テリー・ホイットモア著
『兄弟よ 俺はもう帰らない』の原書
Memphis Nam Sweden――The Story of a Black Deserter

再版「あとがき」

レフ・ローブ  吉川 勇一 訳

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訳者より

 テリー・ホイットモアの著書、『兄弟よ 俺はもう帰らない』の原書、"Memphis Nam Sweden" は長いこと絶版になっており、入手が不可能だったが、一昨年、1997年に初版の出版社 Doubleday とは別の、University Press of Mississippi から再版された。ハードカバー版とペーパーバック版があり、前者は45ドル、後者は17ドルである。内容は1971年の初版そのままの復刻のようで、ページの数字だけはずれているが、版組などはまったく同じである。ただし、初版にはなかったジェフ・ローブによる「あとがき」が付されている。この間の事情は、その「あとがき」自体に詳しいから、ここでは述べない。

また、本のサブタイトルが変更になっている。初版のタイトルと、著者、編者名などは正確には以下のようであった。

MEMPHIS  NAM  SWEDEN
The Autobiography of a Black American Exile
 By TERRY WHITMORE
 As told to Richard Weber

今回の再版では、こうなっている。

 Memphis  Nam  Sweden
 The Story of a Black Deserter
 By Terry Whitmore
 As told to Richard Weber
 With an Afterword by Jeff Loeb

それ以前に出版された日本語版には、当然ながらこの「あとがき」はない。また、日本語版では、原書の初版にあったリチャード・ウェーバーの「前書き」が省略されていた。ウェーバーがどういう人物かは、今度の「あとがき」の中で少し紹介されている。

日本における脱走兵援助についての浩瀚な記録『となりに脱走兵がいた時代』が出版された機会に、その二つの部分を翻訳紹介することには意義があるものと考えた。

             19986

 

 

MEMPHIS  NAM  SWEDEN   The Story of a Black Deserter

By Terry Whitmore
Afterword by Jeff Loeb 

再版あとがき(ジェフ・ローブ)

テリー・ホイットモアの著書は、ベトナム戦争の中で生み出された回想録の中で、とくに注目さるべき一書である。だが、残念なことに、これはまったく無視されてきた。本書はもともと、1971年に、『メンフィス・ナム・スウェーデン――アメリカ黒人亡命者の自伝』と題して、ダブルデイ社から出版されたものだったが、20年ほど前から絶版になっている。本書が無視された理由の一つは、明らかに、これが脱走兵にかんするものであったという事情による。つまり、脱走兵にかんすることがらは、この国では、少なくとも70年代初め以来、イデオロギー的に受け入れ難いものとされてきたからである。このころから、わが国では愛国的な反撥が始まって、POW(捕虜)となった兵士たちが賞賛されるようになり、この傾向は以降30年間にわたって続くことになる。1973年、この戦争がアメリカにとって極めて不名誉な形で「終結」するや、それに続く時期に氾濫したPOWによる回想録は、概して、アメリカ人が好んで賛美する価値観――すなわち、不抜の忠誠心、苦境にあって発揮される勇気等々といったもの――を肯定するものであり、それとは違う視点からベトナム戦争を描いたものは、小説、映画、詩なども含め、ほとんど歓迎されなかった。

事実、この戦争についてのイメージが、正気を失った帰還兵のそれで表現されるようになるのも、また、そういった見解がありとあらゆるメディアの中で激増するようになるのも、まさにこの時期のことだった。何年もの間、ニュース番組に、あれこれの暴行事件の犯人がベトナム帰りの復員兵だったという報道が出ぬ日はまず一日としてなかったし、また、映画でもテレビドラマでも、ほとんどすべてが、目に見えぬこの戦争の亡霊によって破壊的な行為意へと駆り立てられてゆく狂気を組み込んでおくことが、どうしても不可欠(de rigueur)といった状況だったのである。

この間、おびただしい数の小説や回想記が書かれたのだが、たまたま出版によって日の目を見ることができたのは、そのうちのごくごく僅かなものであり、たとえば、ティム・オブライエン(Tim O'Brien)、ロン・コヴィック(Ron Kovic)、フィリップ・カブート(Philip Caputo)、マイケル・ハー(Michael Herr) などの作品にすぎない。こういうイデオロギー的な「冬の時代」("big chill")が到来する以前に、何とか出版への道を見つけたホイットモアの手記のようなものも、――これは戦争の回想録だけでなく、著者が黒人である手記の大部分を含むのだが――残本のテーブルに移され、出版社の在庫棚の上でほこりをかぶり、やがては断裁されてゆく運命にあった。かろうじて生き残ったものも、図書館の棚の片隅に追いやられ、やがてそれらを置く図書館の数もどんどんと減り、手にとる研究者さえ、少なくなっていったのである。

