120白川真澄・田中真人(対談)「『統一』創刊と『六八〜六九年』の現代的意味」(『 グローカル』2006.12.01)(2006/12/05記載)

 「自治・連帯・エコロジーをめざす政治グループ蒼生」が編集し、「工人社」が発行する月刊紙『グローカル』No.705(06年12月01日号)には、「『統一』創刊40年記念対談」として、元「共産主義労働者党」(共労党)書記長の白川真澄さんと、同志社大学教員で、66年当時、京都で学生運動に参加していた田中真人さんの対談、「『統一』創刊と『六八〜六九年』の現代的意味」が掲載されています(『統一』がのちに『グローカル』と改題した)。この中の「ベ平連と共労党」という項と「脱走兵支援を実現したもの」および「前衛党意識からの脱却」という節では、筑摩新書で発行された(すが)秀実『1968年』(06年10月刊)のなかのベ平連と共労党との関係を論じている部分を批判的に触れながら、語り合っています。その部分を以下にご紹介します。
 なお、
(すが)秀実の『1968年』については、本サイトの「News」欄 No.436 でも少し触れられています。

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ベ平連と共労党

白川 最近、秀実が『1968年』(ちくま新書)を出し、ベ平連と共労党の関係について書いている。飲み屋での与太話のような本だが。
田中 べ平連への共労党の意志が貫徹されたと書いている。共労党はフラクションを組織できるような党ではなかった。過大評価もいいところ(笑い)。ベ平連に参加している党員が多かった六八−六九の共労党の位置は特殊だったが、の分析は飛躍しすぎ。
白川 当時、こちらには反戦運動をやる現場がない。それに、べ平連なるものも組織の形があるようでない。党の系列の大衆運動にしようという発想はなかった。いいだもも、吉川勇一、武藤一羊、栗原さんたちが個人として関わっていたと思う。
 共労党は、ベトナム反戦闘争で他党派の後塵を拝していた。六九年の闘争をたたかう主体は何か、全共闘の学生部隊、反戦青年委員会の労働者、べ平連の市民だと規定した。学園や職場の現場を持たない人は個々でべ平連に参加した。それでべ平連をどうこうできるものではなかった。
田中 の分析は、六八年反乱の質をめぐる対立が七一年の共労党三分解をもたらした。これは市民主義の党ではなく、共産主義者の党だったから起きた。共産主義者はベトナム戦争を単なる平和の問題ではなく、帝国主義侵略戦争を内乱に導くための党としての目的意識性を持った運動とした。それが従来の理論でカバーできなくなったから、党組織は自己崩壊した。それが新左翼内における改革派としての共労党の六八年状況だという結論だ。
白川 ベ平連事務局長の吉川さんは党の中央委員だったけど、中央委員会にはよく遅れてきて、運動状況を報告すると会議を中座して、あたふたとべ平連の活動に戻る。とにかく忙しい人だという印象が強かった。彼は断固としてべ平連の自立性を守ろうとしていた。六九年の一〇・二一闘争で、私たちの学生部隊が都庁職の拠点政治スト(休暇をとって決起)に合流しようと、築地で地下鉄から地上に出たが、直ぐに機動隊に打ち負かされた。その後、べ平連が神楽坂・飯田橋で行動するそうだと聞いて、ももさんと僕がいたセンターがそれに合流しろと指示を出した。
 後でそのことを知った吉川さんは激怒し、次の中央委員会でそんな指示をするのは大衆運動の自立性を蹂躙することだと抗議した。彼は共産党時代に平和委員会で活動
し、共産党から除名されると平和委員会からも排除される苦い経験をしている。だから、大衆運動の党からの自立ということを重視していた。

脱走兵支援を実現したもの

田中 はJATEC(反戦脱走米兵支援日本技術委員会)をあげて党派の介在なしにただの市民ができるはずがないと言っている。「イントレビッドの四人」についての記者会見(六七年十一月)は、「統一」では破格の大きな扱いだった。
白川 JATECの責任者は栗原さんだったが、共産党時代の豊富な経験と個人的手腕を買われて責任者に指名されたんだと思う。共労党とは直接の関係はなかった。
田中 『となりに脱走兵がいた時代』の出版記念会を京都でやったときも、平凡な市民生活者で反戦運動と関係あるとは思えなかった人たちがきていた。
白川 JATECでの栗原さんの活動ぶりは知らないが、僕も京都で一度だけ米兵に付き添って隠れ家に連れて行ったことがある。その連絡も党の中央から来たのではなかったし、一緒に米兵を案内した人も党員ではなかった。脱走兵支援は、その送り渡しをしている人も、案内している脱走兵らしき人物が誰で、どこから来て、次にどこに向かうかという知る必要がないことは、一切聞かないし、知らない。そういう点は厳格に守られていた。が疑うのも無理がない。
 そういうネットワークを組織する上で栗原さんと山口健二の力量は大きかったと思う。亡くなった山口健二は、世界革命浪人のような人物だった。彼には七八年の三里
塚管制塔占拠闘争の後に、パレスチナ・ゲリラのキャンプでうちの幹部に軍事訓練を受けさせないかと声をかけられたことがあった。丁重にお断りしたが(笑い)。

前衛党意識からの脱却

田中 当時の組織原則は共産党と同じ、民主集中制だった。これが諸悪の根源として問題視され、田口=不破論争などが登場するのは七〇年代末で、当時は問題視していなかった。
白川 レーニンが民主集中制を実現したのは国家権力をとった後のことで、その前は分派闘争しかやっていない。我々はレーニンを学習はしていたが、口実を設けて平気で組織を分裂させるレーニンのやり方は体質に合わないところがあった。
 六八−六九年当時は、前衛党主義・前衛意識と大衆運動の自立性の擁護をいかに両立させるかと試行していたが、闘争をくぐりぬける過程で前衛意識に揺らぎが生じた。
田中 前衛は後衛があって、その責任感・指導者意識があって、先頭きってやれねばならない。逆境のときでもがんばるものだと。
 その前衛組織の指導者が、大衆運動の高揚の中では躊躇し迷うだらしのない存在。次々とそういう場面を見る。それまで自分たちが権威だと思っていたものが権威ではなかった。弱小党派のミニ宮僚なんて大衆運動でいったらケシ粒のような存在。自分自身も前衛党絶対の意識から解放される。代わりに、別の権威を作るというのは我々にはなかった。この点で革共同とは全く違った。
白川 反乱の中で、特に全共闘運動の中で党派は乗り越えられていると実感させられた。バリケード作るときも権力と衝突するときも、無党派は独創的だし計算なしに行動してしまう。反乱はこういうもの。そのエネルギーはすごく、党派はブレーキをかける側。
田中 党派がやっていたのはボス交渉。(笑い)
白川 レーニンもトロツキーも高揚期では党の役割を語っていない。ただ、六九年秋になると、野次馬も排除されて機動隊の壁を前にして党派軍団を組まないとやれなくなって、党派優位になる。退潮期に党をどう維持するかという判断を迫られる。僕は七〇年代の退潮期に党は必要だとこだわった。共労党を作った幹部の多くは、党は必要ないと考えた。……

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