1996年度  つくば大学比較文化学類卒業論文
 
  
    「べ平連」運動

           ――認識と関係の転回――
                         国 長 法 子
 
 
「べ平連」運動――認識と関係の転回―― 目次
序章
第1章 なぜ「べ平連」か
  第1節 動きたそうとする意思
  第2節 他の運動のあり方との比較
第2章 「歩きながら考える」
  第1節 運動のなかで認識を獲得する方法
  第2節 地域化、専門化の過程
  第3節 ある存在を支えとする認識の方法
  第4節 ベトナムの人々とのつながり
第3章 関係のあり方の模索
  第1節 個人と個人のつながり
  第2節 網の目のひろがり
終章
 
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序 章
 
 べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は、1965年2月のアメリカによる北ベトナム爆撃開始を受け、4月に始まったベトナム反戦の市民運動である。声なき声の会の高畠通敏が鶴見俊輔に声をかけ、さらに小田実に話を持ちかけ、小田を代表として運動は始まる。実際のスタートとなる4月24日のデモの際のビラの文面は、しばしば引用されているが、べ平連の運動の雰囲気を伝えるものとして重要であるので、ここで引用しておきたい。
 私たちは、ふつうの市民です。
 ふつうの市民ということは、会社員がいて、小学校の先生がいて、大工さんがいて、おかみさんがいて、新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している少年がいて、つまり、このパンフレットを読むあなた自身がいて、その私たちが言いたいことはただ一つ、「ベトナムに平和を!」(1)
 政治的主張をする場を持たない人々にべ平連は自分の意力を主張する場を開いた。街道を行くOLやサラリーマン、主婦や高校生、デモを目にし、ビラを手にとる「あなた」に呼び掛け、「ベトナムに平和を」という思いを共有する人々に、その思いを行動によって示していく場を提供したのである。
 このような広範な市民による政治的な運動としては、まず1954年から始まる原水爆に対する抗議行動がある。杉並の主婦たちから始まったと言われる原水爆禁止署名運動は、当初は、「特定の党派の運動ではなく、あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動」(2)であった。ヒロシマ、ナガサキの記憶がまだ生々しいところに三度目の被爆体験を受け、いたましいという感覚、ヒューマニズムによって多くの人が突き動かされたのである。しかし、政党の引き回しの姿勢が運動を変質させていき、ついに1962年12月に分裂するに至っている。
 次いで1960年の安保闘争時にあらわれる「声なき声の会」がある。6月4日に小林トミが友人と二人で「総選挙をやれ、U2機かえれ、誰デモ入れる声なき声の会、皆さんおはいり下さい」という横幕を持って歩き始め、歩道に声をかけながら行くと、後ろに続く人人は解散する頃には300人くらいになっていたという(3)。
 私自身なんの組織にも属さない人間なので今までデモに参加したこともなく、新聞、ラジオから流れてくる毎日のニュースをイライラして聞いていた。そして私もデモに参加して何十万人の一人になって意思表示しようと考えていた。そして友人たちと四人で相談して6月4日ゼネ・ストの日のデモに参加することになったが、組織のない人で、家にじっとしていられないが、自分の気持ちをあらわしようのない人々にも訴えて、老人も子供も気軽に一緒に歩ける様なのを考えようということになった。(4)
 ここにべ平連にひき継がれる性格がよく出ている。組織に属さず、いても立ってもいられない気持ちを持ちながら、その気持ちを表現する場、方法を持たない人たちが政治に対して自らの意思表示をする場をつくろうとしたのである。この声なき声の会があってべ平連は生まれてきたといえる。
 この両者の間で何が違うか。60年と60年後半から70年の運動ということで外的な状況は大きく異なっている。60年安保は安保改訂そのものよりもむしろ強行採決という方法に対する抗議であり、民主主義を守るための運動という色彩が強く、安保条約に対してはそれによって日本が巻き込まれるかもしれないという恐れからの反対であった。それに対して、70年には実際に安保条約に基づいて日本がベトナム戦争に加担しているというところから、加害者であることを拒否しようという切実な反安保だったのである。
 そして声なき声の会とへ平連では運動の規模において大きく異なっている。規模の大きさは性格の違いにもつながっていると考えられる。べ平連は声なき声の会のような小集団がベトナム戦争に対して一緒に行動しようというところから生まれ(5)、声なき声の会よりさらに大きく多様な集団、個人を結びつけていった。小田実はべ平連には「インチキ市民」「マジメ市民」「イデオロギー市民」という三つの流れがあったと言う(6)。お祭り好き、ほら吹きの「インチキ市民」、お祭騒ぎをしながらもその意義を考え「持続」を重視する「マジメ市民」、マルクス主義者の「イデオロギー市民」、それらが「せめぎあうことで、三つがおたがいにいきいきとして、全体として活気が出た」と言うのである(7)。ベトナム戦争が終わったところで解散したべ平連に比べ、声なき声の会は少人数でも毎年6月15日に集まるということ、『声なき声のたより』を出すということを絶えることなく続けており、小田の分類で言えば、「マジメ市民」の運動ということになるだろう。規模の大きさによる担い手の多様さがべ平連の運動の性格を多様なものにしていき、そこに声なき声の会と異なる部分が出てきたのではないだろうか。
 べ平連に至るまでをたどってきたが、ここでべ平連に関する先行研究を見てみたい。神田文人氏は「市民主義の台頭」という捉え方のなかでべ平連について論じている(8)。「ベトナムに平和を!」というスローガンはアメリカを非難しているわけではなく、だからこそ「中立的立場からの厭戦・非戦の態度」であり、「したがって原則的立場からの批判が生まれた」としている(9)。当時その曖昧さを批判されることが多かったスローガンを敢えて積極的に評価しているのはおもしろい。また、べ平連には「強烈な権利意識に裏打ちされた『私』」があり、「たしかに戦前的な運動には『公』の大義名分に削った『滅私奉公』的な要素が強かったことは否定できない。戦後の運動にもそれが尾をひいていた。」と述べ、このべ平運の私権意識に「一貫しているものはまさに戦後的発想」であると指摘している(10)。しかし、それでは不十分であると私は考える。べ平連の明確な「私」意識は「戦後的発想」という以上に、体制に対してと同時に反体制側の運動に対しても異義を唱えるものであり、それまでの組織による運動とベ平連とをはっきり分けるものだった。本論では、この「私」意識のうえにある、運動における新しい関係の試みを主として第3章において論じる予定である。
 また、色川大吉氏は戦後の民衆運動のなかの平和運動としてべ平連を、住民運動として「水俣病闘争」をとりあげ、比較しつつ論じている(11)。べ平連は「日本国家や自分自身をベトナム戦争への加担者の一部として認め、その加害の行為をなくすために、進んで選んだ自発的な運動」であり、「そこには第三世界の民衆のなかに入って日本を見返す目があった」ということが指摘されている(12)。これは神田氏も「加害者としての痛覚をいや応なく自覚させられた運動」であったと指摘している(13)。天野正子氏も「生活者」というキーワードの系譜を迫りつつ、生活クラブとともにべ平連を取り上げ、次のように指摘している。
参加者のそれぞれが、運動の過程でベトナム人を被害者(受苦者)とすることにより利益を受けている加害者(受益者)の日本人として、自らをみるようになったのである。べ平連運動の核には、ベトナムを介して、『私とは何者なのか』というアイデンティティヘの問いがあった。(14)
 それまでの平和運動が主として被害者としての立場からのものであり、太平洋戦争の日本の加害責任が明確にされないままであったところに、べ平連が加害者としての運動を行なったことは、画期的な意味を持った。そしてその加害者としての運動は、始めに理論として打ち出され、それに基づいて運動が形成されていったわけではなく、行動のなかでベトナムに突き付けられるようにして自らを見返すことによって、加害者であることが実感に支えられながら理解され、その上にまた運動が展開されていくという形で具体化されていったのである。その流儀とも言うべき方法のなかにべ平連の特質はあるのではないか。本論はべ平連を「加害者の運動」であったと指摘して終わりにするのではなく、それを具体化していく過程に重心をおいて論じたいと思う。
 これらの先行研究には、各人ともそれぞれの切り口を持ちつつも、べ平連の諸要素を順に挙げて論じているという傾向がある。それはべ平連が、そもそも一つの要素を以て「これがべ平連だ」と示すことのできない、つかみどころの無さを特徴としていたところに起因するのではないだろうか。したがって、本論はべ平連の全体像をこの小論を以て切りだしてみせる、ということを目的とはしていない。あくまで私の関心によって照らしだした像でしかないのである。そして私の関心とは、突き詰めていくと、市民がどのように社会に関わっていけるのかということと、抑圧・被抑圧の無い対等な人間関係のあり方とは一体どういうもので、またいかにして実現されるのか、ということにある。その関心によって見たとき浮かび上がったのが、「ふつうの市民」によるべ平連運動であり、べ平連のなかにある行動しながら考えていく方法、そして関係のあり方の模索であった。市民がどのような思いで社会と関わる方法としてべ平連を選び、そこでどのように反戦運動を進めていったのか、運動のなかにどういう関係を招こうとしていたのか、ということをできる限り具体的に見ていきたいと思う。
 
