佐伯啓思『「市民」とは誰か――戦後民主主義を問いなおす』 PHP新書、1997年

第2章 戦後日本の「偏向」と「市民論」より 同書p.42〜45   ¥657

 「べ平連」はなぜ支持されたのか

 わたしが大学に入ったのは、昭和四十三年、ちょうど大学紛争が一気に噴き出した年であった。いわゆる全共闘世代なるものの登場である。

 わたしは、自分自身が全共闘世代に属するという格別な意識もないし、実際・そうはいいたくないというのが正直なところである。仮に全共闘世代というようなものがあるとしても、わたし自身は、この世代に絶えず違和感をもってきたといった方がよい、と思っている。

 しかし、それにもかかわらず、この世代に属する、つまり、この時代に一定の共通した空気を吸っていた者にとってはどうしても無関心ではおれないことがらというものがあり、その前では、全く無色透明、中立というわけにはいかないことがらがある。「市民」という言葉が呼び覚ます意味合いも、そのうちのひとつだといってもよいだろう。

 実際、昭和四十年代の半ばは、いわゆる六〇年安保から続いていた、市民主義なり市民運動のピークであった。狭い意味での市民運動は、全共闘系のラジカルな直接行動とも、組織された労働運動とも、また別の意味で組織された共産党翼下にある運動とも異なった、もっと自由で、平和で柔軟な反政府運動であった。これなら「一般学生」などと奇妙なカッコでひとくくりにされてしまった学生でも自由に参加できるというのである。

 むろん、市民運動に参加するのは、学生だけではない。組織されていない労働者や主婦、そして学者など知識人も含まれる。こうして、それぞれの職業や立場をもちながらも、それを横断して自由に連帯する「一般」の人たちのゆるやかな政治運動が市民運動であった。

 この時代の市民運動を代表した「べ平連」は、正式には「ベトナムに平和を!市民連合」と呼ばれたが、その指導者の小田実によると、「『市民』と、階級構成において、それがプチブルジョワジーであるとか、都会の住人であるとか、そういうことには関わりのない言い方です。たとえていってみれば、フランス革命に際して、あるいはパリ・コミューンの戦いに際して、参加者がおたがいに『市民(シトワイヤン)』と呼び合った。その意味においての『市民』だ」という。彼らは、「自由、平等、民主主義、基本的人権・自決・独立……といった『市民』の基本原理」をもって、これらを抑圧する勢力にたちむかうものだ、というのである。

 一見して明らかなように、ここにはフランス革命の影響が見られる。フランス革命が少なくとも一時的には達成したであろう、市民の全く自由で平等な政治空間、一種のコミューンができるのではないかという幻想がある。今では信じがたいことだが、この幻想が当時のかなりの知識人や学生をとらえていたのである。ちょうど六八年のパリでのいわゆる「五月革命」のニュースが、フランス革命やパリ・コミューンの連想に導いたということもあるだろう。

 小田実が宣言したことは、従来のマルクス主義からの決別である。つまり、労働者を組織することによって反体制的運動の主役とする、というマルクス主義からの決別であった。このような運動論は、もはや、階級対立から革命へという古典的マルクス主義がいきづまってしまった以上、当然出てくるものではあった。昭和元禄などと呼ばれ、まさに高度成長の頂点を迎えようとしていたこの時代に、階級闘争などもはや何の展望もないことは明らかだったからである。だから、「ベトナムに平和を!」なのである。もはや「経済」や「生活」では、反体制闘争は不可能であった。

 確かに、「経済」はもはや大衆の運動にはならなくなっていた。しかし、それにしても「ベトナムに平和を」は、大衆の生活から離れ過ぎていた。皮肉なことをいえば、この運動を支持した人々の、一体何人がベトナムヘなど行ったことがあったのだろうか。むろんテレビのブラウン管を通して、誰もがベトナムの悲惨を見ることもできたし、この戦争の悲惨を想像することはできた。しかし、いかに悲惨な映像を見ようと、それを見ているわれわれは、冬は暖かい暖房の、夏は快適なエアコンのきいたリビングルームのソファーに腰掛けて、テレビでこの悲惨を見物しているのである。