『メンフィス・ナム・スウェーデン』は、アメリカ黒人の作品を研究する者たちから注目されなかった。しかし、主としてそれは、黒人社会がこのベトナム戦争のことを忘れたいと思っていたという、理解し得る願望によるものであった。要するに、大部分のアメリカ白人にとって不名誉にすぎぬ(merely inglorious)ものは、黒人のアメリカにとっては危険きわまるもの(absolutely disastrous)となったからだ。(私自身を含めて、この敗北に加わり、その被害を受けた白人にとって、この戦争は単に「不名誉にすぎぬ」もの以上にひどいものであったことも、私は確かに認めるのだが。)とにかく、「10万人増派計画」による徴兵の大部分を押し付けられ、そのまた大半が最前線に配属されることになったのは、まさにこの黒人社会のほうだったのであり、さらに、最高の死傷率を得たのも、また不名誉除隊や非行による除隊処分(dishonorable and bad conduct discharge)の発生率が圧倒的に高かったのも、まさにこの黒人のアメリカのほうだったのである。

こうして、この『メンフィス・ナム・スウェーデン』は、ベトナム戦争文学、アメリカ黒人文学、そして自伝などの先端に位置しながらも、不幸にして、そのいずれの分野においても、ほとんど読者の注目を引かなかった。もし、これらの分野の推薦図書リストにでも載っているならば、本書は、すべての人にとって、かなり知識を豊かにするはずのものである。ホイットモアの物語の重要性と、この本が書かれた背景についてのべることが、この「あとがき」の主要な目的である。だが、その前に、著者ホイットモアが非常に元気で、今なお実際にスウェーデンで暮らしており、そこではある大きな会社のバイヤーとして働き、なおもある種の国際的名声を保ちつづけているということを、読者の方々にお伝えしておきたいと思う。

『メンフィス・ナム・スウェーデン』自体は、ご承知のように、ホイットモアが不確かな未来に向き合おうとするところで終っている。スウェーデン語もろくに話せず、これといって売りこめる技術も持たず、友人もほとんどなかったにもかかわらず、当時の彼は、映画の世界に入るつもりだなどとわれわれに語り、事実、ピーター・ワトキンズ(Peter Watkins)のドキュメンタリ映画、『平和ゲーム』(The Peace Game)への出演を終えたばかりのところだった(*1)。同時に彼は、亡命者としてそこに留まるという決意を繰り返してのべ、最後の章「黒人亡命者」(Black Exile) を、アメリカの人種差別への強い批判に当てている。最近行なった彼へのインタビューで、ホイットモアは、自分が有名になったことは、幸せばかりではなく、かなりな重荷でもあったと話している。

 ずいぶん長い時期、俺はそこらにいるありとあらゆる記者どもに追っかけまわされていた。っていうのは、俺たちのグループ(スウェーデンへの脱走兵グループ)は、ベトナムで実際に戦闘に参加してた兵隊からの最初の脱走兵だったからだ。それで俺たちは、スウェーデンの平和組織から、やれインタビューだ、やれ集会で挨拶しろだと、追いまわされた――とくに俺は黒人だったからね。これが何ヶ月も続いたんだ。参ったね。俺はただ姿を消し、自分の生活を何とか送れるようにしたいとしてただけなんだから。それに、CIAが俺たちを捜し回っているということもわかってた。とにかく俺たちはニクソンにとって厄介な存在だったからね。だから、ジャーナリストが俺を追っかけまわすのも、そのまんまにさせられてたというわけだ。俺はマスコミなんかに載りたかなかった。俺は自分の暮らしを立てる必要があったんだよ。

 だが、実際には、彼はあと数本の映画に出演している。いちばん有名なのは『ジョージア、ジョージア』(Georgia, Georgia)で、ダイアナ・サンズ(Diana Sands)の相手役として主演者の一人を務めたのだった(*2)。また、彼自身についてのドキュメンタリ映画『テリー・ホイットモア』(Terry Whitmore for Example)という作品もある (*3)。 これらはアメリカ国内でも短期間だが上映されている。実を言うと、『メンフィス・ナム・スウェーデン』という本の元になったものこそ、この後者のドキュメンタリ・フィルムの中で彼が自分について語ったことなのである。先に述べたように、政治的気候が変化したこと――ニクソン大統領の手当たりばったりの徴兵や、戦争の「ベトナム化」戦略などのせいで、反戦運動が崩壊した(fragmentation)こと――によって、この本の売れ行きは芳しくなく、現役の販売期間は短いものだった。戦争におけるアメリカの役割が低下してゆく一方、ホイットモアのほうは結婚をし(本書の終わりのほうで出てくる女性との結婚ではない)、また、映画への出演契約などのつてから、生計を立てるに足りるあれこれの職につくこともでき、最後にはバスの運転手として安定した地位も確保された。