(註)
 
(1)「ベトナムに平和を!」市民・文化団体連合「呼びかけ」 (ベトナムに平和を!市民連合編『資料・「べ平連」運動』上、河出書房新社、1974)6頁。以下『資料・「べ平連」運動』と略し、引用頁は同書による。
(2)水爆禁止署名運動杉並協議会「杉並アピール」(『資料戦後20年史』1、政治 、日本評論社、1966)109頁。
(3)・(4)小林トミ「それはこうしてはじまった」(『声なき声のたより』創刊号、1960、『復刻版 声なき声のたより』第一巻、思想の科学社、1966)5頁。
(5)当初べ平連の正式な名称は「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」といった。しかし、実態としては個人の連合であり、1966年の10月に行なわれた全国会議において「ベトナムに平和を!市民連合」と改められている(古山洋三「べ平運全国会議をおわって」<『べ平連ニュース』14号、1966・11、ベトナムに平和を!市民連合編『べ平連ニュース』合本縮刷版、ほんコミニケート社、1993年版>32頁。)以下、『縮刷版ニュース』と略し、引用頁は同書による。
(6)・(7)小田実「三種の市民」(『鶴見俊輔著作集 月報5』、1976、筑摩書房)。
(8)神田文人「国民意識の変化と大衆運動」(『岩波講座 日本歴史23現代2』、岩波書店、1977)。
(9)神田文人、同上論文、281頁。
(10)神田文人、同上論文、282頁。
(11)色川大吉「民衆運動のフォークロア」(『世界』1986・2号、岩波書店、色川大吉『昭和史世相篇』小学館ライブラリー、1994)。
(12)色川大吉、同上論文、242頁。
(13)神田文人、同上論文、283頁。
(14)天野正子『「生活者」とはだれか 自律的市民像の系譜』(中公新書、996)181〜182頁。
 
 
第1章 なぜ「べ平連」か


第1節  動きだそうとする意思
 アメリカによる北爆は悲惨な事件として人びとのヒューマニズムを刺激し、かわいそう、ひどすぎる、という気分は多くの人に共有されていた。そこにべ平連が「誰でも入れる」という行動の場を提供し、運動は広がっていったのである。ここでは、どんな思い、考え方で人ひとが行動をしていったのかを見ていきたい。
 私のこれまでのベトナムについての考え方は、非常に関心はあるけれども、ただ机上の空論になってしまい、実際的な行動というものは用心深くてなかなか活動する勇気はわいてきませんでした。(1)
 ベトナム戦争に対して社会的関心は高く、この悲惨な戦争に対して黙っていていいのかと思いながら、行動に踏みだす勇気と行動する場を持たず動きだせずにいる、という葛藤が『べ平連ニュース』に寄せられる読者のたよりのなかに多く読み取れる。そういう人びとにべ平連は「自分なりの行動を」呼びかけ、カンパ活動や老人から子供まで入れるデモ等、参加しやすい形の行動を提起し、行動する場を開いたのである。
 私はデモに参加していても、いまだに人の目が気になるし、また、こんなことをして何になるのだろうと思ったりしている。でも、心の中で思いめぐらしているよりも、行動を通じて思いめぐらした方が、よりたしかな何かが生まれてくるのではないだろうか、と思い、デモや、集会や、会合に参加している。(2)
 運動の持つ効果、意味を何もしない状態で思い悩むのではなく、行動の中で考えていこうとする。抵抗感を持ちつつも行動をすすめていこうとする姿勢、自分の頭のなかだけで空転する思考を減らし、現実とのぶつかりのなかで考えていこうとする姿勢がある。そこに、行動を推し進めていくための思考の方法が読み取れる。
 この「こんなことをして何になるのだろう」という効果に対する疑問は、大なり小なり、行動につきまとう。
 しかし、行動の効果を考えてから行動しようとすれば、結局行動を行なうことができなくなってしまう。つまりそれは一個人の力では、どのような行動をとっても殆ど効果が期待できないから。それよりもやらなければならないと感じたならば、それが効果のない自己満足的行動であっても行なった方が行なわないよりずっと良いと考える。(3)
 「自己満足的行動であっても」という部分は異論もあるだろうが、効果に対してあきらめを持ちつつ、「やらなければならない」という思いを持ち、しないよりした方がいいと考え行動する、その思いと考え方は多くの人に共有されていたのではないか。常にマイナスの可能性と疑問は除ききることはできないので、するという方を絶対的に良いと判断することはできないが、そこで止まってしまうのではなく、さまざまな要素を考えたうえでよりよいと思う方を選び、一歩を踏みだしていくという考え方を読み取ることができる。
 そして「やらなければならない」と思うのは、「沈黙は同意につながる」と考えるからであり、あるいはベトナム戦争の悲惨さに感情的に「とにかく何もしないでいるのがたまらなく苦痛」(4)であると感じるからである。自分自身を状況から切り離して考えず、何もせずにいることは何もしないことによって、現状を容認し加担することにつながると考える。そして、その加担から自分を切り離していくために何かをしなければならないと考えるのである。
 また、効果に対して疑問やあきらめを一方に持ちつつも、小さな積み重ねがいつか力を持つというような考え方もある。
日本中で、一人でも多くの人が、どんなささやかな形でもいい、声をあげることによって、その人数がひとりでもふえることによって、私達は私達の考えをそれだけつよく世界につたえ、アメリカ政府につたえることができます。(5)
 一人一人の声が持つ力はとてもささやかだが、それを少しでも多く集めていくことで訴える力を強くすることができる。個々の行動の効果が即座に目に見える形で現われることは少ない。しかし、その積み重ねによって、いつか効果を持つこと、じりじりと変えていくことを考えている。この考え方は、効果が見えないことで無力感から無気力に陥るのを防ぎ、運動を続けていくことを支えていくことができるのではないか。
 直接目的とする効果とは別に、行動を起こすことが自分自身や社会に対し、一定の歯止めとしての役割を果たす、ということも考えられる。
私達が沈黙をまもればまもるほど、今ある状態は平常とされます。それに対して不感症がひろがります。平凡な人間、おとなしい人間、いつもだまっている人間が、声をあげて抗議しなければならない時です。(6)
 黙っていることによって現状にならされて危機感が薄れていき、さらに悪い状況になったときも声をあげられなくなるかもしれないという危険に対して、おかしいと思った時、反対の意思を持った時、どんなにささやかであっても声をあげ、行動をしていくことによって歯止めをかけていこうというのである。そこには15年戦争で少しずつ軍国主義が強められていくなかで、疑問や反対の意思を持ちながら、声をあげることができず、戦争へ向かっていくのを止めることができなかったという記憶がある。
 母が「なによ、そんなこと(アメリカ製品のボイコット行動を指す、引用者註)ぐらいで」と申しましたが、ここが大事な処と思います。大人の、大正初期の良き時代に青春を送った母達の、この「そんなことぐらいで」という感覚が、自分も含めて、自分の子供たちまでをも、戦いの渦の中にまきこんだのではないかと思います。動くこと、行動すること、これが大事なことのように思えます。(7)
 「そんなことぐらいで」何も変わらないというあきらめによって手をこまねいているうちに状況が悪化していき、止めたいと思ってももうどうにもしようがない状況になり、戦争への道を少しでも食い止めていくような行動ができなかった。そういう戦争の記憶を背負いながら、今ある状況に対して自分がどういう行動をとっていくかを決めていく態度がある。今度のアメリカによるベトナム戦争、それに加担する日本政府に対して、そのまま戦争の方向に引っ張っていかれないよう、引っ張る動きに対してこれからも声をあげていかれるように、今はっきりと声をあげることで歯止めをかけていこうという意味がこめられているのである。
 ベトナム反戦運動をしていく時、個人個人、それぞれの思いがある。しかし、その中に共通するものがある。ベトナム戦争を全くの他人事として放っておけない、自分と切り離せないものとして感じ、不安と疑問を持ちながらも、「せずにはいられない」という気持ちで行動に踏みだしている。この「せずにはいられない」という気持ちは、他の誰から強制されるのでもなく、自分が自分自身に対して持つ責任から来るのではないだろうか。そして、社会の状況に対して自分の意思を持ち、その意思の指す方向に対して自分が社会とどういう接点を持っていくのかという意識がある。その接点の持ち方は、べ平連に関わった人たちにとっては、べ平連での活動であったのである。そして行動していくことを支えていく考え方がそれぞれの形ではあっても、共通して読みとることができるのである。
 
