117石田 雄「ベ平連の歴史的意味――加害の意識化」、「組織上の特徴」および「吉川『市民運動の宿題』」ほかの節石田 雄『一身にして二生、一人にして両身――ある政治研究者の戦前と戦後』岩波書店 2006年6月刊)(2006/06/09記載)

 石田雄著『一身にして二生、一人にして両身――ある政治研究者の戦前と戦後』(岩波書店 2006年6月刊) は、著者の自伝であるが、その中に「8.ヴェトナム反戦と市民の国境をこえた連帯」という章があり、ベ平連運動についての直接的な記述の節が6節含まれている。以下にそのうちの最初の3節だけを引用、ご紹介しておく。そのあとには、「脱走兵支援組織」「日米市民会議」「米紙への意見広告と米市民からの働きかけ」の節が続く。

 ベ平連の歴史的意味――加害の意識化
 さて、一年間メキシコで生活する体験を終えて日本に帰って来た私たち夫婦は、それまでにもましてアメリカのヴェトナム戦争に対して、より強い批判の姿勢で臨むことになった。実はべ平連(はじめは「ベトナムに平和を! 市民文化団体連合」、後に「市民連合」となる)が六五年四月二四日に、はじめてデモを催した当時には、私はハワイの東西文化センターの上級専門員をしており、妻と共にアラモアナ公園にむけてのヴェトナム反戦デモに参加していた。六五年九月に帰国してからは時おりべ平連の行事に参加していたが、常連というわけではなく、周辺的な参加者であった。メキシコから帰った後も前よりは密接になったが、参与観察者という立場には変りがなかった。そのような視点から、私はべ平連の歴史的意義を思想と組織の両面で次の点に見出している。
 まず第一の理念というか思想内容の点では、日本人が被害者であると同時に加害者であるという二面性を持つことを明らかにしたこと、とりわけ加害の面を意識化させた功績をあげるべきである。小田実が前掲『「難死」の思想』などで展開した考えは、まず彼が少年時代に米軍の空襲を受けた体験の回想から、北爆の下で同じように空襲を受けているヴェトナムの人たちの上に思いをはせ、日本人は米軍に基地を提供し、戦車を修理し、ナパーム弾の原料を生産するなど様ざまな形で加害に加担し、利益をえていることを意識するに至ったという内容である。
 このような加害者と被害者の両面性をとらえる見方は、朝鮮戦争のときには「特需」によって経済的に決定的な利益をえていたにもかかわらず、戦争に反対した人たちの間ですら広く意識されることはなかった。ヴェトナム戦争に際しては、戦争で使われるガソリンの輸送に当る鉄道労働者たちは、これを拒否すべきであると思いながらも命令によって輸送をせざるをえないという形で、加害への加担を意識せざるをえなくなった。たしかに基地周辺や野戦病院(都内の王子にもあった)の周辺住民は騒音に悩まされるなど、ヴェトナム戦争の被害者である。しかし同時に日本人はヴェトナム戦争に基地を提供し様ざまな便宜を提供しているという意味で、ヴェトナムの人たちに対する加害者である(このことを意識させた一つの契機となったのは、ヴェトナム留学生の武器搬出阻止の呼びかけであった)。この両面性は、アジア太平洋戦争の場合を考えてみても同じようにみることができる。日本国民は空襲などの被害者であったが、戦争を支持しあるいは参加していたことによってアジアの多くの非戦闘員を死傷させた加害者でもあった。
 誰がみても被害者であることが明らかな強制収容所内のユダヤ人においても、その中の一人として体験したプリーモ・レーヴィが記しているように、ほとんどの人が殺人の協力者にさせられ、その意味で「灰色の領域」に属していた(邦訳『溺れるものと救われるもの』竹山博英訳、朝日新聞社、二〇〇〇年)。そのような「灰色の領域」にいて、被害者と加害者の両面性を持つ者は、加害が意識されたときに、はじめて自己の加害による被害者の被害に対する責任を感じ、被害者につぐないをするための行動を選択することになる。べ平連の参加者のすべてに、このような加害の意識化と責任意識による行動の選択があったとはいえないが、小田の問題提起は、このような思想的可能性を開いたものとして注目すべきであろう。そしてこのような加害の意識化が実際の運動面で戦後補償の運動として生かされるようになるのは、なお冷戦終結に伴うアジア諸国での民主化の進行とともに、各国の戦争被害者が補償要求の声をあげはじめる九〇年代をまたなければならなかった。

