104 栗原幸夫「時代と共振する身体を」( 『市民の意見30の会・東京ニュース』No.89 2005.04.01.)(2005/05/05搭載)

テキスト ボックス: 時代と共振する身体を
栗原 幸夫
 
 六〇年代にわたしたちが手に入れたものの一つに「相互主体的」という理念があったと思う。送り手と受け手、書き手と読み手、呼びかける者と呼びかけられる者、演じる者とそれを鑑賞する者、……そういう一方通行を、対等な主体の交代可能な関係としてつくりなおそうという理念である。
 以前にも「大衆化」という戦術はあった。前衛が自分の思想や政治的主張を大衆の間に持ち込み彼らを啓蒙し動員するという戦術だ。当然そこには、高い前衛と低い大衆という厳然とした差別があった。六〇年代の新しさは、このような前衛‐大衆図式をくつがえす「相互主体的」という理念をさまざまな分野に生み出したことである。ベ平連も間違いなくそういう理念を共有していた。
 ベ平連には各種各様の人が参加して各種各様の運動を自分たちで立ちあげた。そういう雑多な人の集まりのなかで、なぜ「相互主体的」な人間関係が生まれたのだろうか、と考える。そしてふと気がついたのは、あのときベ平連に集まってきた人たちはみんな、思想はばらばらでも、時代に共振する身体をもっていたな、ということだ。あの時代がどういうリズムを発信していたかは言葉で言うことはむずかしいが、それは言葉であるよりもまず音でありイメージであったからだ。そのリズムに乗りながら自分のビートを刻むことは楽しかったし気持ちがよかった。ベ平連が体現した時代性と、若者たちの時代感覚とがうまいぐあいに共振したのだと思う。ベ平連が体現した時代性は、前衛‐大衆図式を信奉する活動家やきまじめな倫理主義者には、いかがわしく不真面目なものに見えただろう。当時、そういう批判はうんざりするほど聞いた。いや、いまでも「なに、時代と共振する身体を、だと? そうやってお前は時代に流されていくんだよ」と軽蔑の眼を向けるあの人この人の顔はすぐに目に浮かぶ。しかし運動にはいかがわしい部分や不真面目な部分は不可欠なのである。すぐにパセティックになる純粋真っ直ぐ君には、「相互主体的」な関係などたんに観念のなかにしかない。
 あれから四十年をすぎたいま、ベ平連残党としてつづけるささやかな運動のなかでかえりみると、あのときのような時代と共振しているという感覚は、じぶんのなかにほとんどないということを発見して愕然とする。時代が沈黙してしまったのか。いや、そうではあるまい。われわれの耳が老化してしまったのだ。
 六〇年代がくり返されることなど絶対にあり得ない。ベ平連中興の祖などもし出てきたらそれはイカサマにきまっている。いまの時代は六〇年代とはまったく違ったリズムを刻んでいるのである。誤解のないように強調しておくが、ただそれにうまく乗ればいいなどというのではない。そのリズムをからだ全体で受け止められる身体性を獲得すること、そしてそれに向ってわれわれのビートを打ち込むことで、そのリズム自体を機能転換していくこと、これが重要だと思う。時代のリズムのなかにいて、ある意味ではそのリズムの担い手である若い世代の感覚を私たちはほとんど知らないのである。わたしたちはもしかしたら、「相互主体的」ということをせいぜい運動内部の人間関係だけに狭めてしまっているのではないだろうか。
 最近必要があって、村上春樹の小説をほぼぜんぶ読んだ。ついでにインターネットの検索
googleで村上春樹を検索した。四二万七〇〇〇件である。ちなみにベ平連は三五九〇。もちろんこの数字が特別な意味を持つわけではないが、しかしこの四二万という数字の向こうにあるものとわれわれとの関係を考えることは必要だと思う。それは運動に欠かせない想像力の問題だからだ。
(くりはら・ゆきお、評論家)

(『市民の意見30の会・東京ニュース』No.89 2005.04.01.)

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