武藤一羊「原点としての朝鮮戦争」(池田浩士・天野恵一編『検証【昭和の思想】X 「思想としての運動体験」』社会思想社 1974年 所収) p.31〜34

聞き手:天野恵一

 

……〈前略〉……

――お聞きしたいのは、初期共労党とへ平連との関係なんです。武藤さんにせよ吉川さんにせよ、栗原さん、いいださんと、皆それなりにべ平連のメンバーでもあったわけですね。

武藤 そうなんですけれど、本質的には関係ないんです。共労党がべ平連を作ったわけではもちろんないし。

――共労党内部でべ平連をどう指導するかといった議論はなかったんですか。

武藤 う一ん。指導ねえ。べ平連というのは指導できるようなしろものじゃありませんでしたね。それと共労党には体質の一部として大衆運動主義があって、運動系列化という考えには相当な自制が働いていたこともあります。ただ党派であるわけで、そこには根本的矛盾がありましたね。べ平連の若い活動家を共労党にオルグするというようなことはかなりやった。

 ――花崎皋平さんも共労党でべ平連でしたよね。いま気がつくと、そこら中に共労党の人がいるという感じで(笑)。

武藤 そういえばそうですかねえ。ただ、党派中心主義はやめようといくら言ったところで、党派であるわけですから。本当のところは福富節男さんや小田実さんに聞いていただかないとわからないんじゃないか。ただ、もともと共産党の中でも、大衆運動の現場にいた人が多かったですから、党の大衆運動に対するひきまわしだけはしたくないということは自覚的に感じていたんです。

 ――自分たち自身、党と大衆運動の関係でそういうことを体験してきたという……。

武藤 「被害者経験」があるわけです(笑)。吉川君なんか代表的です。ただ、党は必要である、という意識はずっと持っていた。

 ――鶴見俊輔さんや小田実さんのように、党と関係のなかった人から見たべ平連と、武藤さんから見たべ平連とでは、相当違ったものになりますね。

武藤 そういう分け方もあると思いますが、鶴見さんと小田さんではうんとちがう、ぼくと吉川君のあいだでも相当な開きがあるんだと思いますね。ただそのべ平連自身が、べ平連のメンバーである人間が共労党のメンバーでもあったということで、そうではなかった場合とはすこしちがってきたということはあると思うんです。しかしこれもかなり個人の性格とか資質とかの問題ですね。小田、吉川のコンビなどはかなり個人としての相補関係があったわけで……。

 ――べ平連と全共闘、反戦に代表されるような時代に、共労党も党派としては新左翼政治の一翼を担いつつ、コミットしていくわけですよね。それが七〇年代に入ると、べ平連的流れはそれなりに残るけれども、新左翼運動は退潮していく。共労党も路線問題をめぐって分裂していったわけですが、武藤さんはどのような関わり方をなさっていたわけですか。

武藤 そうですねえ。共労党はその意味ではさっき言ったように異質な流れが集まった集団でしたから。共産党から来たぼくらの場合は、党ということと党派ということはずいぶん違っていたわけですよ。党というのは、公党などという言葉もあるように、私的なものじゃなかったんですね。共産主義者なら党にいなけりゃならない、党をつくらなけりゃならない、イコールだったんですね。共労党も日共から来た部分はそういう観念で集まっていたように思います。ところが党派はちがうんですね。私的なセクト、他の党派との関係で自分が定義されるものなわけ。だから党派として純化するためには、他党派と党派闘争なるものをやって同質性を獲得しなけやいけない、となる。ぼくなんかもこの矛盾の間で動揺をかさねる。具体的に分裂の争点はいろいろあるのですが、言ってみればこの矛盾が最後まで克服されなかったということですね。当時の状況の下で、新左翼運動への全面転換つまり党派化という路線を打ち出したわけですが、同時にべ平連など大衆団体を系列化するようなことはしない、むしろしないことの方を党派性にしていた(笑)ようなところがありまして、それ自体、きわめて矛盾をはらんでいるわけですね。新旧を間わず、左翼政治の世界では党派闘争の原則、つまり他人をやっつけて、自己の勢力を拡大するということが追求されるわけです。その矛盾が結局爆発したところがあると思うんです。

……〈中略〉…… 

 ――武藤さんなりのべ平連に対する批判点でもあるわけですね。逆に評価されるべき点を上げるとすれば……。

武藤 それはやはり、いろんな意味で時代の変わり目を画する運動だったことだと思いますよ。それ以前とそれ以後ということでね。党派系列化の大衆運動というそれ以前の常識をガタガタにした。党派系列化の構造は代々木であろうと反代々木であろうと基本的に同じだったと思うんですが、これを大きく変えたということがある。これはべ平連だけじゃないですけれど、べ平連は小田さんがそのことを大声で叫んだこともあり、そこからダイナミックな流れをつくりだして、常識化してしまった。全共闘運動も別の道筋で古い構造をこわした。それ以前にはもどれないところへ持ってったわけですね。それと思想的な面でべ平連は「平和と民主主義」という、むしろ現状維持へと作用していた傾向を、体制批判的なものにもう一度つくり変えながら、ラディカルな価値へ媒介してゆく道筋をつくったと思うんです。小田さんが『難死の思想』以来いくつか長い論文を書いて、そのたびにそういう道筋をつくっていったことが大きいし、東京のべ平連での夜の討論もかなりボルテージの高いものでした。その意味ではべ平連もあの時代の広義の新左翼運動の一部といえるだろうと思います。スタイルはまったくちがうけれど、時代はしっかり共有されていたことが今になるとよく見える気がします。

 ――当時大学で全共闘運動とくくられる運動をやってたぼくらの目から見ると、武藤さんの世代はともかく、ぼくと同世代の吉岡忍さんとか、それなりに仕事をしていないわけではないのに、なんだか奇妙な方向にむかっている部分が出てきてることが気になるんです。これがべ平連文化というものと何か関係あるのかどうか。

武藤 それは東京にあったべ平連に固有の問題ですね。東京のべ平連は小田実さんをはじめとする文化人・有名人を核にして作られた。当時は、文化人が集まるだけで何か価値空間が生じたわけですよ。それだからこそできた独特な運動スタイルや社会的影響力の広がりがあったことは評価しなければならないんですが、同時にその同じ空間が作り出すムードというか、価値序列とかには、若い人びとをスポイルするところがあった。吉岡君とか室謙二君とかはむしろぎりぎりのところでスポイルされずにそれぞれ実力で道をきりひらいて行ったケースで、本当にスポイルされて不幸なことになっちゃった人もいるんです。

 ――同世代的に見ていて持ったのは、若いくせにマスコミ感度だけはいいんだな(笑)という、あそこだけには近づくまい、という抵抗感。

武藤 そうでしょうね。でもいろいろな人がいるので、誰でも天野さんのような感想を持つべしともならない(笑)。とはいえ、さっき言った、べ平連と同じ構造を(日市連として)作ってもしかたないというのは、ひとつにはそのことなんです。若い時代に文化人空間で生きた「味」が忘れられない人間を生み出す危険。ただし、くりかえしになりますが、「平和と民主主義」の理念を、ベトナム戦争という現実を媒介にしてラディカルなものに変えていくのに、べ平連がかなりの程度成功したことは、いまなお意味のあることだと思います。

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