30. 吉岡忍(文)、大木茂(写真)「 声低く語る言葉を見逃すまい、聞き逃すまい――ベトナム戦争証跡博物館にベ平連資料を贈る(『 市民の意見30の会・東京ニュース』2002年4月1日号) (2002/04/02搭載)

 

「 声低く語る言葉を見逃すまい、聞き逃すまい――ベトナム戦争証跡博物館にベ平連資料を贈る

          吉岡 忍(文)、大木 茂(写真)   戦争証跡博物館の正面入り口

 ベトナムへ行こう、という話が持ち上がったのは昨秋だ。ホーチミン市にあるベトナム戦争証跡博物館に、かつてのベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)などの反戦市民運動の資料などを集めて寄贈する、という企画の一環としてである。
 それに、私は乗った。本気でその気になったのは9・11から一カ月後のニューヨークを見たあとだった。ニューヨークは分裂していた。報復戦争を叫ぶブッシュ大統領に引きずられていくマスメディアや圧倒的多数の市民と、あの悲惨をただなかで経験した犠牲者を取り巻く人々のあいだに、近づいてみなければわからない分水嶺があった。「報復すべきだ」と語る遺族に私は一人も出会わなかった。この人たちはアフガニスタンのことなど知らないと言いながら、米軍の空爆にさらされる人々のことを考えていた。「もう私たちだけで十分なのに」と彼らは言った。
 ベトナム反戦運動を支えたのは、分水嶺の向こう側にいる人間たちの存在、その悲痛な表情と声低く語る言葉を見逃すまい、聞き逃すまいという必死の感受性だったのではないか、と私は思う。それだけではむろん頼りない。現実を動かす力にもなりにくい。だが、深く傷ついた者たちへの共感と、共感するための想像力や手だてを欠いた運動はいつか独りよがりか教条に堕していく。
 ベトナム戦争が終わって二十七年が過ぎた。ベ平連の活動はその十年近く前からにさかのぼる。当時をふり返るDVD作成を請け負うことになった私は、吉川勇一さんがこつこつと作り上げた旧ベ平連のホームページや本やグラフ雑誌を開いて、途方に暮れた。ひとつひとつの年表的事実や写真の背後にある膨大な人々の思いをどう切り取り、要約し、表現すればよいのか。
「戦後世界を二分したイデオロギー対立は、一人ひとりの人間を粗末にする、シニカルで残酷な考え方を生みだし、浸透させていた。そこに、なんとかして人間の声を響かせたい。そこに響き渡る人間の声を、なんとかして聞き取りたい。理不尽に殺される人間の悲しみと怒りの声、殺せと命令された人間のおびえと寂しさの声。市民運動はこれらにまっすぐに向きあおうとした」
 ナレーションのこの一節にたどり着くまでに、年末から年始にかけての三週間がかかった。こう言い表すことが最善だったかどうかはわからない。しかし、戦場のさまざまな写真、市民のデモや闘争の記録、脱走兵や反軍兵士たちの手記などから私が読み取ったのは、このことだった。ここからはじめ、いつもまたここに立ちもどってくる回路をふさがないこと。そこに私は反戦市民運動の、さらに言えばベトナム解放を戦ったベトナム人たちのぎりぎりの証を見た。
 あとで気がついたのは、このときもう、今度の私のベトナム旅行ははじまっていたということである。

分水嶺の向こう側の死体

 二月二十七日夜、ホーチミン市着。吉川さんのほか小田実、高橋武智、和田春樹、角南俊輔、吉田嘉清、本野義男、小澤遼子などの各氏に、初対面の人も混じり合う三十名だ。遠藤、東、関谷、大木、加藤、石坂はヨッ、ヤァ、で挨拶のすむ仲。
 市内に入ったとたん、人の波とバイクの洪水だ。クルマの渋滞ほどの重量感はなく、どこかのんびりしている。真夜中、目が覚めて、ホテルの窓からのぞくと、暗い路上をまだ何百台ものバイクがうごめいている。十年前、はじめてこの街を訪ねたころは自転車だった。それが何千、何万と折り重なり、黙々と動きまわっていた。あれ以後、社会主義的市場経済が本格化した。
ホーチミン市の街角風景 (左の写真は、等身大の生活が溢れるホーチミン市の街角)

 ふと、出発まで東京で読んでいたスーザン・ソンタグを思い出し、彼女はこの光景に顔をしかめるだろうと考える。なぜそう思うのだろう。うまく説明できない。
 アメリカ人の彼女のなかにはヨーロッパ普遍主義がある。そこから逸脱するものを論理的に、激烈に批判する。だからベトナム戦争にのめり込むアメリカ、9・11に猛り狂って報復を口走るアメリカを激しく批判した。ところが今度のテロ事件はカルトと呼んでもいい最悪の集団が起こした。この連中も逸脱している。ここから彼女は信奉する普遍主義に照らして、どこかに「正当な戦争の概念」があるはずだと考えはじめ、「アフガンの民間人に犠牲が出たことは非常に残念だが」とつけ加えながらも、報復戦争の一部、アルカイダの殲滅までは肯定するようになる。
 だが、そここそがブッシュ大統領が口をきわめて強調した点ではないか。そこを肯定してしまったら、戦争の全体を肯定することになる。かつてそれは、共産主義だった。ベトコンを叩くため、ただそのためだけに戦うのだと、ケネディ政権が言い出し、ジョンソン、ニクソンの両政権が引き継いだ。仮に「正当な戦争の概念」があるとしても、戦争はいつもそこから逸脱していく。とんでもなく逸脱し、分水嶺の向こう側に死体を築き、深い傷を刻んでいく。だから戦争なのだ。それを戦争と呼ぶのだ。考えていたら、眠れなくなってしまった。博物館内のベ平連関連の展示