一方、この間、アメリカでは、彼の娘(本書には名前が出てこないが、ト―ニャ〔Tonya〕という)は、父親の顔を一度も見ないまま成長していった。さらに、彼の母親やその一家は、脱走して以後のホイットモアには関知しないと、否認する姿勢を示していた――「俺が体格のいい、悪名海兵隊員である間は家族ともよかったんだ、だが脱走兵となるとそうではなくなった」と彼は最近語っている――そして、結局、今もメンフィスに住む彼の母親が、トーニャの養育権を得て、彼女を育てたのだった。父親と娘とは、1977年になってやっと初対面することになる。それは、カーター大統領がベトナム恩赦令を出した後、ホイットモアが、本国帰還に必要な手続きをとるため、10年の空白ののちに初めてアメリカに戻った時のことである。心配な材料はたくさんあったが、彼はとにかく、ヴァージニア州クァンティーコにある海兵隊基地に出頭した。だが、そこでホイットモアは驚いたことに、歓迎されたのだった。「まるで英雄みたいな扱いだった」と彼はインタビューで語っている。「そこ(海兵隊)に残ってくれ、とまで言われたんだぜ。それまで、俺は最悪の事態を覚悟していたんだ。だから誰の言うことも信用できなかった。気味が悪かったよ。連中は俺にそれまで届かなかった勲章までくれたんだ。俺が『ブロンズ・スター章』(*4) に推薦されてたって言うんだ。」 にもかかわらず、ホイットモアは海兵隊からのこうした申し出に応じたいとは思わなかった。そしてスウェーデンに戻っていった。結婚した彼は二人の息子をもうけた。ジェレマイア(Jeremiah)とチモシー(Timothy)である。彼はこの二人が18歳に達したらアメリカに連れて行こうと考えている。最近離婚して以後、やがてはアメリカに戻ることになるだろうということが彼の計画に入っているからである。

さて、『メンフィス・ナム・スウェーデン』のほうは、その後独自の運命をたどってきた。アメリカ国内では事実上忘れ去られたものの、人びとの中で日本人だけは、この本のことを覚えていた。あるいは少なくともその物語を忘れていなかった。この話は日本で広く伝えられていたからである。1993年、翻訳されて日本語版も出版された(*5)。 この出版に続き、ホイットモアは、その昔彼を日本から運び出したかつての幻のごとき平和組織(once-shadowy peace organization)、ベ平連によって、日本に招待されることにもなった(*6)。現在では、彼らは「アムネスティ・インターナショナル」の加盟組織(an adjunct to Amnesty International)として、主として死刑廃止運動にかかわっている。3ヶ月にわたる講演旅行の中で、彼はベ平連のために、数十に及ぶ学校で講演をし、彼の表現によれば「いたるところで、王様のような扱い」を受けたという。日本滞在中、彼はベ平連の援助を受けて、かつての女友だち、タキの居場所をつきとめようと必死に努力したが、徒労に終わった。さまざまな偶然の出来事が重なって、最近アメリカでは、『メンフィス・ナム・スウェーデン』にある事実をもとにして、ハリウッドで映画のシナリオが作られることになっている。これもホイットモアの物語が持つ力を証明する一つの事実である。

時機を失するほど遅れていたこの本の再版の実現についても、ある種の説明が必要だろう。1994年、私は、参考文献目録の中でこの本を見つけて読んでみたとき、まずホイットモアの表現のおどけぶりに触れて一驚した。一例を挙げれば、「リンチン・ベインズ・ジョンソン」といった(大部分は名前にかんする)表現であり、また「サム」(すなわち「アンクル・サム」)についてのあざけるような言い方である。これこそ、この親切で、伯父のようなやさしさ(avuncular)の伝統的なシンボルの底奥深くに含まれている、家父長的支配の側面を抉り出すものだったのである。同様に、自分をあえてその場の外に位置付け、自らに降りかかる災難を語るのに、自分を半ばそこから引き離した語り手にさせ、不運なアンチ・ヒーローとして自分を描き出すという手法は、70年代、およびそれ以降の小説さながらのやりくちである。この自らを貶める喜劇風のペルソナが登場するいい例が、スウェーデンの女性たちとのパーティの描写場面だ。(今日からすれば、それが紋切り型の叙述で、「可愛い子ちゃん」("chick")などといった言葉が出てくるのに、顔をしかめる向きもあるかもしれないが。)

この極めて現代的な喜劇的表現に加え、さらに私としては、アメリカの戦争が続いていた間に書かれたほとんどすべてのベトナム戦記ものの中に完全に欠落している歴史意識が、この『メンフィス・ナム・スウェーデン』では見事に反映されている点にも注目した。60年代後半から70年代前半にかけ出版の機会を得た白人による比較的僅かな手記では、この戦争のもっと大きな歴史的、政治的現実に触れた部分がほとんどなく、代りに自分たちの身近な状況のみが描かれるという傾向にあった――たとえば、どういうふうに徴兵されたか、兵役にある間にどんなことが自分に起こったかなどである。これに対し、ホイットモアは、 マーチン・ルーサー・キングの暗殺や60年代半ばから末期にかけてのアメリカの人種差別をめぐる社会不安などといった出来事との関連の中に自分を位置付けることをやっている。ベトナム戦争の回想録が、ホットモアのように、政治的・歴史的現実の探求に目を向けるようになるのは、1973年になって出版されたティム・オブライエンの『もし戦闘地帯で死ぬとすれば』(If I Die in a Combat Zone)を待ってのことになる。さらに言えば、アメリカの介入が終了する以前に出版された白人の手によるベトナム戦争回顧録の類いの中で、アメリカ国内における人種差別とベトナムでのそれとを関連づけることができているものは事実上一つもない。初期の手記の中では、僅かにフェントン・ウィリアムズ(Fenton Williams)の『暁の到来の前に――ある医師のベトナム体験』(Just Before the Dawn: A doctor's Experiences in Vietnam) (1971年)のみが、この関連性について考察しているだけである。だが、これは、ウィリアムズもまたアフリカ系アメリカ人であったことと決して無縁ではないと私は考える。ホイットモアの最後の章では、彼がベトナムとアメリカの状況で目にする類似性についての指摘が、初期の白人の回想録にはまったく見られぬやり方で、はっきりとのべられている。