(註)
 
(1)林美代子「『反戦のすすめ』をよんで」(『べ平連ニュース』24号、1967・9 「読者のたより」欄、『縮刷版ニュース』)75頁。
(2)『ベトナム通信』42号、1971・7、編集後記(『復刻版ベトナム通信』、不二出版、1990)384頁。以下『復刻版通信』と略し、引用頁は同書による。
(3)京和好「沈黙は同意につながる」(『ベトナム通信』3号、1967・10、『復刻版通信』)10頁。
(4)由原木冴子「渦巻の中に飛び込んで」(『ベトナム通信』22号、1969・11、『復刻版通信』)147頁。
(5)・(6)「『ベトナムに平和を』京都集会」 (呼びかけ文)(『資料・「べ平連」運動』
 上)2頁。
(7)本田幹子「日米市民会議に参加して」(『べ平連ニュース』5号、1966・10、「特集・読者からのたより」欄、『縮刷版ニュース』)29頁。
 
 
第2節 他の運動のあり方との比較
 
 ベトナム反戦の意思を持ち、動きだそうとするとき、他にも運動があるなかでなぜべ平連だったのか。偶然べ平連だっただけなのだろうか。
各々ベトナム戦制こは関心を持ち、何かやろうと考えた時、「べ平連」の運動だったら素直にやってゆけるのではないか、自分たちの考えを生かしてゆけそうだと思い、参加することにしました。(1)
 べ平連だったら抵抗感が少なく、自分たちの考えを尊重しのびのびやってゆけそうだというような思いが語られている。ニュースに寄せられる文章を読むと、学生運動、労働組合、政党の運動のあり方に違和感を抱き、「べ平連だったら」素直に入っていけそうだ、という気持ちで運動を始めていく人は多くいたようである。「べ平連だったら」という気持ちはどこから来ていたのだろうか。その他の運動のあり方と比較しつつ見てみたい。
 労働組合は当時ベトナム戦争反対を訴えていたが、日当を払ってデモや集会に大量の労働者を動員するやり方は、市民の自発性を汲み取れるものではなかった。また、総評は1966年10月21日のベトナム反戦ストライキを中心となって行なっているが、その「68年度運動方針」(2)を見ると、四つ挙げられた「主要闘争目標」の四つめの「平和活動・政治活動の強化」の中で「アメリカのベトナム侵略に反対し、佐藤内閣の戦争協力に抗議する闘い」が出されている。最低賃金、社会保障、合理化反対等、経済要求をめぐる「闘い」の数々が挙げられた後、その終わりにベトナム反戦が出されるという形では、北爆に憤り、自発的に立ち上がった人びとの気持ちに応えられなかったのではないだろうか。
 「ベトナム特需」と言われる、戦争に必要なさまざまな物資から武器の原料、航空機等の修理までを日本の産業は担い、日本の経済はベトナム戦争に密接に関わり、戦争を支える役割を果たしていた。労働組合はまさにその現場から実態を告発し、影響力を持って訴えられる可能性を持っていたのではないか。しかし、現実には実質賃金の上昇によって「マイホーム主義」が広がり、労組による平和活動は終息していってしまうのである。
 こうした労組や政党という組織に属さない人、組織にとらわれず個人の立場で反戦を訴えていきたい人が、行動する一人一人がべ平連であるという開かれた運動体であるべ平連に集まっていった。
 (前略)社会党の代議士のあいさつ共産党議員のアジテート、県評地区評の決議文、等々…「我々労働者は――我々労組は…、我が党は――、ベトナム反戦の為に…。」私は司会者のマイクをひったくる様に取りました。
 「私は松本べ平連の飯沼です。皆さんの御話によると、組織のみが平和を護り、ベトナム反戦に闘い労働者のみが佐藤内閣をたおそうとしている様に受けとれます。私は強く強く抗議します。組織のない、自分の云いたい事を発言する「場」さえ持ち合わせのない私達市民だって思っている事は同じなんです。共闘しましょう。(後略)」(3)
 組織に属さない人たちがべ平連という「組織ではなく運動体」で反戦を訴えていこうとしたのである。労組や政党の運動は誰もに開かれた組織とはなっておらず、「我々は…」という語り口によって組織外にある人びとに疎外感を与えた。そして政党に現われるような、中央本部が地方組織を指導していく、というそれまでのピラミッド型の組織のあり方に違和感を持つ人びとは、それと違うつながりのあり方を招こうとするべ平連に魅力を感じたのではないだろうか(4)。
 また、べ平連は政党と違ってベトナム反戦を目的とした運動であり、思想、信条は全く問われなかった。ベトナム戦争に反対でありさえすれば、行動をともにできたのである。マルクス主義を知らなくても、共産主義の立場をとっていなくてもべ平連には加わることができた。理論やイデオロギーを身につけていなくても、ヒューマニズムから出発し行動していくことができたのであり、敷居をなくし、そのまま行動に移っていくことができたのがべ平連だったのではないか。
 さて、68年に始まる全共闘運動は、大学の管理体制を告発し、学生の自治を求めるところから出発した。そして、大学とは何か、学問とは何かを問い、当時のそれらのあり方を否定し、さらにその上にいる自分自身をも否定していった。心情的に共鳴するものを持ちながらも、べ平連は白己否定によって自らを切り詰めていくような方法をとらなかった。
われわれが日常生活の中から出発しているということは、どうしてもそこにいろんな種類の自己欺瞞を含んでそこから出発せざるをえないといういことで、それをまじめに見据えていけば、やがてはそのなかで本格的なものにぶつかる。(5)
 頭から否定し、とぎすましていくのではなく、自己欺瞞を持ちつつ、それを背負いながらゆっくりと進んでいく姿勢がある。戦後民主主義に乗っかったところから出発したとしても、だんだんとその欺瞞性に気づき、自分の生活に対して疑問を持っていくところまで行き着いていく、というゆっくりとした歩みをべ平連は持っていたのである。それは、学生の性急な姿勢とは違っていたのではないか。
しかし、全共闘とベ平連の「組織」のあり方は、よく似ている。長くなるが、全共闘の「組織」のあり方について書かれた文章をここで引用したい。
 そして驚くべきことには、一方では明確な指導機関が設置されておらず、また、「正式の代表」など一度も選出したことがなく、他方ではメンバーシップが確立されていない。前者についていえば、最高決定機関らしきものとして代表者会議があるが、これとても、代表の資格・選出規定のないままに、先きにみた構成要素組織から任意の代表(?)が出て開催されるというルーズさでありながら、なお具体的な行動形態までが延延たる討議のすえ決定されるのである。後者についていえば、だから全共闘のメンバーは何名かという問いはそもそも成り立たぬのである。(中略)
かくのごとき非組織的組織であること、そしてそれでもなお、「雑然たるなかの秩序」が保たれ、周知の如き戦闘力を発揮することは、個々のメンバーの全共闘への参加の仕方に根本的に由来していると考えられる。この参加の仕方とは、要するに、各人の完全に主体的な決意にのみよる参加なのである。(6)
 選挙によって選出した代表と多数決による議決という形式民主主義の形骸化を突いた全共闘が、自らの「組織」のなかで民主主義を追求しようとしている様子がうかがわれる。そして、組織の拘束のない、個人の主体性を求心力としたつながりが描かれている。べ平連は代表として小田実がいたが、指導機関などというものはなく、「神楽坂べ平連」の場合、「内閣」と呼ばれる誰でもが参加できる討議が「最高決定機関らしきもの」としての役割を果たしていた。規約も会員登録も無く、行動する一人一人がべ平連だった。そして、全共闘と同じく、個人の主体的参加、自発性によって支えられていたのである。先に引用した文章が理想を論じ、現実は多少違っていたとしても、べ平連も全共闘もそれまでの反体制的な組織と違った「組織」のあり方を目指していたのは確かである。
 全共闘とベ平連とはっきり違うところとして暴力の問題がある。当時の学生にはゲバ棒と呼ばれる角材を手に持ち、ヘルメットをかぶるというスタイルがあった。「暴力学生」というイメージは警察とマスコミが拡大してつくっていったにしても、学生に暴力を辞さない姿勢があったのは事実である。それに対し、べ平連は基本的に非暴力の立場をとっていた。政党も非暴力合法の行動をとっていたが、その「整然さ」は自発的に立ち上がる人びとの熱意を吸収する力を持っていなかったのではないか。べ平連は時に坐り込みやジグザグデモといった行動も辞さない部分も持ちつつ、一方老人や子供も一緒に行動できる部分も確保できるデモを心がけていたといえる。一見生温く見えたかもしれないが、暴力を辞さないということが反戦の意思を測る尺度にはならないし、べ平連が暴力に抵抗感を持つ人、反対の人にも行動できる場を提示した意味は大きかったのではないか。
 これまで見てきた労組、政党、全共闘のいずれにも無く、べ平連にあったものとして運動のなかにユーモアを持っていたということがある。梅雨の季節には傘にスローガンをつけ「アンブレラデモ」をし、基地の側で凧を挙げ戦闘機の離発着を阻止する、花束を持ってデモをする。ビラや機関紙を見ても、どこかユーモアがある。ベトナム戦争は深刻で反戦に向ける意思も真剣そのものであっても、運動のなかにユーモアを持とうとする姿勢があった。それは、周りが見えなくなったり、思考が柔軟さを失って行き詰まっていったりして、運動が硬直していく危険を薄めていく役割を果たしたのではないか。そして気楽に運動に入っていける雰囲気を創りだすことにもなったのである。
 そして、日常から出発し、運動と日常生活をつながったものにしていこうという努力がある。運動のなかだけでしか通じない言葉ではなく、普段使っている言葉で語ろうという姿勢がある。それはべ平連の「ベトナムに平和を!市民連合」という名前や、「なにかおかしいとかんじている人、なにかやりたいと思っているひと、とにかく集まってみようじゃないかの集会」という集会の名称のつけ方にも読みとることができる。このことは運動に加わるときの抵抗感を減らして入りやすくし、また運動が運動外にいる人びとと切り離されたものになっていくことを防いでいく意味があった。
 べ平連はどんな人であっても、ベトナム戦争に反対でありさえすればそのまま運動に入っていけるような運動としてあった。イデオロギーも自己否定も要らず、自分の日常からそのままつながった形で行動に踏みだしていくことができたのである。そして、ベトナム反戦をストレートに訴え、カチッと統制された組織ではなく、ユーモアもあり緩やかなつながりとしてあるべ平連は、すんなりと入れると同時に、自立性と自発性を活かしていくことのできる運動として人びとの感性にあったのではないだろうか。
 
