102.  鶴見俊輔/小田実「手放せない記憶――私が考える場所」( 編集グループ(SURE)2004.11.)(2005/04/09搭載) 

 ベ平連以後、30年ぶりに行なわれた鶴見・小田両氏の対談の記録。ベ平連の活動についても振り返りながら、今なお繰り返される戦争について、二人のそれぞれの場所で考える方法を明らかにする。二人の立場の違いも次の引用のように明確に語られる。ここでは、鶴見さんの小田論の一部のみを紹介する。

鶴見 小田さんと私との違いから始めましょう。小田さんはしゃべることから始める著述家なんですね。知識人というのは、書くことから始めなくてはいけないという考え方があるが、それはどうなのかな。しかも、それが進行して横文字から始めよ、ということになって、横文字でないと信頼できないような動きですね。しゃべるというのは、人間があるところ言語があるわけです。その一番元の形を進化したから捨ててしまうというのは、具合が悪いわけですね。で、小田さんはその進化しない形をちゃんと持っている人なんですよ。だから、しやべることから始めるという基本を捨てない人なんです。
 そこに、もう一つのしゃべり方の問題もある。べ平連が始まってから八年半、一緒にいることが多くて、それは私の健康に非常に影響を与えたね。彼は三〇過ぎで、一日六回食うんですよ。それと付き合ってると、私は相当健康を害した(笑)。今、一日六回食うかはきわめて疑問だと思う。小田さんも七〇歳を越えましたからね。無理でしょう。けれど、小田さんは、そのようにしゃべる。しやべる、しやべる。食べてしゃべることが、考えるとか、行動方針と違うところじゃなくて、同じところから出てくる。
 今ここにかなりの人がいますが、もっと人がいて、二倍、三倍、四倍、一〇倍になっても、同じ調子でしゃべる。これは驚いた。もともと、付き合いのないところから始まったが、それは独特のスタイルなんです。大変に驚いたのはそれなんです。相手が一〇〇〇人超えても、同じ仕方でしゃべって、自分が考えるということが、そのまましゃべり方に乗って行くんですよ。難しいですよ。私は出来ません。私は人がたくさんいると、押される。これは大変驚いたことですね。一〇〇〇人いても、自分でしゃべりながら考えて、自分で考えることを「ここから演説にしよう」と切り替えない。これは驚いたなあ。それがべ平連だったんです。
 小田さんの立場と私の立場とは、全然違うんですよ。私は自分一人で考える。今でも、戦争反対の運動の中に残っているのは、自分の中にあの長い戦争を――私は一九三一年から数えますが――ずっと子どもの時から一人で歩いてきた自分が、自分の内部にいるんです。自分の内部にいるこの自分が結局、私の杖になっているんですね。そういうところが、大変違う。

 もう一つ、小田さんの特色は大阪空襲の中の難民の一人として、自分がどういうふうに動き回ったか。その時の自分の体験による地図を決して手放さないことなんです。
 あの時からほとんど六〇年たっていますね。だいたいの知識人というものは手放す人なんです。プラトンがなんて言ったかは覚えていますよ。だけど、自分が難民としてこのへんをウロウロ動いていたことは、その地図は手放してしまう。それが、日本のインテリというものの定義と言ってもいいくらいです。
 小田さんの場合には、自分の中に井戸があって、井戸から釣瓶で水を絶えずくみ出す。井戸と釣瓶の構造を六〇年間保ってきたということですね。
 それは大変なことであり、力学なんですよ。力学の法則というのがあって、物理学の一部としてどうなったかということは、知識人はきちんと数式にして説明できます。だけど、自分の中に井戸があって、その井戸から自分流の釣瓶を使ってくみ続けるという、そういう力学とは違うんですよ。
 片方の力学は非常に素朴ですよ。原始人としての力学です。片方はインテリのものであって、物理学の体系の中にスポッと入るし、高度の物理学の中でも修正されてその一部になっていきますね。違うものです。
 自分の中の井戸から水をくむ。自分流の釣瓶がなかったらどうなるのか、という問題。アインシュタインを理解できても、生ける思想にはなりませんよ。アインシュタインは、もっと別の人間なんだ。自分の釣瓶を持っていたんですよ。だから、平和運動家としても大変なことをしたんだけど。……

(鶴見俊輔/小田実「手放せない記憶――私が考える場所」 編集グループ(SURE)2004.11.

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