1995年、私は雑誌『ベトナム世代』(Vietnam Generation)の発行者であるカーリ・タル(Kali Tal)とともに、ベトナム戦争についてのアフリカ系アメリカ人の手記に関する論文(原注)を共同で執筆していた。彼女は、私に、こうした手記の執筆者の中から何人かを選んで、その著書の復刊を試みてはどうかと、強く勧めてくれた。まずホイットモアを選ぶことは、私にとって容易だった。そこでダブルデイ社に手紙を書き、ついで同社を訪問して彼の住所を知ろうとしたが果たせなかった。この出版社が最後に彼と文通したのは1971年のことだったのだ。ついで私はメンフィスの電話帳を手に入れ、そこに出ているホイットモア姓の全員に手紙を出した。可能性がいかに少ないとはいえ、同姓の親類縁者がまだそこに住んでいるかもしれないと期待してのことだった。数ヶ月が過ぎ去った。私は居場所を突き止めることをほとんどあきらめていたのだが、そんなある日、朝の5時のことである。電話が鳴った。寝ぼけまなこでの私の「ハロー」に応じたのは、「テリー・ホイットモアだ。スウェーデンからかけてるんだ」という声だったのである。

私は彼の電話に大いに元気付けられ(また驚きもし)たのだが、実は、彼の本を再刊するという仕事は始まったばかりだということをすぐに思い知らされた。というのは、ホイットモア自身は、この『メンフィス・ナム・スウェーデン』の再刊にあまり乗り気でなかったようだったからだ。彼は、本の続編を書くのに十分なほどの(と彼は思っていたようだが)覚書をすでに編集してあり、最初の本が書店に並ぶことは、読者を混乱させ、2冊目の売れ行きにひびくのではないかと、考えたからだった。私は、影響があるとすれば、むしろその逆の方向だと、彼を説得した(この予測が正しかったことを私は望んでいる)。そして出版社をさがす努力にとりかかった。嬉しいことに、ミシシッピー大学出版局は、この本が再版に値する重要な作品であることに同意してくれたのである。

『メンフィス・ナム・スウェーデン』は、ベトナム戦争にかんする文学とアメリカ的生活にかんする優れた著作であるが、 それに留まらず、これはアフリカ系アメリカ人の自伝としても優秀作品のリストに追加さるべき価値ある一書なのである。ホイットモアは、多くの重要な手法をもって、また、同時に彼の物語をそれと比べられるべき白人の書物の手法とは明確に区別される方法で、自らをこの後者の伝統、黒人社会の伝統の中にしっかりと位置付けている。彼は自らのトラウマ(精神的外傷)を描くのに、白人の筆者の大部分が用いているやり方ではなく、その作品全体を通じて、すなわち、生まれた家庭のことから、海兵隊の新兵訓練所を経て、脱走を決意し、ついにはスウェーデンでの亡命者として不確かな境遇へと進んでゆくまでの全体を通じて、彼に影響を与え続ける人種的相違の問題を鍵として用いるのである。

  ホイットモアは、彼の子ども時代の躾けられ方や背景について、この本の初めの四分の一を割いて詳述する。こうして彼は、ルイス・プラー(Lewis Puller)の『幸運な息子』(Fortunate Son)や、リンダ・ヴァン・デヴァンター(Lynda Van Devanter)の『朝が訪れる前の家庭』(Home Before Morning)といった白人の作品に見られる、自己成長とそれに続く喪失感の叙述のタイプと同様な舞台を設定する。しかし、『メンフィス・ナム・スウェーデン』と他の作品との間には、大きな相違点がある。白人の作品が、自分の育った環境を安定した、信頼できる世界として描いているのに対し、ホイットモアは、自分の人生の初期のことを、リチャード・ライト(Richard Wright)の『黒人少年』(Black boy)に似たものとして描き出す。たとえば、『メンフィス・ナム・スウェーデン』の初めの部分は、自分の父親の手によるものまで含め、残酷さと暴力に彩られた生活の描写に割かれている。こうした自分の家庭的環境を背景とし、彼は白人との最初の出会いを描き出してゆく。それは、フレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)からゾーラ・ニール(Zora Neale)、マヤ・アンゲロウ(Maya Angelou)にいたるアフリカ系アメリカ人の伝記に見られるのと同様な、人種の違いについての最初の自覚を含んでいる。