(註)
(1)北沢豊実「『べ平連』伊那谷の会」(『べ平連ニュース』2号、1965・11、「各地のうごき」欄、『縮刷版ニュース』)4頁。
(2)国民政治年鑑編集委員会『国民政治年鑑』1969年度版(日本社会党機関紙局)366〜373頁。
(3)「ベトナムに平和を!日本各地の動き」欄に、「ベトナムに平和を!松本市民の会」世話人飯沼瑛さんの事務局あての便りとして載せられているもの(『べ平連ニュース』14号、1966・11、『縮刷版ニュース』33頁)より引用。
(4)このピラミッド型の組織のあり方に対応するべ平連の個人と個人のつながりのあり方 は第3章で詳述する。
(5)伊津信之助、小田実、久能昭、小中陽太郎、鶴見俊輔、鶴見良行、福富節男、山口文憲、武藤一羊、吉岡忍、吉川勇一、司会古山洋三「討論・われわれにとってのベトナムとは」(小田実編『べ平連 巨大な反戦の渦を!』、三一書房、1969)74頁の鶴見俊輔の発言。
(6)村尾行一「紛争の根底に流れるもの」(『世界』1969・3月号 特集 試練に立つ大学の自治、岩波書店)127頁。
 
 
第2章 「歩きながら考える」
 
第1節 運動のなかで認識を獲得する方法
 
 べ平連は、まず理論や分析をもって、そこからそれに基づいて運動の方針をたてるという方法をとらなかった。体系化された理論やイデオロギーに馴染みの薄い市民が、日常から出発していこうというべ平連のとった方法は、「歩きながら考える」という言葉に象徴される、行動しながら、行動のなかで認識を深め、また行動していくという方法である。これを市民という主体に規定された止むを得ざる方法として捉えて終わりにするのではなく、行動と共にある認識の方法としてとりあげたい。
 この方法は状況から切り離したところに自分の身を置いて、全体を見渡すというのではなく、状況のなかで、見ようとする対象にぶつかりながら見ていこうという方法でもある。当然、視野は限定されてくる。しかし、そうした見方だからこそ見えてくるものもあるのではないか。
鳥カン図というものがある。世界のもろもろを上空高くから大観するというものの見方である。例えば日本なら日本を、北海道から沖縄まで上空を飛んで、大きく捉えるという考え方である。
それに対して、これはたしか鶴見俊輔氏の造語だが、虫カン図というものを考えてみることができるだろう。虫は地上をはいずりまわる。その歩みはのろい。日本というふうな巨大なものを総体としてとらえるというような芸当はできそうにない。その代り、その日本の地表のこまかな起伏、そして、他の虫のそれぞれの生き方のありさまをいやおうなしに知っている。ウンザリするほど、知らざるを得ない。(1)
 行動のなかで考えるという時の見方は、このr虫カン図」という見方になるだろう。この見方では一気に日本の総体を捉えるということは無理である。しかし、一つ一つの起伏、社会に具体的にあらわれてくる歪みを見ていくことはできる。そしてその積み重ねから、日本の総体を描いていくこともできるのではないだろうか。それがべ平連の運動の変化にもあらわれていると考えられる。
 また一方で、そもそも全体の構造を把握するということは可能なのだろうかという疑問もある。
私たちの運動は、あらかじめ全領域の見通しを与える設計図などはもたなかった。そんなものをもち、全世界を領有するといった思考をしなかった。そんな「美しい時」は始めから、考えられなかった。(2)
 自分の限界の認識と同時に、全体の構造などというものは、静止した固定的な像として描けるものではないという認識がある。それは具体的な状況のなかで捉えていくしかないものであり、それも常に流動していくものと考えられる。このように考えると、行動のなかで考えるという方法は、柔軟でプラグマチックな方法と言えるのではないだろうか。また文字の上だけで抽象的な概念としてものを捉えるのではなく、自らの実感に支えられた認識の獲得の方法として評価することもできる。新しい認識の獲得は同時に今まで身につけてきた価値観、考え方を変えていくことにもつながっていく。それは行動のなかで現実に迫られた形だからこそ、認識の転換を可能にするだけの力を持ったということもできるだろう。
 また、体系化された理論は時として権力に利用されたり、それ自身が権威を持ったりする危険を持っている。そういう理論に寄り掛からず、自らの行動から理論を引き出し、自分とつながった形で理論を持つことは、権力に持っていかれたり、自ら権力と化す危険を減らすことができたのではないだろうか。
 さて、「歩きながら考える」ということは具体的にはどういうことであろうか。文字どおり、デモ行進で数キロメートルを歩きながら、自分の主張することの意味、これからの運動の方向を考えるということがある。しかし、「行動」というものをより広い意味で考えてみたい。
「行動」というのは、ある一回のデモ、あるときの坐り込み等々ということではない。そこにいたるあらゆるプロセスや、そのあとのこともふくめていっているのだ。(3)
 「行動」とは、デモや集会といった具体的な行動だけを言うのではなく、動きだすまでの一人一人の思索から他人との接触、議論、具体的な事務手続き、そして終わった後のことまで、その全てを含めたものが「行動」なのである。この「行動」のなかで考えるということはどういうことか。「行動」のなかでは、自分の行動の意味、目的、方法を捉えかえすことが要求される。そして行動のなかで、考え、時に本を読むことになるのである。本を読むということは、行動と離れているものという印象を受けるが、この二つはまるっきり離れているものではなく、行動のなかで必要に迫られて本を読み、また行動に移る、その全体が「行動」なのだと言える。同じ本を読むにしても、それまでの行動の残したものと、これからの行動への視線によって本の読み方も違ってくるだろう。
 「歩きながら考える」ということは、個別的な行動、体験から、そこに至るまで、そしてその後までを含めた「行動」の中で考えることと言うことができる。そしてそれは、机上だけで捉えた場合にぷかぷかと浮いた概念となりがちなものを、自分自身とつながったものとして、自分の感覚を基礎として具体的に捉えかえすことを可能にするのではないだろうか。
 さて、この方法によって、べ平連の人々にいったい何が認識されていったのだろうか。次節では具体的に運動と認識が相伴って深められていく様子を見ていきたい。
 