 だがそれにもかかわらず、なぜ、「べ平連」の運動はあれほどまでに支持されたのか。市民運動の求心力は、まさに、この欺瞞にあったとわたしは思う。プチブルなどといえば、ほとんどの市民はプチブルだった。しかし、市民運動の指導者はそれでよいという。テレビでベトナムの悲惨を見て同情すれば、りっぱに市運動に参加する資格がある。遠くベトナムの悲惨に思いが至れば、それで、われわれは十分に、われわれの、「日常の利益」を離れて、りっぱに、政治的活動に参加していることになるのである。

 わたしは、この種の運動に共感した人たちが、「ベトナムに平和を」などというプラカードを掲げて、警官隊の護衛付き(?)でデモンストレーションを行つたことを、今さら別に批判するつもりもない。ただ、わたし自身は、この種の運動にどうしても何らかのうさんくささを感じてしまうのである。

 

自己欺瞞としての市民運助

 

 そのころのわたしの気分を述べればおおよそ次のようなものだっただろう。

 ベトナム戦争そのものは、確かに、悲惨な事態には違いない。しかしそうだとしても、それが一体、ベトナムという国も知らなければ、悲惨ということの意味を肌身で感じることもないわれわれにどんな関わりがあるというのだろうか。テレビで見た悲惨から「同情」し、この「同情」がベトナム戦争反対という「正義」へと転化することは、せいぜい自己満足にすぎないではないか。あるいは自己欺瞞であるかもしれないではないか。なぜなら、わたしは、戦争の恐怖にも生命の危機にも全く身をさらしていないからである。

 それは「プチブル」である自分の正体から目をそむけるだけの欺瞞にすぎないのではないか。もしも、本当にベトナムから命からがら逃げだしてきた者がいたとしたら、こんな市民運動などくそくらえ、と思うだろう。それに、ブラウン管からかいま見た悲惨と「同情」が、戦争反対という「正義」を根拠づけるなどというのは、いかに何でも短絡過ぎるではないか。

 おおよそこのようなところであった。しかし、市民運動家なら、まさに、自分の身に関わりのないことに「同情」し、この「同情」が「正義」となるところに、政治的自覚を見る、というのであろう。このような市民の運動を通じて、大衆は政治的に成熟してゆく。実際、この単なる「同情」を「正義」にまで高める意識こそが「市民」の成熟した政治意識のありようだ、というのが進歩派左翼の言い分であった。

 ここに大衆やら民衆やらという言葉と「市民」という言葉の違いがある。市民とは、世の中で生じているさまざまな政治的悪に対して、一定の政治的意識をもった存在なのである。ここで一定の政治的意識といった意味は、彼の一身に直接関わることでなくとも、ある種の問題を政治的問題として引き受け、テロリズムや直接行動によってではなく、民主的なルールに基づいて政治化するということである。ここに政治的成熟があるというわけだ。

 なるほどこれはこれで結構なことではないか、と考えるのが普通がもしれない。しかし、この政治的成熟という感覚が、当時のわたしには何か、いかにも欺瞞的なものに思えたのである。つまり、ここでは、「市民」がいわば特権化されてしまうのだ。いや、もっといえば、「市民」という言葉を使ったとたん、この言葉を使った当人の自己特権化が生じているのではないか。「市民」という言葉で、彼は、彼の政治的意識の高さを語っているのではないか、ということなのである。

 これはいささかうがった見方かもしれない。確かにそうだろう。しかし、そうとでも解釈しなければ、この「市民」という言葉の魔術的な力を説明することはできない。べ平連などが「市民」といった時に、彼らが、実際上意味していたのは、いわば支配階層や支配集団(これがが何を意味するのかは別として、ともかくも権力の側にいる者)には属さない者たちであった。だから、別に、大衆や民衆という言葉でもよかったはずである。しかし、「市民」なる語は、ある種の魔術的効果をもって、独特の響きを帯びていたのである。

 

 (以下、久野収、羽仁五郎、松下圭一、大塚久雄らの市民概念への批判的検討が続く。)

       (佐伯啓思は、1949年生まれ。現在、京都だいたく大学院人間・環境学研究科教授。)

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