 幼い時は、自分が黒人だという事実を考えてみるなど、決してしないものだ。だいたい、いつだってまわりは黒人ばかりなんだから。自分が有色人種だなどと気がつくわけがないのである ……(中略)……とにかくいつでも読まされるものは歴史の中で白人が何をしたかということばかりであり、それが「アメリカの歴史」というわけなのだ。こんなしろものを全部読んでみたところで、黒人の兄弟のことなどひと言も出てきはしない。このあたりでそろそろ何だか変だと感じはじめる。俺たちはどこのへんで舞台に登場してくるんだろう?  ……(中略)……高校へあがる年頃になると、仲間うちの外へ働きに出なきゃならなくなる。この時である、それを本当に感じ始めるのは。奴らは俺たちを毛嫌いしている。ただもうひたすらに毛嫌いしている、ということを。(原書 p.17、訳書 p.8〜9)

こうした子ども時代の世界への批判は、白人の書いたベトナム戦争回想録の類いの中にはめったに見当たらない。おそらく、僅かにトビアス・ウルフ(Tobias Woolf)の2つの自伝的作品、『この少年時代の生活』(This Boy's Life)と『ファラオの軍隊の中で』(In Pharaoh's Army)が、家族と地域社会での暮らしの苦痛を明らかにしているのが匹敵するのみである。だが、ホイットモアの叙述のレベルは、ロン・コヴィックのそれにずっと似通っている。コヴィックもその著書『7月4日に生まれて』(Born on the Fourth of July)の中で、自分の育てられた幼い頃の環境がいかに牧歌的なものであったかを、延々と語っている (*7)。コヴィックもホイットモアも、ともに自分たちの幼年期のことを描くのに力を注ぎ、それを、彼らがベトナム戦争で受けたトラウマを読者があとで理解できるようにさせるキー・ポイントとしての文脈に仕上げている。しかし、コヴィックがその背景の装置を、無邪気だった自分が、いかにして周囲の愛国的な環境にだまされて海兵隊に加わり、そして結局は重傷を負い、ついで自分の国からも見捨てられるようになっていったかを説明するものとして用いているのに対し、ホイットモアは――ライトと同じように――家庭内の虐待や人種的憎悪の場面を描き、海兵隊への入隊がそれからの逃避であるように思わせているのである。

だが確かに、結果としては、軍隊の中で彼が出会う深刻な人種差別や、それに加えて経験する戦闘地帯での極めて危険な任務という問題によって、すぐにホイットモアは、自分が逃げ出してきた環境よりもはるかにひどい状況の中に置かれているということを覚るのである。たとえば、ベトナムで彼が遭遇した人種差別について、この本の中ではとくに詳述されていないのだが、私たちのインタビューでは、ベトナムで目撃した人種問題を背景とするいくつもの事件を語ってくれた。中でも重大な事件は、ダナンのフリーダム・ヒルのPX(酒保、軍の売店)で起こった暴動だった。ホイットモアによれば、以前はもっぱら白人の占める場所であったそのビア・ガーデンで、「大きな顔をする」("bogarting")――すなわち、「社会化する」(socializing)――黒人海兵隊員の数が増えてくるのに怯えて、そこの設備主任がジュークボックスからソウル・ミュージックのディスクをすべて取り去ってしまったことが発端だった。いくら抗議しても効き目がないとなって、黒人海兵隊員たちはテーブルや椅子を壊し始め、ついでMPが呼ばれるに及んで、事態はあっという間に暴動にまで発展し、数人が負傷し、すべては黒人だが多くの者が投獄された。この事件は、米国軍隊での服務が差別からの解放などでは決してないという事実を、ホイットモアに覚らせるいくつかの出来事の一つにすぎなかった。

こうしたベトナムでの経験の結果としてだが、両足を奪われるという負傷とその後遺症がトラウマの原因となったコヴィックの場合と違って、ホイットモアにとっては、負傷し、日本に送られるということが、状況からの逃避のもう一つ別の型、彼にとってはさらに高い自由への理想を表す逃避、この場合は軍隊からの逃避となるのである。ホイットモアの場合、究極のトラウマとは、彼の負傷をめぐるものではない。それは、彼が予想に反して、アメリカではなくベトナムに戻れという命令を受けたあと、この自由を獲得するために彼が支払わねばならぬことになる代償をめぐるものであった。