(註)
(1)小田実『難死の思想』 (文芸春秋、1969)545頁。
(2)・(3)福富節男「私たちは急がなかった」(『べ平連ニュース』92号、1973・5、『縮刷
版ニュース』)605頁。
 
 
第2節 地域化、専門化の過程
 
 初期のべ平連の活動では、まず代表的なものとして1965年8月15日に行なわれた、徹夜ティーチインが挙げられる。これは、宮沢喜一、中曽根康弘、飛鳥田一雄、日高六郎、桑原武夫、といったそうそうたる人びとを招き、赤坂プリンスホテルにおいて行なわれた。生中継のテレビ放送が途中で打ち切られるというハプニングもあって、話題を呼び、べ平連の名を全国に広めることになった。そして、開高健が中心になって行なった「ニューヨークタイムズ」紙への反戦意見広告運動である。そのよびかけ文には次のようにある。
 人殺しに反対の人、ベトナムの戦争はイヤだという人、日本人も巻きこまれちゃ困ると思う人、あの国のことはあの国の人にまかせるべきだと思う人は、フロ代の残りを送ってください。(1)
 日本のベトナム戦争加担の問題、日米安保の問題はここには出てこない。ともかく戦争がいやだという人、ただ自分が巻き込まれるのを心配する人もこの運動に入ることができたのである。そして自分の余裕のある程度で関わることができた。「コーヒーのお釣りでもフロ代の残りでもいい」のだから、気楽なものである。その気楽さとユーモアが多くの人を運動にひきつけることを可能にし、この後66年6月に始まる全国縦断講演旅行によって、全国にべ平連ができていくことになるのである。しかし、運動の初期として人びとの関心をひきつけ、あるいは高めるには効果が大きかったにしても、打ち上げ花火式の運動であったという観は否めない。
 それが、1966年12月10日に米兵に反戦リーフレットを配るという活動が行なわれ、そこから日本国内の米軍基地、自衛隊の基地に対する反軍闘争が始まっていくのである(2)。視点が国内の具体的な存在へと定まってきたのだった。68年に始まるベトナム反戦のための「六月行動」は69年には「ベトナム反戦と反安保のための六月行動」と題されて行なわれる。ここにおいて反安保が明確に打ち出される。そして、日米安保体制のあらわれである具体的な事物に対して運動が取り組まれていくのである。1968年の3月から王子の野戦病院に対して、抗議の行動が始まるが、ここでその行動のなかで配られたビラの文面を見てみる。
――王子の野戦病院は、日本政府のベトナム戦争加担の明らかな事実だと思います。ベトナム戦争に反対する六月行動月間の中でこのことを見逃すことはできないのです。沖縄をはじめとして日本の中にある数多くの米軍基地に背を向けて、ベトナムに平和を!とは叫べないのです。(3)
 ただアメリカにベトナムから手を引け、というだけの運動から、日本国内にあるベトナム戦争に関わるものが見えてきて、日本のベトナム戦争に対する加担を拒否しようとする運動へ変わっていったのである。それは、ベトナム戦争が泥沼化し、日本のベトナム戦争への加担がぼろぼろとあらわれ出てきたという状況のせいもあるだろう。しかし、それ以上に、人びとが運動を続け、問題にぶつかっていく中で、目の前にあらわれてきたと考えたい。そして、運動は全国的に大きなイベントをするようなものではなく、反基地闘争や、補給廠、米軍用燃料輸送に対する反対闘争等、個別的な地域での取り組みへと移行していった(4)。さらに71年になると、三菱重工業反戦株主運動が始まり、軍需産業に対する反対運動が起こってくる。71年の全国懇談会のアピールには次のようにある。
 現実を直視したいと思います。「民主ファシズム」としかいいようのないものが、私たちの上におおいかぶさってきています。それと密接にからんだ形で「平和軍国主義」「皆殺し福祉主義」が私たちの上におおいかぶさってきて、私たちの息の根をとめようとしている。これが日本の現状だと思います。(5)
 運動をしていく中で、今の日本がどういう状況にあるかということが把握されていき、「民主ファシズム」「平和軍国主義」「皆殺し福祉主義」と表現するに至ったのである。この一見矛盾する言葉をつなげた表現は、彼らに見えてきた現実を、理論によってきれいな形で割り切るのではなく、現実のままに捉えようとした結果であるのではないか。
 今見てきたように、べ平連は各地域での個別的な運動、専門的な運動へと移行していった。それに伴い、同時にそれをおし進める形で日本の現状に対する認識の深化を読み取ることができる。そして、それは66年に小田実が言い始めた「被害者=加害者」の関係が具体的に肉付けされていった過程でもある。長くなるが小田の発言を引用する。
 すでにわれわれは椎名外務大臣が言明したように、われわれは中立ではない、論理的に言っでわれわれの立場というものはアメリカをあと押ししている立場である、そういったことになります。そしてこういったなかで、そうすると日本というものはアメリカに対しては被害者の立場に立っているかも知れない、アメリカに対して強力なことを言うことができない、日本政府はそんなふうに考えているかも知れない。そうすると日本はアメリカに対して被害者の立場に立っている。しかし同時に、そのことによってベトナムに対しては加害者の立場に立っている、そういうことが言えます。そして日本国内では、日本人民は国家と個人の関係においては、われわれは被害者の立場に立ち、そしてさまざまの形で、直接、間接に国家に協力せざるをえないところに追い込まれていて、そのことによってわれわれはベトナム人民に対して加害者の立場に立っている。そういうような奇妙な連鎖反応というものを起こしています。(6)
 基地や野戦病院は周辺に騒音や伝染病の危険をもたらす迷惑な存在である。そこで日本人は被害者になりながら、同時にベトナム戦争に加担させられ加害者の立場に立たされている。被害者であると同時に加害者であるということが、基地や野戦病院といったものに対して運動をしていくなかで、実感として理解されていったのである。
 しかしその運動の専門化はまた違った問題を生んでいくことになる。
私たちは、もう一度、市民に戻ろう、路地裏へ入り、家庭に入ろう。去年一年、運動は個別化し、専門化して来た。そして市民が集まらなくなった、といわれる。これをどう解決するか難問だが、私は敢えて言う。私はべ平連内部の素人に徹したい。(7)
 運動の専門化、個別化によって、だれでも気楽に入れるという市民的広がりが危うくなってきたのである。そこで「素人に徹する」、あるいは「もう一度べ平連のユニークさを」(8)ということが出てくるわけだが、運動は徐々にしぼんでいく。それには71年のニクソンの訪中辺りからベトナム戦争終結が噂され始め、反戦熱が冷まされる一方、各党派の内ゲバが激しくなり、連合赤軍事件が起こり、市民の離反を招いていったという状況がある。しかしそれだけではなく、続けていくなかで深まっていった運動はもはや、気楽に参加できるものではなくなっていったのではないか。ベトナム戦争はあんまりひどすぎる、そんな気持ちで始まった運動であったが、安保条約による日本の戦争に対する加担が具体的に見えてくるにつれて反基地、軍隊の解体、反軍産へと専門化していった結果、当初のように広範囲な市民が気楽に参加できる運動とは変わってしまったのである(9)。
 そのような負の側面を持ちながらも、運動とそれに伴う認識の深まりは、注目すべきものとしてある。行動のなかで考えるという方法によって実際に人びとが日本の現状を見据えるところまで認識を深めていった様子を、運動をたどることで読みとることができるからである。そしてそこをくぐり抜けてきた人びとはそれ以前と異なった新しい主体となっていったのではないか。
 下獄する人、大学をやめた人、大学へ入ることを放棄した人、職を捨てた人、さらに、そういう形では表現しなかったが、もはやこの社会内での価値序列になじまなくなってしまった人、それらの人びとは、自分がすてたものより大きな価値を「時代」のなかにみた。それを「時代の正義」――ちょっと抽象的だが――と呼んでおこう。(10)
 運動の中で日本のあり方、そこに生きる自分自身のあり方が見えてきたとき、新しい価値観を獲得し、社会にある「価値序列になじまなくなってしまった」のだろう。それまで気づかぬままに浸かりきっていた現実から醒めたところで、社会と自分自身を見てしまったのである。そしてもはや、何も考えずにその中に浸かりきって生きていく、ということができなくなってしまったのではないだろうか。べ平連のなかで行動しながら考えていくことによって、主体の変革がなされていったのである。
 
