山田 佐世子:アオザイの輝き――元「ベ平連」ツアー同行記  (『山陰 中央新報』 2002年4月30日号〜5月2日号)

アオザイの輝き――元「ベ平連」ツアー同行記 (上)
遺作とともに  よみがえる70年代の青春

やまだ・さよこ 松江市出身。高校講師などを経て首都圏でヘルスクラブ・インストラクター、健康運動指導士として活躍中。

 二月の末から一週間、ベトナムヘ行ってきた。きっかけは亡夫の一周忌。参列者の吉岡忍さん(作家)が、「日本のベトナム反戦運動の資料をDVDにまとめ、ベトナムの博物館に寄贈します。その資料の一部に山田さんのご主人が作った番組の一部も入っています」と教えてくれた。そしてベトナム行きを誘ってくれたのだ。
 あの七〇年代。夫は「ドキュメンタリー青春」というテレビ番組のディレクターで、若者たちを追いかけて日本列島を駆け回っていた。寄贈資料に盛り込まれたのは、戦火に包まれた祖国を思うベトナム人留学生を描いたものだった。
 新宿西口のフォークゲリラの取材もしていた。そのころ西口広場は私の通学路で、時々足を止めてフォーク集会に参加していた。夫とは数千人の大群衆の中で知り合い、やがて結婚した。しかし、三人の子供を育て三十年聞続いた二人の生活は昨年一月、あっけなく終わってしまった。「さよなら」も「ありがとう」もない、突然の別れだった。
 「山田さん、あのフォーク集会を仕掛けたのは僕らだったんだよ」。吉岡さんが笑いながら言った。「僕らが集会をしなかったら、山田さんたちは出会わなかったわけだ。感謝してほしいなあ」 何という巡り合わせだろう。青春の記憶がよみがえり、わが子たちの後押しもあった。夫が亡くなったころには考えてもいなかったベトナムの旅へ、彼の遺作とともに出掛けることになったのである。
 旅には「ホーチミン戦争証跡博物館に日本のベトナム反戦運動の資料を贈るツアー」という長い名前が付いていた。参加者は三十人。平均年齢六十四歳。かつて「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)で活躍した人々だった。
 二月二十七日夕方に成田発、真冬の日本から暑いベトナムヘ。もちろん初めての訪問である。
 深夜、ホーチミン市のホテルに着くと、作家の小田実さんらの出迎えを受けた。関西空港からの到着だった。ロビーで簡単な顔合わせをした。
吉岡忍さんをはじめ、和田春樹さん(東大名誉教授)小沢遼子さん(評論家)吉川勇一さん(元べ平連事務局長)石坂啓さん(漫画家)……そんな場に普通の主婦の自分がいるのが不思議だった。
 部屋は画家の金子静枝さんと同室になった。療養中で参加できなかったが、彼女の夫は「ベトナム戦争反対」のゼッケンを着けて八年間通勤
したサラリーマンだった。ベ平連は誰でも参加できるわが国初の市民運動だったことをあらためて思い出した。
 翌二十八日、市中心部にある国立戦争証跡博物館でDVDなどの資料贈呈式が行われた。驚いた。ベトナムからの参列者の真ん中に、グエン・チ・ビン副大統領の姿がある。かつてパリ和平会譲で南ベトナム臨時革命政府の代表だった女史である。
 当時は何歳だったのだろう。国際舞台で物おじせず、堂々とアメリカとやりあっていた若き日のアオザイ姿を覚えている。ハノイから駆けつけたこの日は、シックなグレーのアオザイに白いカーディガン姿。小田実さんと「互いに歳を取りましたね」と肩を抱き合う姿は感動的だった。「パリ」以来の再会だという。
 そしてDVDの試写。長さは五十分で日本語・英語・ベトナム語の三つのナレーションが付き、脚本は吉岡忍さん。会場では日本語、ベトナム語に分かれて見た。どちらでも皆食い入るように画面を見詰めた。
 チ・ビン女史が涙ぐむ場面があった。番組作りに没頭していた夫を思い出し、私も目頭が熱くなった。自分が撮ったベトナムの若者たちの映像が三十年後にベトナムの地で上映されるとは、彼も想像さえしなかったであろう。
 「三十年前、ベトナム人民の闘いに感動し、私たちも一緒に闘った。市民一人ひとりが変われば、国家も変わっていくことを学んだ。今日は新しいつながりの始まりです」。小田実さんのあいさつに対し、女史は「世界は多様な時代になり、世界和平は困難な中にある。自分の国の独立と、貧しい、組織の無い国のために闘いましょう」と応じた。狭い会場には現地の報道陣を含め百人はいただろうか、熱気にあふれた。もてなしの南国のフルーツでのどを潤おし、歓迎の民族音楽を聴きながらホッと一息ついた。
 【写真】ベ平連運動の資料を携えべトナムを訪問した小田実氏ら=ホーチミン市の国立戦争証跡博物館
   (は5月1日に掲載)

