吉沢 南「ベトナム戦争」のなかの「二 市民運動――「個人原理」と持続性」より

〈岩波講座「日本通史 第20巻 現代1」に所収〉 p.357〜361.

 

……〈前略〉…… 

 「べ平連」は、各地方の小グループが発行したビラやポスターなどを含めれば、膨大な資料を残したに違いない。それらの一部は後に彼ら自身の手で資料集としてまとめられ復刻されている。それは研究にとって好都合というだけでなく、同グループ解散(バリ協定発効後の一九七四年一月)の後も「べ平連」運動を自己点検する姿勢を彼ら自身が持続していることの証でもあろうし、“ただの「市民」”といってもその推進者のなかに文章書きの学者や文学者などが多かったことも影響しているであろう。そこで「べ平連」のある側面を浮き彫りにできるのではないかという考えから、『資料・「べ平連」運動」(上・下、河出書房新社、一九七四年)などに中心的存在としてしばしば登場し、最近『「べ平連」・回顧録でない回顧」(第三書館、一九九五年。原連載は一九九〇-九二年)をまとめ、さらに彼本来の仕事である長編小説『ベトナムから遠く離れて』(上・中・下、一九九一年。原連載は一九八〇-八九年)を発表してい る小田実、それにかつて京都べ平連の中心メンバーで最近『復刻版ベトナム通信』(不二出版、一九九〇年)ならびに『飯沼二郎著作集4 市民運動研究』(未来社、一九九四年)をまとめた飯沼二郎、の文章を手がかりとしてみたい。

 よく知られているように「べ平連」は既成の左翼政党ならびにその影響下の運動を批判し(社会党、総評、共産党に対して。程度の差はあるが「新左翼」諸セクトに対しても)、鶴見俊輔・小田実ら知識人・文学者たちのリーダーシップにより、「ベトナムに平和を!」の志を運動目標として、既成の政治団体に組織されたくない・されていない“ただの「市民」”を幅広く結集させた。「べ平連」は“ただの「市民」”による運動と言いながら有名人の参加で話題となった。これはむしろ肯定的に検討されるべきで、ラッセル法廷でのサルトルなどの活動やアメリカの大学人・芸術家・ジャーナリストなどによる反戦の運動・行動に見られるように、知識人の積極的な政治行動化はこの時期の国境を越えた特徴であった。「べ平連」運動の真の意味は運動組織とそれに参加するメンバーとの関係を、良くも悪くも常に「個人原理」の側から考え構築しようとした点であろう。

 小田は次のように説明する。国家原理と普遍原理(自由の擁護など)とが一体となって個人に働きかけてきたら、個人は「いつのまにか、なしくずしに、日常的に、しかし、自ら進んで」どのような行為(例えば戦士となって弾を討つという行為)にでも荷担することができるようになる。そこで彼は、「せっぱつまった気持ちで「個人原理」のことを考え、そこに自分のよりどころを定めようと」して、普遍原理はその荷担にまき込まれながらまき返そうとする個人=「私」を通してのみ、国家原理との安易な癒着を回避しうるのであり、さらに「個人原理」もまたそうした努力を通してのみ国家原理に収斂されることのないかたちで普遍原理を生かしうる、という認識にいたるのである。戦争をこのように考える小田であればこそ、反戦争の運動について、「私」が反国家・反体制の運動のなかに加わっているから反国家・反体制でありうるのではなく、「私」が「私」自身の「みずから行う」行動によって反国家・反体制なのであり、その「私」が集まって反国家・反体制の運動になる、と語るのである。飯沼は、単純化しすぎの感はあるが、誰にも命令せず、誰からも命令されないという「個人原理」に基づく自主的な運動であると書いている。民衆を組織する指導部や運動体の側からもっぱら論じたり、運動体と個人の二極を立てその相互関係を論じたりするのでなく、一貫して個人=「私」を軸として運動を透視し、運動たらしめるという立脚点は、源流はもっと遡れるかもしれないが、この時期の「べ平連」の活動のなかに一つの画期を見ることができよう。

 一九九〇年に開かれた京都べ平連についての座談会で、飯沼二郎が「べ平連というのは、目の前で倒れている人がいたら手をさしのべる運動だったと思いますね。立ち直って起きあがった人が泥棒したって責任ないですよ」と発言し、小田実も「飯沼さんがおっしゃったように」と受けて同じことを繰り返している。「手をさしのべる」という比喩が、市民運動は問題別で組織されるものであるから、「べ平連」が「ベトナムに平和を!」の目的だけに禁欲しようとしたのは適切であり、あらゆることに取り組む政党とそこが違うのだ、と主張したいのなら、まさにその通りと納得できる。(ただ一つ、禁欲するにしても、一九七三年のバリ協定締結によって「ベトナム戦争は終わった」という認識から翌七四年に組織を解散させたその終わり方については、歴史的な再検討が欲しい。)