(註)
(1)「『ニューヨーク・タイムズ』紙にベトナム戦争反対の広告を出そう」(『資料・「べ平連」運動』上)46頁。
(2)『資料・「べ平連」運動』各巻末に付された「べ平連運動日誌」から基地に対する運動をひろっていってみる。
1966・6・1 横須賀で米原子力潜水艦寄港阻止のデモ
   12・10 横須賀基地前で米兵に英文の反戦リーフレットを配布
1967・3・12 米軍立川基地で英文反戦ビラまき
   5・21 岩国の米兵に英文反戦ビラ配布
1968・1・18 米原子力空母エンタープライズ号の入港に反対するデモ
   5・19 北九州、山田弾薬庫で弾薬輸送阻止闘争
   7・7 東京練馬に「ベトナム戦争に反対し、朝霞基地撤去を求める大泉市民の集い」発足
1969・2・23 各地のべ平連、基地への一斉デモ
1970・1・11 青森べ平連、三沢基地で英文ビラ配布
   1・17 神奈川岸根基地に対し反戦放送
   7・18 大泉市民の集い、朝霞基地前で「反戦テレビ局」を開設
1971・4・4  ジャテック・センター、相模原、横田、富士など各基地をバス巡り
   5・5  5・5横田基地をとめる!第一次行動、岩国では反戦凧上げ
   7・4 厚木基地撤去、自衛隊移管阻止集会
1972・1・3 ベトナム反戦ちょうちんデモの会など、砂川基地脇で軍用機発着妨害の凧上げ
   1・22 横田住民集会「若者は横田を考える」
   2・6 熊本べ平連など、自衛隊清水基地ヘデモ
   2・25 岩国に反戦コーヒーハウス「ほびっと」開店
   3・22 九州キャラバン、佐世保基地ヘデモ
   3・24 同上、熊本自衛隊基地ヘデモ
 …以下まだ続くが省略する。多いときで2,300にもなるべ平連のすべての行動を把握するのは不可能であり、ここに挙げたのはほんの一部にすぎない。しかし、各地で基地への運動が取り組まれていった様子は読みとれるのではないか。
(3)「6・30王子野戦病院に反対するデモを!」(『資料・「べ平連」運動』上)371頁。
(4)燃料輸送反対の運動としては、1968年12月に新宿で米タンク車通過反対のデモがある(「べ平連運動日誌」『資料・「べ平連」運動』上、539頁)。1972年5月に相模原補給廠から戦車の搬出があり、以来抗議行動が行なわれている(「べ平連運動日誌」『資料・「べ平連」運動』下、490〜493頁)。
(5)ベトナムに平和を!市民連合、満州事変の頃生まれた人の会「市民の網の目をつくろう」(『べ平連ニュース』65号、1971・2、『縮刷版ニュース』)397頁。
(6)小田実「平和への具体的提言――日米市民会議での冒頭演説」(『資料・「べ平連」運動』上)110頁。
(7)小田実「素人に徹したいのだ」(『べ平連ニュース』65号、1971・2、『縮刷版ニュース』)396頁。
(8)太田勇「市民運動の復権を」(『べ平連ニュース』64号、1971・1、『縮刷版ニュース』)389頁。
(9)しかし、そのなかで専門化しつつ新たに市民とのつながりを生み出していった試みとして、反戦喫茶「ほびっと」を見てみたいと思う。この反戦喫茶はアメリカに始まる反戦コーヒーハウスに習ったもので、日本では三沢基地の反戦スナック「アウル」に次いでつくられた。米軍岩国基地を解体することを目指し、反戦派米兵の支援と米兵、岩国市民の交流の拠点となることを目的としている。
確かに、店が出来る前、ぼくらは、何回となく、ビラを手にし、デモをやり、集会をやり、講演会をやってきた。しかし、「岩国市民」という言葉は、口からはて出くるが、そこに住んでいる人の顔は、ぼくらは、もっていなかった。(中川文男「反戦喫茶『ほびっと』の実験」<『資料「べ平連」運動』下>、354〜355頁)
 しかし、岩国で喫茶店を経営するとき、周囲の住民や店に来る客との接触は不可欠だった。そのなかで言葉としての「岩国市民」ではなく、喫茶店にコーヒーを飲みにくる人や、町で顔をあわせ、挨拶をかわす近所の人からつながっていく、具体的な顔を持った「岩国市民」が見えてきたのである。
 なによりもうれしかったことは、店で知り合った岩国の若い人たちが、少数ではあるが、デモを、ビラまきを、凧上げを、基地前坐り込みを、ぼくらとともにやった、ということだった。おそらく、彼らは「なんで」自分がデモをし、ビラまきをし、凧上げをやったのか、それを定義することは出来なかっただろう。(中略)彼らが、ぼくらとともに動いたのは、店にいるぼくらが動いている、ということで、動いたにちがいない。しかし、彼らが、デモをやり、基地前に坐り込んだとき、彼らの眼に、確実に、日本の警察の姿が、米兵が、基地が入り込んできた。それらが入り込まざるをえない状況に身をおいたわけだ。 (同上、352〜353頁)
 喫茶店で接点を持った人ひとが新たに運動に関わり、そこで問題が見えてくるという体験をする。ここに運動の外にいる市民とっながりつつ、はたらきかけによって広がってゆく可能性のある運動の一つがあるのではないか。
(10)花崎皋平「ベトナム『和平』をめぐって」(『資料・「べ平連」運動』下)288頁。
                   