  アオザイの輝き――元「ベ平連」ツアー同行記 (中)
ソンミ村   虐殺の跡秘めた田園 

  ホーチミンから北のダナンヘ飛び、ホイアンヘ移った。ベトナムの旅五日日の朝、ホテルを出て間もなく、すてきなデモ行進を見た。日本ではひな祭りの日である。傘をかぶり、赤、黄、……すそが翻る。全員がアオザイ姿。慌ててビデオを回した。「女性解放記念」の催しだった。
 緑の田んぼが延々と続くメコンデルタ。市場や小さな村落を車窓に、バスはまだそれから三時間近くをかけてソンミ村に到着した。「全住民
が虐殺された村」ということで正直、恐ろしい所へ行くという先入観があった。しかし、拍子抜けするほど穏やかな光景が目の前に広がった。南
国らしい木々が茂り、花も緑も豊かなピクニックできそうな公園があった。
                  *
 一九六八年三月十六日――。早朝の大砲攻撃の後、子供たちが学校へ行くころだった。突如、米軍のヘリコプター九機がソンミ村に着陸した。「早く行け」と村人が集められ、十時ごろから殺戮(さつりく)が始まった。百七十人を小川で、駐屯地で百二人を殺した。村の入り口の大き
な木の下で十五人の女性をレイプして、全員を殺した。
 途中、米兵は疲れた様子だった。けれど一軒一軒回り、食べ物をひっくり返し、家具を壊し、人がいればその場で射殺し家に火を付けた。四 時間ほどかけて一つの集落を破滅させ、午後一時ごろ引き揚げた。
 一年後、米軍は証拠隠滅を図り、家も畑も跡形なく焼き払ってしまった。虐殺された村民は五百四人にのぽる。しかし、生存者が十名ほどいたことはあまり知られていない。三十四年の月日が流れ、高齢や病気でその多くは亡くなった。残るは四名だけだという。
 その一人、ファン・ターン・コンさん。当時十一歳の小学生だった。家族六人が防空壕に押し戻され、手りゅう弾を投げ込まれた。彼以外は肉片となり一人生き残った。友だち三十人も殺された。現在は公園の一角に建てられたソンミ村記念館の館長を務める。
 「年間五万人の人々がソンミ村を訪れる。海外からはアメリカが一番多いが、あの大虐殺をどう思っているのか。謝罪したアメリカ人はいない」
 もう一人のハー・ティー・クイさんは当時、四十代の農家の主婦だった。ほかの百七十人とともに小川のほとりに連れて行かれ、二発の銃弾を撃ち込まれたが奇跡的に助かった。子供二人と母親は殺された。
 「農家の仕事をしていただけなのに、なぜ私たちが殺されなければならなかったのか…」。クイさんの素朴な、しかし重い問い掛けだった。後に身ごもっていたことが分かり、出産した。七十七歳になった今も家族とソンミ村で暮らす。女の子の孫がいると聞き、かばんにしのばせていた雛人形の絵を渡した。「私の話に関心を持ってくれてありがとう」とクイさんはほほ笑んだ。
 われわれの訪問の前には、フランスのグループが来ており、見学する姿を見掛けた。村の中で、家があった場所には一家全員の名前を彫った碑が点在し、おじいさんや動物を投げ込んだ井戸もそのままある。唯一残った大樹がそびえる。ソンミ村記念館には、犠牲となった村民たちの資料が並ぶ。子供六十人、一歳以下の赤ちゃん五十六人、妊娠中の女性十七人も含まれ、目を潤ませずに名前を追うことはできない。
 虐殺を指揮した米軍のカーリー中尉は軍事法廷で終身刑判決を受けたが、上告により十年に減刑となった上、服役三日間で帰宅を許された。七五年には自由の身となり、現在は宝石店の経営者だという。戦時下とはいえ、普通の人々を無差別かつ大量殺戮した行為。カーリー中尉とその部下たちは今、自分たちの過去をどう振り返るのだろう。
 ツアーの皆で、公園の周りを歩いてみた。クイさんの家もあった。田んぼは青々とし、水牛はのんびりと歩き、鳥のさえずりも聞こえる。今思い描くのが難しい惨劇との落差に、戦争の狂気を感じた。
【写真 上 生き残りの一人ハー・ティー・クイさん奄ニ筆者、 下 大虐殺の記憶を今に残すソンミ村記念館にある石像】

