107 栗原幸夫 インタビュー「そして無党の運動へ」( 『季刊 運動〈経験〉』No.14 2005.04.)(2005/06/06搭載)

 このインタビューでは、ベ平連が主催した1968年の「反戦と変革のための国際会議」〈京都)での問題点を、それを論じた当時のさまざまな人の意見を検討することから始まって、ベ平連論、さらに栗原さんの持論の「シングル・イッシュー運動」についての考え方が話される。 以下に示したのは、そのごく一部分。
…………
栗原
‥そうです。ここは非常に重要なところなんです。この本(小田実・鶴見俊輔編『反戦と変革――抵抗と平和への提言』学藝書房 1968年)だけ読むと、なんか平面の中で読まれちゃうから、どうしても党派的な革命主義の影響でこういうスローガンが出てきたんじゃないかと読めるかもしれないけど、そうではないです。それじゃなぜ、べ平連の中心部で、"Fundamental Social Change" という言葉で表現される思想が生れたかというと、これはいろんな形でいろんな起源があると思うんですけど、僕が理解するところでは、その頃産軍共同体がヘゲモニーをとってしまうような経済構造を変えようという主張があった。これはアメリカでもあったわけね。それが平和運動の重要な課題になってきた時期なんですね。日本の戦後の経済復興を牽引したのは朝鮮戦争特需だし、それがまたベトナム特需という形で日本の経済成長を支えている。そういう経済構造を変えないと、本当の平和な国家、社会あるいは国際関係、それはできないじゃないか、と。それだったらやはり、単にベトナム戦争反対と言うだけじゃなくて、ベトナム戦争への日本の加担を背後で支えているそういう経済構造自体を変えていかないとダメじゃないかという意見は、これは割にすんなりとべ平連の中で出てきたんです。それが「社会を変えよう」という発想の根拠だったと思う。後のことを考えると、それがあったから軍需産業だけじゃなくいろんな軍事に転化できるような産業の一株株主運動だとか、それからいろんな形での反公害運動、公害輸出反対運動というようなところに、まさにシングル・イッシュー的にべ平連の運動が七〇年代に入って広がっていったわけ。それの、ある意味では結節点になつているわけですね、この。"Social Change" という問題は。
天野‥ああなるほどね。三菱重工とか。
栗原‥そうです、そうです。だからね、これを「革命」の方に行っちゃったというふうに理解する、そうさせようとした人は確かにいたでしょう、きっと。だけどべ平連の中心部分はそう は考えなかった。
天野‥そこが一番大切なところですね。
栗原‥そういう意味で、これがないと、七〇年代に運動がシングル・イッシューに広がっていった根拠が、なかなか理解できないと思うんですよ。…………
 

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