 
組織論上の特徴
 第二のべ平連の歴史的意義として、その組織論上の特徴をあげよう。その特徴とは市民が個人としてコミットすることに対応したゆるい組織形態、すなわち一方では丸抱えという既存秩序に底辺では依存しながら指令主義的な規律を重視する、従来の組合にみられたような古い型の組織とは違った型を生み出した点にある。会員なし、役員なし、規約なしというこの新しい型の組織は、六〇年安保で明らかに示された「市民主義」によるものといえよう。具体的には「声なき声の会」が最初のよびかけにかかわっているという形での連続性がある(吉川勇一『市民運動の宿題』思想の科学社、一九九一年、九五頁参照)。すなわち最初の招待状は「声なき声の会」と小田実の名前で、文化団体と市民グループに対して発送され(前掲小林トミ『「声なき声」をきけ』九一頁)、その後個人参加の原則となって、べ平連の名称から文化団体の四文字が外されることになった。
 べ平連は発足にあたって三つの課題をスローガンとして掲げた。「@ベトナムに平和を! Aベトナムはベトナム人の手に! B日本政府は戦争に協力するな!」の三つであった(吉川前掲書、一一五頁)。このスローガンだけを共通の目標として、様ざまな大学、地域その他の単位でべ平連と称するものが次つぎに誕生した。共通の規約は何もなかった。何か暗黙の了解があるとすれば、それは小田が唱えたべ平連運動の「三原則〔?〕」とでもいうべきものであった。それは「@言い出した人間がする〔「言いだしっぺの原則」(同、一〇四頁)ともいわれたもので前述したアメリカの平和運動でもみられたもの――石田〕 A人のやることに、とやかく文句を言わない…… B好きなことは何でもやれ」というものであった(同、一四五−一四六頁)。
 そして三つの目標がヴェトナム休戦で達成されたとみた後に、最初の申し合わせにしたがい七四年一月二六日に解散式を行った。継続論も多かったようであるが、単一目的のための組織として筋を通したものであって、私はこのような終り方はむしろよい伝統を残したと思う。とかく組織が一度作り上げられると、組織で働く人のために組織が惰性によって存続するという悪い例を数多く知っているからである。
 以上述べたような特徴を持つ新しい型の組織としてのべ平連を、E・トレルチが使った類型論からみれば、従来の運動組織が教会型のものであったのに対してセクト型の組織だったといえるかもしれない。教会型とは、専門組織人(たとえば聖職者という職業的組織者)の階梯的な秩序を持った組織を指すのに対し、セクト型は縦の命令系列に従うことのない平等な個人のコミットメントによって作られた組織である。
 理念型としてのセクト型の優位性は容易に理解できるが、職業的組織専従者がいないことに伴う現実的困難があることも明らかである。「言いだしっぺの原則」に従って一つのイベントが催される場合、必要に応じて組織上の役割分担がなされ、各単位組織間の連絡も必要に応じてやられるという形で、べ平連の場合も通常は問題なく事は運ばれていた。しかし長期にわたる計画的指導をどうするかという問題は、別に解決されなければならない。
 実際に参与観察者の立場でみていると、この点で不安を感じる場合もあった。たとえば東京でJ・P・サルトルをよんで大集会をやるというときでも、そのあとをどのように生かしていくのかについて聞いてみても一向に分らない。やってみて考えるという答えがかえってくるだけなのは、大規模集会についての指導性の不足ではないかという不安を禁ずることはできなかった。しかし、このような場合は試行錯誤を重ねることで改善していくという考え方だったようである。
 
吉川『市民運動の宿題』
 一番深刻な困難は、誰でも参加できるという原則による場合、ある種の参加者――たとえば権力と実力で立ちむかうことが必要だと思っているような人たち――の行動が、一緒に参加している人に迷惑を及ぼすことのないようにするのにはどうすればよいかという点にあった。この点で一番苦労したのは、べ平連で事実上の事務局長の役割を果した吉川勇一であった。そして重要なのは彼自身がべ平連運動の経験を回顧し、前掲『市民運動の宿題』として整理して書き残している点である。私もこれを手がかりにして考えているわけであるが、まず彼のデモを組織する場合の配慮をみてみよう。彼は共産党員として平和委員会など教会型組織に働いていて後に共産党から追放された経験中から教訓を学んで、まず参加しようとする人たちの中から特定集団を排除するということはしない。しかし、その集団が他の集団に与える影響は考慮しなければならない。そこでデモの隊列を組む場合、先頭には女性、老人、子どもなど「足弱な」人たちをおき、ジグザグデモをやりたいと思うような集団は末尾において彼らの行動が他の人に及ぼす影響を少なくするように努めていた。
 この点について吉川自身の述べているところをみよう。「スローガンやデモの形式まであらかじめ決定され、それに従うよう統制される既成大組織のデモと違い、不特定多数の人びとが加わる市民運動のデモでは、参加者一人一人のとる行動が、一緒に参加しているさまざまな他の人びとに、どう影響を与えるか、それを個々人が配慮した上で自分の行動を選び、定めるという、自発的な自己抑制、自己相対化のかなり高度な判断が、参加者の一人一人に要請されるのである。べ平連の定例デモは、そういう行動に慣れてゆくための共同の学校でもあった」と(前掲書、一〇八頁)。デモの組み方についての配慮に感服していた私も、定例デモの教育的効果には考え及ばなかったことを反省させられた。
 六八年一〇月二一日の行動で新宿に騒乱罪が適用され、新宿周辺のデモが禁止されている中で、「絶対にジグザグ・デモをせず、交通を妨害せず、商店に迷惑をかけず、二列になり花束をもって、ベトナム戦争反対、米軍タンク車通過反対を訴えるデモ」という長い名前のデモを申請し、これを実現した(同、一四八頁)。権力に屈せず、しかし無用な衝突を回避しながら非暴力直接行動で平和運動の目標を達成しようとする姿勢は、同じヴェトナム反戦に関する運動の中で、前にあげた「忍草母の会」の闘争や修理された戦車の輸送を阻止しょうとした「ただの市民が戦車をとめる」運動に至るまで、共通した新しい動きとして注目に値する。

脱走兵支援組織
 (以下略)

 (同書161〜171ページ)
                                                     

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