本の後半で、ホイットモアは、日本での健康回復、脱走への決意、そしてその後の日本脱出などについて語るのだが、事実上、この後半部全体は、合州国北部に移住した初期のアフリカ系アメリカ人による数々の自伝にある、あの捕らえどころのない自由というものの意味についての反芻に似ている。ダグラスの手記のように、この移動が実際の自由への逃走であるのか、あるいはライトの手記やハーストン(Hurston)の事例のように、自由の自覚が象徴的、心理的のものであるのかを問わず、こうした著作では、叙述の重点が、自由の獲得からアフリカ系アメリカ人にとっての制約を理解しようとする努力へと移動するにつれ、初めにあった幸福感(euphoria)のあと、不安に襲われる時期が続いて訪れてくる場合がしばしばである。ホイットモアにとっても、このプロセスは違っていない。彼はまず、自分がベトナムではなく国に戻れるものと信じこまされる――彼にとっては自由を意味する事実である――そして体力がどんどん戻るにつれ、喜びも増してゆく。「あと数週間すると、私は黒人のちびっ子兄弟姉妹たちと同じようにはねまわっていることになるんだ。それに私の新しい娘とも。本物の世界がますます現実のもとして近づきつつあった。」(原書 p.100. 訳書 p.150.) しかし、人種的抑圧の現実は決して遠ざかってはいない、日本の中にあってさえもだ。彼がタキやほかの黒人兵士らとともに、あるバーで「イカレタ白人ども」とぶつかる事件は、海兵隊に留まる限り、人種的抑圧からのいかなる真の自由にもついてまわる限界を、彼に思い知らせる典型的な事例である。皮肉なことに、彼がこの時、帰ることを夢見ていたところとは、かつて彼がそこから逃れることを望んでいたあの故郷そのものだったのである。

結局、アメリカへの帰国ではなくベトナムの地上部隊の古巣へ戻らされることになるという、驚くベき知らせを受け取ったとき、ホイットモアの自由についての考えは一挙に崩れ去って、深刻な転位を迎える。もはやそれは、以前考えていた故郷へ戻ることではなく、ベトナムに連れ戻されることからの逃走である。彼の主要な目的は、それに抵抗し、何としてでも逃走することに変わる。実際には、ホイットモアが直面する差し迫った危険――ベトナムへの派遣――を逃れようとする間に、脱走ということも、それなりの代償なしには得られるものではないことを彼は知らされる。ベトナムに戻るのも、まだ間に合う。彼は自分の不確かな状況を反芻する。そして彼の最終的な決断は、アメリカでの黒人脱走兵に起こり得る未来についての考えを基礎として下されることになる。 

サムにむかって、このひでえ戦争はお前たちのものだ、それは白人だけでやれ、と言ってのける知恵と勇気を私は持っているか……(中略)……もしも私がサムにノーといい、アメリカと監獄にともにノーというとしたら、それは私の知っているすべてのもの、私の家族、私のブロック、すべての人びとにノーということになる――何から何まで最初からのやり直しをしなければならなくなる。私の残りの一生は逃亡者のそれとなる。あるいは幸運にも、どこかに平穏に暮らせる場所、偉いさんがその汚い仕事の中に私の黒い尻を蹴り込むことを決してしないような場所を見つけられるか。(原書 p.120〜121. 訳書 p.183.) 

最後に彼は、本書で読むように、戻らぬことを決意する。ベ平連の援助を得て彼がスウェーデンに脱出する場面は、もちろん、本書の中心をなす焦点であり、確かに最も心を踊らされる部分である。しかしスウェーデンに着いたあとでも、彼のおかれた状況は決して確かなものではない。なぜなら、彼には仲間の共同体も経済的な支援もほとんどないからである。自由の性格についての彼の疑念も増幅し、それはやはりこれまでと同じように人種の相違という語彙で表現される。「スウェーデン。いったいどこにある国だ?私は知らない。あの男がスウェーデンというんだから、私はスウェーデンに行くんだろう。それ以外のどこへ行けるっていうんだ? ……(中略)……スウェーデンは私にかんする限り、アメリカやベトナムよりもずっとましに違いない。だとすればどうしてスウェーデンじゃいけないことがあろう? ただ一つ問題は、その国が、ブロンドの髪に青い眼の白人の国だという点だ。それで私はまだ一抹の不安をもっていた。」(原書 p.168. 訳書 p.264.)

『メンフィス・ナム・スウェーデン』はホイットモアが新しい共同体の一員となり、ストックホルムの活発な国際平和組織に積極的に加わって行くところで終わっている。「今やもうゲットーはない。」彼はそう結論し、それまで彼を奴隷にさせていたさまざまなものを列挙する。「DIたちもいない。不意打ちの戦闘もなければ殺人もない。誰も私を撃つものはいないのだ。こういったいまわしいものごとは、すべてさっぱりと消え去って、私は私の人生のスタートを切ることができたのである。」(原書 p.187. 訳書 p.297.) 「もはやDIたちはいない」――すなわち命令を下す主人たちがいない――ことは確かだった。しかし、にもかかわらず、彼にとって奴隷制廃止論者と同じような位置を占め、彼の生活を規制する白人たちの別口の枠組みがあるのだった。すなわち、しばらくの間、彼が役に立つ存在とされ、そのシンボル的位置にもおかれる国際的平和組織である。事実、本書の最初の誕生自体が、この運動にとっての彼の有効性を示す証左なのだ。なぜなら、彼だけの力では、出版の手段など見つからなかったはずだからだ。事実、われわれが交わした会話の中で、彼は、自分がしばらくの間、この平和運動から利用されたという感情を持っていることを認めたのだった。この本についての最初の協力者は、リチャード・ウェーバー(Richard Weber)というアメリカ人の徴兵忌避者だったが、本が出版されてまもなく、ウェーバーはこの件への関心を失い、どこかもっとよい生活へと移っていった。以後、ホイットモアと彼との間には一切音信がない。

