笑)、その時、デートしていたりして不在だった人が、ヒョッコリもどってきたら、キチンと発言の場は保障されるんでしょう、「べ平連」では。そういうことは、ものすごく大切なことだと思いましたね。
 「いなかったやつが、とやかく言うな」というのが組織の論理になるでしょう。……
天野 ウーン、むずかしいですね 本当にヒデーやつっているでしょう。なにが理由であれ、討論に参加していない人物がヒョッコリあらわれて、偉そうに発言する(笑)。
池田 わかる、わかる(笑)。でも、結論をひっくりかえす権利があることは最低限認めなければならないでしょう。
 それと、「提案」の問題ですが、提案したら、自分で身 体を動かさなければならない。
天野 そうですよ、その責任感が不可欠でしょう。でもねぇ、そういう人ばかりではない。いいっぽなし、イバリっぱなしという人もいる。これが嫌だ。肉体で担う気もないのに指導者意識だけで動きまわる者だっている。それに課題セクトみたいなこともおこる。自分たちのやっていることに協力的でないと、別グループの別課題の相手がやっていることの苦労など、なにも考慮せず、悪口を吹きまくるこうした党派的なセンスは、私たちの運動の中にだって、いくらでもある。ともすれば、自分自身も無縁とはいえない。政治的な社会運動集団が必然的にまとってしまう「病理」ですね。
水島 そうかと言って責任感、義務感を人に強制するわけにはいかない、という問題もありますよね。
天野 だから大変なのですね 耐えなければならないから(笑)。
 ちょっと、無党派の選択ということと重ねて、この問題についてふれますと、僕はレーニンの『なにをなすべきか』を読みなおした時に、こんなふうに考えたんですよ。ズーッと若い時「目的意識」が党の意識で、それを大衆の「自然発生的」意識に注入するというロジックなんですが、僕は政治運動に入ってきた人間の「自然発生的」な意識こそが、党へ向かうのだと思う。国家と対時し、専門的な能率のよい専従集団思考、指導者集団思考は、自然発生的に生まれ続けてきた。だから「目的意識」的に追求されなければならないのは、そういった党的コミュニケーションとコントロールにならないようにするリーダー・シップだと考え続けてきた。大衆運動が自律するには、そういったコミュニケーションを自覚したリーダー・シップこそが必要。この「逆レーニズム」を目的意識的に実践すべし、資本主義ペケ、革命マルというのが「高い」意識なんてわけではない。国家や資本と対決する運動に入りこめば、そういう一般的認識なんてのは、自然発生的に出てくる。そういう一般的革命意識におぼれない、自覚的なリーダー・シップに基づく実践こそが必要と考え続けてきた。課題を具体的に分析し続ける集団的努力が大切(高い革命的意識の共有という結論から始まる運動ではマズい。『何をなすべきか』(党の論理)は、とってもこだわるべきテキストなんですね。だから、明示的に党をめざさない運動、あるいはノンセクトを自称する運動でも、自然発生的に党的なコミュニケーションが発生してしまう。そうならない自覚的努力がなければ。それが僕にとっては本当の意味の無党派運動の選択ということだったわけです。……

(栗原幸夫・池田浩士・天野恵一・水島たかし「『無党』の運動とは何か――シングル・イシュー運動で議会主義はこえられるのか」『季刊 運動〈経験〉』2007年21号 p.131〜133より)

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