 (健康運動指導士、松江市出身)
     =は2日に掲戟=

アオザイの輝き――元「ベ平連」ツアー同行記 (下)

平和の尊さ   市場、街に庶民の活気

 ベトナムをまた訪ねてみたい。今回の旅はバスの移動で終始し、ゆっくり街を歩き、ショッピングを楽しみたい、という思いを残してきた。ゴールデンウィークの今ごろは、日本の若い女性が街にあふれているだろう。五、六時間飛べば、魅力的な品々がいっぱいある通りを歩けるのだから。
 銀のアクセサリー、絹のスカーフには心引かれる。漆や竹製品、陶器の数々にも。エスニックなサンダル、布のバッグ、刺しゅうを施したクロスや小物はいくつ買っても手ごろな値段。アオザイやワンピースをオーダーすれば、次の日には着て歩ける。仕立て賃は二千円ぐらい。
 料理は脂っこくなく、薄味で日本人向きである。お米は三期作。米粉で作った「フォー」もラーメンのような「ミー」も口に合う。南国ゆえに果物は豊富。バナナやパインが甘くておいしいのにはびっくりした。
 コーヒーは世界二位の生産量を誇る。濃くて苦いベトナムコーヒーは、練乳をたっぷり入れて味わう。ピーナツやハスの実が入ったおこわは、レシピも手に入れてきた。フランスパンは一食の価値あり。小ぶりのパケットにハムや野菜を挟んだものは、ホテルでも、屋台でも、飛行機の中でも食べられるベトナムの手軽なランチ。ただフランスパンだけは、フランスから輸入した小麦でしか焼かないという。フレンチのコースも千五百円以下で味わった。
 街には体内を血液がめぐるようにオートバイが走る。二人、三人、時には四人も乗り、群れをなして動いている。深夜にも光の帯を残して。免許など要らないこの国では、あっという間に自転車に取って代わったようだ。ホンダにまたがれば鼻が高い。町でも村でも、オートバイとパーツの店は繁盛しているように見えた。電化製品の店も軒を連ねる。IT先進国ではインターネットカフェというのか、貸しパソコンの店では夜遅くまで子供も大人もキーボードを打っていた。
 三十年余り前までの侵略と戦乱の歴史がうそのように、暮らしに要るものは何でもある。市場には生鮮食品があふれ、誰が食べるのか心配になるほどだ。
 ニッポンだって物がいっぱいあるではないか? でも、どこか違う。私たちは飽和状態の中に身を沈め、今何が食べたくて、何が欲しくて、何がしたいのか分からなくなっている。しかしベトナムは、家族が一カ月一万円で暮らせる国。人々はまず身の丈に合った生活を送り、欲しい物があると程良く頑張って働き、頑張り具合で手に入れる。その庶民的な頑張りが、市場や街の活気を生んでいるように感じた。ホーチミンも非常に元気な町だった。
      *
 一週間の旅の間に、ホーチミン市内では統一会堂、戦争証跡博物館を見学し、北西へ四十`の激戦の地クチではトンネルにも入ってみた。ダナンではホーチミン博物館を訪れ、さらにソンミ村へ足を延ばした。毎日、戦争の写真やビデオを見て、話を聴き、戦車や戦闘機、銃を見て触れることもした。経験したことのない戦争について考えた。平和についても考えた。そんな旅だった。
 ベトナム戦争の戦死者は約三百万人。戦死者の九〇パーセントは、あのソンミ村のような普通の民間人といわれている。9・11NYテロ、アフガ゙ン空爆、そしてパレスチナ……二十一世紀になっても戦火は止まない。旅に誘ってくれた作家の吉岡忍さんは、「武力行使によって、ごく普通の民衆が無差別に殺戮されていく事実に私たちは無関心になっている」と警鐘を鳴らす。
 戦争が無いことの素晴らしさ、 「いかなる場合も人が人を殺してはいけない」と気付かせてくれるベトナム。もし訪ねたら、戦争証跡博物館へ行くのを忘れないでほしい。
【写真 見学に訪れたベトナムの子どもたちと交歓する小田実氏奄轣<_ナンのホーチミン博物館】
 (健康運動指導士、松江市出鼻)

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