 
第3節 ある存在を支えとする認識の方法
 
 べ平連の人びとが、運動のなかで日本に対する認識を深めていった過程を追って来たが、そのなかで、ある存在を手がかりとして自らの認識を深める方法を取り出して見てみようと思う。べ平連の運動をたどると、朝鮮、沖縄、被差別部落、という存在に、ぶつかる。そこで、自分と彼らの関係がどういうものであったかを考えていくことで、日本という国がどのように成り立ってきたのか、そこに生きる自分はどういう立場に立たされているのかが見えてきた様子を読み取ることができる。自分自身の姿は鏡によってしか見えないように、自分の国のあり方、そこに生きる自分のあり方をそのままで見ることは困難である。その困難を認識し、他の存在を支えとしてそこから自らの姿を照らしだそうとする視方を運動のなかに見ていきたい。
 1967年にベトナム行きを拒否し、日本に密入国した朝鮮人の金東希が、大村収容所に収容され、死刑にされる恐れのある韓国に送り返されそうになるということが起こる。そこで彼が希望する日本への亡命を認めるか、でなければ朝鮮民主主義人民共和国への帰国を保証せよ、と要求し彼を支援する運動が行なわれた。
 出入国に違反したものは、横浜と大村にわけて収容しているそうだが、大村には主として韓国人(それから中国人)を収容する仕組みが変だ。明治からほとんど百年間、日本が差別しつづけてきた韓国人をことさらにわけて一ヶ所におくとしたら、その人びとにたいする監視の態度も戦前からの差別をひきつぐことになりはしないか。(1)
 鶴見俊輔はこの大村収容所の存在を、金東希に関わって初めて知る。そして、そこに今も変わらず朝鮮人を差別、抑圧する日本の姿が浮かび上がってくる。今ある状態からさかのぼって過去の歴史までが引き出されてくるのである。また、鶴見は言う。
この問題は金東希が日本を追われて去ってからも、今度はわれわれの問題として残る。金東希を追いはらうこの国の政府は、戦争放棄を私たちのためにほんとうに守るつもりなのかどうかが、うたがわしく思えてくる。金東希にたいする無慈悲なあっかいは、日本人にたいする無慈悲なあっかいにつながっている。(2)
 金東希の北朝鮮帰国から、もう一度日本を見直したとき、果たして自分たちにとって日本とはどういう国家なのか、日本人はどういう状態に置かれているのか、ということまで照らしだされてくる。ここで金東希を支援する運動が、日本における朝鮮人に対する抑圧に抗議する運動、さらに日本人自身にとっての国家による抑圧に対する運動へ発展する契機を読みとることができる。そして、1970年に入ると、出入国管理法案によって再び朝鮮と日本の関係が浮かび上がり、朝鮮人に対する抑圧は、自らの抑圧につながっているという考えから入管体制に反対する運動が、運動の中心的課題の一つとして行なわれていくのである。
 部落差別の問題は、1971年に小田実の小説『冷え物』に対し、関西部落研究会からこれは差別小説であるという批判を受けたところから始まる。そしてべ平連内部で差別について議論が起こっている。このことは、市民運動を捉え返し、自らの足元を見直すという重要な意味を持ったと考えられる。吉川勇一はべ平連の個人原理、言い出した者がまず始めるという言い出しべえの原則、等の前提は「あくまで市民社会における市民的権利を相互に共有しているもの同士においてのみ有効な原理であったことも事実」であり、この原理は権力に対する市民の有効な武器となり得ると同時に、「市民的同権が保証されていない人びとが多数存在していることが捨象されていることも確か」であると言う(3)。ここで市民運動の性質が明らかにされているのである。市民的権利を有する人びとにとっては当然のこととして捉えられ、眼に見えにくい部分を、市民的権利を有していない人びとから突き付けられることで、はっきり視ざるを得なくなったのであろう。続けて吉川は言う。
 …67年秋から68年にかけて、私たちべ平連がかかわった諸行動は、私たちを侵略の当事者のアメリカに結びつけている日米安保条約の問題に私たちを直面させ、そして運動は、このような構造の中にある私たち市民の生活そのものにも眼を向けさせるようになってきました。(4)
 べ平連の運動は、市民的権利を有する人に通用する原理を前提としてきたが、運動が続けられていく中で、そのまま市民的権利に乗っかっていくのではなく、自分が立っている生活を見返すところにまで来たというのである。この『冷え物』論争は市民運動が前提としていた市民的権利、市民生活を相対化し、もう一度捉え返す契機になったのではないだろうか。
 次に沖縄について見てみたい。67年、68年と4・28の沖縄デーには沖縄での集会にべ平連から幾名かが参加しており、69年になると、べ平連主催の4・28市民デモが行なわれる。この年は、六月行動の名称に「反安保」が入った年であり、日米安保条約の問題がはっきりと捉えられ、安保体制が集約的にあらわれている沖縄の存在が際立ってきたのである。1971年になると、返還を前にして、「沖縄は沖縄の人びとの手に!」というスローガンの下で集会、デモが行なわれている。 「沖縄のことは、沖縄の人びとが自からの責任において決定する」ということを「きわめて当然の事柄」(5)とする認識のうえにこのスローガンはある。「ベトナムはベトナムの人びとの手に!」と同じように、沖縄を独立した主体と考え、そこをアメリカが占領し、あるいは自衛隊が派遣されることに反対するのである。この時、ただ基地が集中し安保を体現する島というだけではなく、「独自の歴史と言語と文化を持つ沖縄」(6)としての認識の深まりがある。1972年4月のベトナム通信を見ると、「オキナワ」と出会うことで自分がヤマトンチューであることを突き付けられ、ウチナーンチュとヤマトンチュの関係を考え、ヤマトゥに対して自分自身が向き合おうとする姿勢が読み取れる(7)。
 これまで見てきたように、抑圧される存在をたよりに、相手と自分の関係が捉えられ、その中で自分が生きる国のあり方、自分自身のあり方が見えてきたということが言える。そして、同時に現在を出発点としてそれまでのあり方、歴史的経緯、までつながって引き出されてくる様子が読み取れる。運動のなかで、朝鮮、沖縄、被差別部落という存在にぶつかったのは全くの偶然というわけではなく、ベトナム戦争に反対し、行動しつつ思索していく方法をとっていた以上、朝鮮、沖縄という存在には遅かれ早かれぶつからざるを得なかっただろう。そして、機関紙に「アジアからの視線」(8)というコーナーを設けるところにも見られるように、積極的にこういった存在から自分のあり方を照らしだそうという態度があったから、その契機を契機として捉えることができたのではないだろうか。
(註)
 
(1)鶴見俊輔「なぜ、べ平連は大村収容所撤去を要求するか」(『資料・「べ平連」運動』中)39頁。
(2)鶴見俊輔、同上論文、38頁。
(3)・(4)吉川勇一「小説『冷え物』批判を契機とする討論について――運動への清算主義的な批判をやめよう――」、(『べ平連ニュース』臨時増刊号 特集べ平連運動と差別の問題および べ平連運動のあり方について、1971・9、『縮刷版ニュース』)448頁。
(5)「六億円と十億円のはざまの二万人」(『べ平連ニュース』74号、1971・12『縮刷版ニュース』)468頁。
(6)「沖縄は沖縄の人々のものだ!自衛隊よ沖縄に行くな!」(『べ平連ニュース』79号、1972・5、『縮刷版ニュース』)510頁。
(7)大江音人「追記『他人』とのかかわりの中で――『連帯』は断絶の弁証法か――」(『ベトナム通信』50号、1972・4,『復刻版通信』)446〜448頁。
 鈴木正穂「べ平連とぼくとあなたと<連載その二>」(同上、456〜457頁)。
(8)『べ平連ニュース』73号から85号まで10回の連載で、アジアの新聞で日本がどのように報道されているかを紹介している。
 
 
第4節 ベトナムの人々とのつながり
 
 前節で抑圧される存在から突き付けられる形のものの視方を見てきたが、ベトナム反戦運動を通じて、見えてきたもの全体をベトナムの人々に突き付けられて見えてきたということもできる。ベトナムの人々の抵抗は、アメリカとそれに加担する日本に反対するものとしてあり、国家の姿を露にし、抑圧と被抑圧の関係を突き付ける質を潜在的に持っていたと言える。鶴見良行氏は、ベトナム戦争を契機として被害者であるベトナム人から加害者である日本人が教えられてきたことを、「ベトナム人民と日本人民の間には、<加害者・被害者>の関係以外に、<学習>の関係があった」(1)と言う。そしてそれをさらに拡大して次のように述べている。
 アジアの人民は私たちの教師であるといってもよい。このことは、どんなに声を大きくして叫んでも、いいすぎるということはない。なぜなら、後進国にたいして教えてやらなければならない、というのが日本、アメリカをふくむ先進国の官民一体となった強固な信念なのだから。先進国と後進国のあらゆる関係――経済援助、技術援助、教育援助、資本進出――の根もとのところにこの<教えてやる>思想が潜んでいる。
 潜在的な事実関係はベトナム戦争が私たちにとって学習の機会であったという単純な事実が明らかにしたように、まったく逆なのである。(2)
 先進国、後進国という関係で日本とベトナムを捉え、遅れているベトナムに教えてやるという姿勢は、ベトナム反戦運動を通してベトナムの人々から多くを教わったということを考えていくとき、転換されていくことになる。「強固な信念」たる「<教えてやる>思想」は、一朝一夕で変えられるものではない。自ら行動し、考え、学んでいったことによって、だんだんと崩されていったのである。
清水谷公園から、京都市役所前から何度も同じ道を歩いているうちに、われわれのはるかむこうに、ヴェトナム人が歩いているという感じをもった。先進国・後進国という区分が頭のどこかに注ぎこまれて残っているとしても、それは何度も歩くという  (ヴェトナム人の抵抗にくらべてとてもやさしい)行動をとおして、かなりのところまで消えてしまった。このことは、私たちのこれからにとって、一つの確実な手かかりになる。(3)
 ベトナムの人がはるかむこうを歩いている、ということはただ単に行動が命をかけた必死のものであるということだけではなく、はっきりとアメリカの力に対する批判を持った抵抗であったからだろう。行動の形態ではなく、質においてベトナム民衆の抵抗は根底的であったのである。そして日本の運動は、行動としてはベトナムに比べ易しいものであるにしても、それを積み重ねていくことで、問題の本質に近づいていったのではないか。それははるかむこうを歩くベトナム人に教わったのであり、それを身に染みて学んでいくことで、意識のなかで日本、ベトナムという関係の捉え方が転換されていったのである。その関係の転換は、それまであった日本が優れていてベトナムが劣っているという見方を、ただ優劣、上下の位置関係を逆にして、ベトナムは優れていて日本が劣っているというというように変えたのではない。ベトナムの人ははるかむこうを歩き、教えてくれる存在でありながら、同時に同じように歩いている人間としてつながっているのであり、そのつながりは決して上下の関係ではないのである。
 「歩きながら考える」という方法によって人々がどのように認識を深め、運動を展開していったかをたどり、その方法が新しい関係を開いていく可能性を見るに至った。行動のなかで考えていくことによって、自らのあり方を問うところに行き着き、主体自身の変革と関係の転換が為されていったのである。そして、個人個人の持つ一方を優位、他方を劣位に置く関係の捉え方を変えていくと同時に、その関係をつくりだしている問題の根源にピントをしぼっていくための一つの方法がそこにあるのではないだろうか。
 