あの戦争よりももっとむずかしい闘いに

 二月二十八日、証跡博物館を訪ねる。館のスタッフが持参した写真パネルや反戦グッズを展示している最中。やがてグエン・チ・ビン副大統領も到着。いまごろハノイでは中越首脳会談が行なわれているはず。江沢民主席の訪越はたしか二度目だが、今回はアメリカの単独行動主義を牽制する意図が透けて見える。こちらはDVDを、向こうは枯葉剤被害調査のビデオを上映。すさまじい中身。
 深夜、携帯パソコンを日本までつなぐ。DVDのベトナム語解説を東京で朗読してくれた若い女性ナレーターグエン・チ・ビン副大統領を囲んでからのメールが入っていた。「日本など諸外国の政府は戦争の側にいて、それに反対する国民が私たちベトナム人を支援してくれたことを初めて知りました。その支援がなければ戦争は早く終結しなかった。心よりありがとうございます」。
(写真:右上は、ホーチミン市戦争証跡博物館に展示されたベ平連関係資料の一部。右下は、グエン・チ・ビン副大統領(中央の白いカーティガン姿)を囲んで記念撮影)
 三月一日、小田さんなど数人の参加者といっしょにグエン・チ・ビン副大統領らと再び会う。誰もが三十年前のことを口にするが、しかし、それは9・11以後の世界を語る入口にすぎない。彼女とともにパリ和平会談に臨んだグエン・ゴック・ドゥアンという老女性が鋭かった。もう引退した身だがと謙遜しつつ、「いまの世界をどう考えるのか、私は悩んでいる」とストレートに語りはじめ、先進国と途上国のあいだに横たわる対立に触れながら、双方がかかえるエイズ、麻薬、社会悪、環境問題などへの共通の関心を通じて「新しい橋が架けられる感じが出てきた」と言った。「私たちは抑圧された側に立つ」とくり返す言葉がこれらの新しい世界現実を一望できるような、あらたな思考を作り出さなければならないと言っているようだった。
 副大統領が引き取った。テロ根絶を叫んでアメリカが拡大している戦争と、途上国を窮地に追いやり、先進国の若い人々や労働者を分断していくグローバリズム、それにベトナム自身の「後進性」と「悪い面」(と彼女は言った。官僚機構の腐敗と怠慢、貧富の格差の増大などだろう)に対して戦わなければならないが、「率直に言って、過去のあの戦争よりもっとむずかしい闘いになると思う。陣営としての社会主義も国際的な民主運動もないなかで、一からはじめなければならないからだ」

米軍の闘いはパートタイムだった

 この日の夕方、中部のダナンに飛び、一泊。二日、博物館などをめぐって、世界遺産にも指定されたという旧い町並みのホイアンへ。
 移動するバスのなかからも、人々の暮らしが見える。もちろんその中身まではわからないが、やはりバイクと自転車があふれている。人々がうごめいている。奇妙な言い方だが、静かにうごめいている。そのなかで働き、食べ、排泄し、眠り、愛し、憎み、怒ったり笑ったりしている。この暮らしというやつ。十年前に旅行したとき、元解放戦線だったという人物に会うたびに、どうしてアメリカに勝てたと思うか、と訊ねた。いちばん腑に落ちたのは「生活そのものが戦いだったから。われわれから見れば、米軍はパートタイムだった」という言葉だった。それがよみがえってくる。スーザン・ソンタグなら、ここで正義や普遍を持ち出すだろう、とまた思う。持ち出したとたんに、暮らしというものの形の定まらない広がりと猥雑さが消えていく。ソンミ記念館の中の記念像虐殺現場のクリーク
 三月三日、ホイアンから三時間、百二十キロを南下して、ソンミ村に行った。あの戦争中、米軍はわずか数時間で村人五百四人を虐殺し、まるごと村を消してしまった。分水嶺の向こう側、そのシンボルとなった村だ。村の入口にある資料館で、当時十一歳だった館長と、四十一歳だったおばあさんの話を聞いた。館長「米兵は家族六人に、防空壕に入れと命じた。みんながもぐり込むと、手榴弾が放り込まれた」。家族は肉片となり、彼だけが生き延びた。銃弾二発を打ち込まれたおばあさんは細い声で「私たちはこの村で暮らし、仕事をしていただけだった。それだけなのに、なぜ」と言い、口を閉じた。生存者の証言を聞く
 村は田んぼのなかにあった。そのあちこちに犠牲者の名前を刻んだ墓碑がある。耳を澄ませば、きっといまもつぶやくような声が聞こえてくる。そういう村々はこの国のいたるところにあるだろう。あの戦争で三百万人が死んだ。目もくらむような数の死者たちの、その姿とつぶやきを単純化して伝声してはいけないのだと私は思う。ここにまたもどってくる、という予感がした。
 三月四日、ホーチミン市。私の口数が少なくなったことに、私自身が気がついた。電池が切れたんじゃないか、と誰かが聞いた。五日早朝、成田空港にもどったとき、切れた、と正直感じた。抱え込んだものが、大きく重い、しかし、ここから現在と未来を語らなければならないのだと、そのことだけがずしっときた。

(写真:右上は、170人が虐殺された現場のクリーク。その下は、虐殺をまぬがれた数少ない証人、資料館館長さんとおばあさんに話を聞く。左は、村人の遺族が造ったモニュメント 、右下はおまけ、ベトナムの猫)

(よしおか しのぶ/作家)(おおき しげる/フリーカメラマン)

(『市民の意見30の会・東京ニュース』2002年4月1日号より)

最近文献」欄の一覧ページに戻る