この協力の問題は、多少検討しておく必要がある。というのは、それがこの本の原作にかんし、いくつかの問題を提起するからである。ホイットモアが私に語ったところによると、この本は、映画『テリー・ホイットモア』の中で彼が話している証言をそのまま書き留めたものだという。映画の中で彼が話したことは、手直しをされず、また基本的にほとんど編集もされていないという。カメラはただひたすら彼に向けられたままで、彼はそこで自分の経験を語った。彼のこの証言を直接書き留めたということは、もちろん、この本の内容の信頼性について何らの疑問も存在しないことを意味している。ウェーバーは、いくつかの編集上の決定はした。だがホイットモアの独特の肉声がこの本で表現されていることには疑問の余地がない。たとえば、スウェーデン人から彼が大いに持ち上げられるくだりの文章など、彼が自分の語り口を巧みに生み出してゆく上での鋭い感覚を示しているし、あるいは反戦運動のシンボルとして祭り上げられる自分の立場をひっくり返すために彼がつねに用いている滑稽な表現法にもそれは示されている。この本の作成にあたって、ウェーバーが基本的には従的な役割しか果たしていなかったことは、本書の中で、同一の誤記が何度も繰り返し出てくることからも、さらにはっきりと証明される。この誤記とは、明らかに、談話を書き留める際に起こる性質のものだからである。本書の多くの個所で、読者は、ホイットモアが基本的に無意味な表現 "had it up" という言葉を口にするのに気がつかれただろう。もちろんこれは、実際には 「帽子を脱ぐ」という意味の "hat it up"――すなわち「急いで立ち去る」「ずらかる」(to leave in a hurry)―― と言われていたのである。ホイットモアが私に言ったことだが、ウェーバーはこの表現の意味を知らず、映画の語りを書きとめる際に "t" を "d" と聞き違え、そのためこの誤りが繰り返し出てくることになったのだという (*8)。 このことからも、ウェーバーが、たとえ自分では意味がわからないところでも、もとのテキストを変えようとしなかったことが明らかであり、彼が内容に手を加えていないことを明白にしている。 

テリー・ホイットモアはいまもスウェーデンに引き続き暮らしている。だが、すでに書いたように、彼は、二人の息子が18歳という年齢に達したら、すぐにもアメリカに戻ろうと計画している。実際、1977年の恩赦のあとも、彼が引き続きスウェーデンに留まった主要な理由は、自分の長男を育てる責任を分担するためであった(次男はその2年あとに生まれている)。彼は、自分の娘に対してはせざるをえなかったような、父親のいない子どもにさせたくなかったのだ。ただし、この娘とも、いまでは親しい関係が存在している。現在、彼の生活のさまざまな出来事にかんし、彼が口にしうる言葉の中で、最も強烈な印象を与える表現は、自分のことを、まず「愛国的だ」("patriotic")としていることである。「俺は自分が忠実なアメリカ人だと思っている」と彼は言う。「俺がやったことをやったのは、この国が間違った方向に行ったからだ。今だって、まだ完璧にはなってないが、でも黒人にはチャンスがある。俺は自分のやったことを悔やむことなど、これっぱかりもない――必要ならまた繰り返すことだってやるだろう――だが、俺がこの国からまず脱走したというのは、俺が忠実なアメリカ人だったからなんだ。」

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原 注

この論文は「戦闘中行方不明兵士――ベトナム戦争にかんするアフリカ系アメリカ人の伝記」(MIA: The African American Autobiography of the VietNam War")と題するもので、雑誌"African American Review" の1997年春季号に掲載されている。

  ベトナム戦争にかんする手記は1,000近くあるが、そのうち、黒人の筆者によるものは僅か7篇だけにすぎない。この『メンフィス・ナム・スウェーデン』以外で、黒人の元兵士による回想録としては、以下のものがある。Eddie Wright's Thoughts about the VietNam War (1984)、 これは戦後に出版された唯一のもの。David Parks's G.I. Diary (1968)、これがたぶんいちばん有名だろう。Samuel Vance's The Courageous and the Proud (1970)、Fenton Williams's Just Before the Dawn: A Doctor's Experiences in Vietnam (1971)、 James A. Daly's A Hero's Welcome: The Conscience of Sergeant James Daly versus the United States Army (1975)、Norman A. McDaniel's Yet Another Voice (1975)。 最後の2点は元 POW(捕虜)によってかかれたもの。アフリカ系アメリカ人の帰還兵によって書かれた小説は、3点ある。George Davis's Coming Home (1971)、 A. R. Flowers's De Mojo Blues (1985)、そしてJohn Carn's Shaw's Nam (1986)である。