 しかし「起きあがった人が泥棒したって責任ない」という論法はあまりに乱暴で、「手をさしのべる」側の思い上がりが出ている。多言を要しないと思うが、一九七五年勝利後のベトナムはポル・ポト政権を打倒するためカンボジアに軍隊を入れ、そのベトナムを懲罰すると称して国境全域に進攻した中国との間で戦争を余儀なくされ、多くの難民を流出させ、経済的な低迷と混乱の一時期を経なければならなかったのだが、「立ち直って起きあがった人が泥棒したって」とは、まさにこの一時期のベトナムを念頭においている。戦争の性格論争とも関連するが、ベトナムでの戦争は、戦火をベトナム南西国境、カンボジア・タイ東南部国境、中越国境に拡散し偏在させ、敗走ししたはずのアメリカは復讐心をもって裏で糸を引き、米中接近によって中国が代わりに(と言うのも変だが、ともかく)前面に出てしまい、さらにベトナムは硬直した戦時の政策を脱却できない、というまことに奇妙なかたちで継続することになる。小田実は彼自身が語るところによれば、一つには、六〇年安保闘争に「アジア」が落ちていたという反省からベトナム反戦運動に入っていった。また「べ平連」解散後、小田個人はベトナムを訪問して、戦後ベトナム・カンボジアの社会問題、ベトナム社会主義、反戦と変革の「非同盟」構想などについて鋭い発言をしている〔小田-一九八四〕。しかしながら「べ平連」運動においては、戦争中のベトナムそのものについてあまり議論がなかった、戦争反対が共通の志だったのだから、それでよかったのだ、と小田も飯沼も総括している。その点はわかるが、アジア・インドシナ・ベトナムに即した議論なくしては、運動の構成員はベトナム戦争について自主的で合理的な「私」的判断を下しにくかったであろうし、この「泥棒」論にはそうした弱点が反映しているように思えるのである。

 もちろんインドシナの戦後の混乱について「べ平連」はまったく責任がない。しかしながら一九九〇年という時点にたって(今日になれば事態はなおいっそう明瞭であるが)「べ平連」も含めた多様なベトナム反戦運動を振り返るなら、一九七五年を境とするベトナム・カンボジアひいてはインドシナ全体での戦争継続状況をアメリカならびに日本の国家政策から考察することが最低限必要であったろう。というのは、日本政府は戦争中はアメリカのベトナム戦争政策を支持し続け、七五年以降は基本的に反ベトナム=ポル・ポト派支持政策を維持し(このとき日本政府はなぜ「共産主義社会」を一気に実現しようとした皆殺し政権を支持したのであろうか。ベトナム戦争をめぐる国際関係の文脈のなかで解くべきテーマであろう)、そして一九九〇年前後に国連を中心としたカンボジア問題解決案が動き出すと、ただちに国連を介したベトナム・インドシナ和平政策に移行していたからである。その結果は明確なかたちで突きつけられた。一九九二年に初めて実現した日本の自衛隊の海外派遣先がカンボジアの戦場であった。六〇年代の日本のベトナム反戦運動が夢想だにできなかった事態が、戦争が終わったと思われたその後の紆余曲折の過程で出現したのである。もし「責任」のあるなしを云々するというなら、それは「起きあがった人」に関してではなく、日本のこの今日につながる一連の事態にこそ発生している。さらに、飯沼二郎が「べ平連」と他者(ベトナム)との関係を「手をさしのべる(人)」と「倒れている人」との関係として把握していることについては、「べ平連」の流れをくむ市民運動のなかからすでに批判が出ているのかもしれない、飯沼の関係把握の枠組みは歴史の歪みを含んでいるように私には感じられ、そこで国家から個人が自立する(竹内好の言葉では「国体論を動かす」)筋道、つまり「私」と国家との関係史、ならびに日本と他者(なかでも広い意味でのアジア=非欧米)との関係史の相関的な検討を明治維新以降の日本の近代化過程にまで遡って行うことの大切さを強調したい。

 一九九五年元旦『朝日』紙上での対談で、加藤周一と大江健三郎はともに、日本の近代化がもたらした傷ともいえる持続性とは別物の、明治以前にまで行きつく民衆の持続性の掘り起こしを提言し、同時に六〇年代からの市民運動やアメリカで象徴的にいう「六八年世代」が、「労働組合も言論界も駄目になり」「官僚、政党、財界が一つの方向、つまり外圧という方向に向いている」今日においてもなお「最後の命綱」として「残っている」、けっして「根絶やしではない」、つまり持続し生き続けている事実を語り合っている。彼らの言葉を受けて結びとするなら、ベトナム戦争時期の多様な市民運動は弱点を含みながらも、遡りそして今日に結びつく両方向に掘り起こされ創造される民衆の持続性の中心に位置しているように思われる。……〈後略〉……

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