訳者注

(1)  訳書のp.297 にあるように、この映画は、スウェーデンの映画会社「サンドリューズ」がイギリスの映画監督ピーター・ワトキンズを起用して作らせた1968年制作の映画。スウェーデン語の原題は"Gladiatorerna"〔戦士〕

(2)  1975年制作のスウェーデン映画。英語版もある。カラー作品。監督=スティーグ・ビョルクマン、原作=マヤ・アンゲロウ、主演=ダイアナ・サンズ、ミニー・ジェントリー、ロジャー・ファーマン、テリー・ホットモアほか。日本では1993年春、ホイットモアの訪日にあわせて1回だけ上映された。

(3)  スウェーデン映画。白黒。90分。監督=ビル・ブロディ、撮影=ハッセ・セイデン。出演はホイットモア一人で、自分の体験をひたすらカメラの前で語りつづける。英語版のビデオ頒布中。〔\5,000〕

(4) 青銅星章。ブロンズスター。空中戦以外の勇敢な行為をした者に与えられる勲章。

(5)  最初に日本語版が出版されたのは1975年だった。『兄弟よ俺はもう帰らない』(吉川勇一訳 時事通信社)。その後、絶版になっていたが、ホイットモアを日本に招請する計画の中で、93年に第三書館から復刻再刊された。

(6) 筆者の思い違い。日本に3週間、招待したのは、元ベ平連メンバーの有志による「帰ってきた脱走兵企画」(代表=鶴見俊輔、吉岡忍、吉川勇一)だった。ベ平連は1974年1月に解散して存在していない。

以下の日本での記述にも、アムネスティとの関係や死刑廃止運動とのかかわりなど、誤りが多い。ローブによる聞き違いもあるだろうが、ホイットモア自身の大風呂敷によるものも多いと思われる。ホイットモアの日本再訪の実際の記録は『帰ってきた脱走兵――ベトナムの戦場から25年』(鶴見俊輔、吉岡忍、吉川勇一編 第三書館 1994年)に詳しい。

(7)  ロン・コヴィックの著書『7月4日に生まれて』の邦訳は、白城八郎訳『七月の寒い朝』(1977年、集英社)。また、これは、1989年、オリバー・ストーン監督によって劇映画化〔トム・クルーズ主演〕もされ、日本でも上映された。また、昨年、コヴィックにかんするドキュメンタリ映画『善きアメリカ人――ロン・コヴィックの時代』(A Good American : The Times of Ron Kovic)の製作が、ハワード・ジン、デイヴ・デリンジャーらの呼びかけによって開始されている。

(8) たとえば、この表現は原書 p.21の7行目と13行目などに出てくる。

Guilty or not, brace or no brace, you just had it up. Split.  ……(中略)…… Otherwise you just have to had it up. Split.

日本語訳では、この "had it up"は、「逃げる」と訳してある。すなわち、「悪事を実際にやったのか、やらなかったのか、ギブスをはめているか、はめていないか、などに関係なく、ただ逃げるしかない。ずらかるだけしかないのだ。……(中略)……そうでもしないかぎり、あとはただ逃げるしかない。ずらかるだけである。」(訳書 p.15〜16)

 

 ま え がき

アメリカによるベトナムの荒廃化で、どれほどの死傷者が出ているのか、それが完全に計算されることはおそらく決してないだろう。南ベトナムの民衆にとっては、この戦争は今や自分たちの国土と民族の終焉のように思えていよう。アメリカ人一般の意識にとっては、この死傷者数が、ようやく死者の数以上のなにかを含んでいると思い始めた段階にすぎない。

テリー・ホイットモアはこの戦争で戦死者数の一つに危うくなりそうになったごくふつうの若者――彼自身の言葉を借りれば、ブロック出身の兄弟の一人――だが、自らを一人の人間として救い出すために、一連の異常な境遇によって、これまた異常な行動をとることを迫られた人物であった。

何千、何万というアメリカの若い男女が、移住の歴史的な流れを変えて、自らの祖国を捨て、平和を求める難民として新たな生活へと移りつつあるとき、テリーのこの物語は重要な意味を持っている。彼は、「ノー」と言えるだけの度胸を持ち、新しい国に向かった一人の若者というに留まらない。彼は多くの点で、アメリカから移り住もうとするこの新しい移民の波を具現する存在なのである。しかし、彼の物語は、この上なく心を躍らせるものでもあり、またこの種の手記には悲しいほど欠落しているユーモアのセンスにも彩られている。

テリーの物語で、アメリカの民衆が「覚醒する」チャンスは大きくはない。しかし、何事かを捜し求めてさまよっているアメリカの若者にとっては、希望を与え、もう一つの違う道が可能であることを教えてくれるものだろうと、私は確信している。

最愛の妻、エリザベスに対し、本書の作成にあたって彼女が示してくれた忍耐心と援助について、私の感謝の念をささげる。そしてまた、私の試みに共感し、助言や激励を与えてくれた何十人という個人にもありがとうを言いたい。

 1970年8月31日、

スウェーデン、ストックホルムにて

                                                          リチャード・ウェーバー
(以上)

 

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