(註)
(1)・(2)鶴見良行「教師としてのベトナム戦争――あるいは人民の交流について――」
  (『べ平連ニュース』87号、1972・12、『縮刷版ニュース』)560頁。
(3)鶴見俊輔「ひとつのはじまり――あるいは、べ平連以前」 (『資料・「べ平連」運動』上)XU頁。
 
 
第3章 関係のあり方の模索
 
第1節 個人と個人のつながり
 
 べ平連は「組織ではなく運動体であること」を強調し、規約も会員登録もなかった。「ベトナムに平和を!」、「ベトナムはベトナム人の手に」、「日本政府はベトナム戦争に加担するな」ということを主張し、行動するとき、その時その一人一人がべ平連なのだった。そこでは個人の自発性が大きな意味を持つ。ベトナム戦争に反対して自発的に立ち上がった個人個人がつながっていくことでべ平連は成り立っていたのであり、反戦運動に自発的に立ち上がれるだけの強さを持った人ひとの運動だったのである。
 さて、その個人個人はどのようにつながっていったのか。小田実は人びとの集まりを「われら」という言葉ではなく「われ=われ」という言葉によって表現する。個人が集約されて一つの集団となり、外に対して切り離され、内に対しては集団に個人が埋もれてしまうような集団のあり方ではなく、あくまで一人一人の人間がいて個性が尊重されながら、「われ=われ=われ=…」というように無限につながっていく人と人の結びつき方がイメージされている(1)。それがべ平連のめざした関係のあり方である。その個人と個人を結びつける力は、ベトナム戦争に反対する意思にあった。
私が、同一性を思考と行動の基礎におくのは、人間はもともと、まったくちがったものであるという認識を一方にもつからなのだ。はじめから孤立し、孤独な存在であることをウンザリするほど認めるからである。したがって結論はこうなる一せめて、同一点があれば(そんなことは、厳密に考えれば、数多くあるものではない。すくなくとも、ちがいをことさらに重視する態度に出れば、めったにあるものではない)、
そこで、ともに考え、ともに歩き出そうではないか。(2)
 差異を消し去り同質化を図るのでもなく、差異ばかりを強調して対立しあうのでもない。一人一人の個性を認め、自分が一人であるという孤独感に耐えながら、そういう一人一人がつながれる点において結びついたのが、「われ=われ」のつながりだったのである。ベトナム反戦をより強く訴えていくにはともに行動をしていく人を増やしていく必要があった。その必要にせまられて止むを得ず行動を共にするという側面もあるだろう。しかしべ平連のしようとした人と人の結びつき方はそのような消極的側面以上に、個人個人が互いの個性を認めあいながら、一つの点によって結びついていく方法として積極的に評価していくべきものとしてあるのではないか。
 個人と個人の結びつきによって運動を実際に行年っていく際のルールとして、べ平連には「言い出しベエの原則」というものがあった。
 (1)言い出した人間がする、(2)人のやることにとやかく文句を言わない(そんなひまがあったら、自分で何かしろ)(3)好きなことは何でもやれ(3)
自分がアイデアを出したときは、その行動のなかではその人がリーダーシップをとる。それは運動をスムーズに展開するために有効であっただろう。自分が言い出しておきながら他人にやらせるということをせず、また指導者がいて誰かのアイデアを採って運動を指導するということもしない。指導・被指導の関係が固定化されていくと、もともとは横のつながりであったとしても、命令・服従の縦の関係に転化し、組織のピラミッド化を招く危険性をはらんでいる。べ平連には自分がいつも落し穴を持っていること、危険性をのぞききれないことを意識しつつ、何らかの仕組みによってその危険性をできるだけ小さくしていこうという姿勢があり、この一つ目の原則もピラミッド化の危険性を小さくしていくための役割を持っていたのではないか。そして非生産的な批判によって、行動が進まなくなってしまうことを防ぎ、あれか、これかではなく、あれもこれもというかたちで行動をしていこうとするべ平連のやり方が読みとれる。思想、信条のさまざまな人たちが、指導・被指導という関係を固定化させず、行動を押し進めていくための原理が運動のなかで作り出されたのである。
 これだけを見ると、相互批判によって運動を高めていくことができないのではないかという負の側面が考えられる。しかし、批判を持ったときにただその提案をつぶしてしまうのではなく、対案を自ら行動によって示していくということができたなら、さまざまな行動のなかで運動の向上は可能になるはずである。そして古山洋三は次のように述べている。
 自分の考えについては遠慮なくいうべきことをいい、人の立場や運動のすすめ方については、たとえ自分との考えとちがったとしても、そこから出来るだけ学びとろうとする。一致して出来ることはいっしよにやり、一致できないことは自分でやる。一見無責任のようであるが、実は個人の立場で考えるならばもっとも責任のある運動の新しい型をべ平連は着実に鋳出しているように思われる。(4)
 「言い出しベエの原則」を批判の排除に終わらせず、多種多様な人びとがいるなかで、お互い譲れないところはあるなりに、刺激を受け合い、学びとることを可能にする姿勢がある。ただ数で訴えるために一緒に行動するというだけに終わらず、多くの人が行動を共にするなかで多様性が運動を高めていくという相互作用を果たしたのではないか。
 指導・被指導の関係は実際の運動のなかでどうだったのだろう。決まった人がアイデアを出し、皆はそれに従うという形に陥る傾向は防ぎきれなかったようである。
ところが実際には、「みんなが世話人であることで、誰も世話人でない」状態のなかで、「誰かがいい出したら、それについていく」という「指令まち」がいつのまにか一般化し「行動」をマンネリ化しつつ、「姫路行動」を既成組織とかわらないものにしてしまう。(5)
 リーダーの固定化、「ただその集会・デモをビラやポスターで知り、それに結集し散っていくお客さん」(6)化の傾向が、運動のなかで指摘されている。しかし同時にそれに対して、「私達自身がその集会の主催者であり運動を恒常的に担っていく主体でなければならないとして」市民行動委員会を結成したり(7)、小グループに分解したり、各人を運動の主体として確立させていこうとする試みが行なわれている。先の「姫路行動」では「姫路行動」としての定例行動に参加しつつ個別の行動をしていく小グループを、「姫路行動」外の人びとともつながりながらつくっていった。
その結果は「姫路行動」メンバーだけであった今まで、例えばビラまきしかやりえなかったものが、自分のグループのために文章を考え、ガリをきり、そしてビラもまくというように、より主体的な活動の展開となってあらわれてきた。つまり、ひとりひとりが、世話人となり自己のグループの集会を開き、勉強会を提案する者となることであった。またその活動のために金を出しカンパを集める工面を自分のこととしてすることであった。
 そのことは、いままでの「姫路行動」がなすべくしてなしえなかったことにおいて存在した「問題点」を、小グループがそれぞれ特色とする分野での独自行動の展開ということで、解決する方向を示していた。(8)
 小グループ化することによって、各人の主体性が不可欠になり、運動の主体として個人個人が自立していったのである。そして指導・被指導の関係の固定化が解されていくことになった。指導・被指導の関係を固定化させないためには、「指導しない」だけでなく、「指導させない」だけの自発性、主体性が各人に必要だったのである。小グループ化は運動の展開に伴う、専門化個別化のなかで、必然的に出てくるものでもあり、京都べ平連も解体し専門集団化している。専門集団化が、タコ壷化することなく外とのつながりをつくりつつ行なわれるとき、集団の拡大がもたらした関係の沈滞を、主体的な個人と個人のつながりとして、もう一度つくりなおすことができたのではないか。一つの試みで問題は簡単に解決されるわけではないが、運動のなかで生じる問題を、運動のなかで試行錯誤しつつ解決していこうとする姿勢がべ平連のなかにある。
 べ平連では各人の個性を尊重し、集団があって個人があるのではなく、ベトナム戦争に反対する個人、一人一人がいて、その一人一人がベトナム反戦のために結びつくことで成り立っていた。そして、あくまでベトナム反戦の行動を進めていくことを根底に置きながら、それまでにあったピラミッド型の組織のあり方に対して、はっきりと違った人と人の結びつき方をつくりだそうとしていたのである。
 
(註)
(1)小田実『われ=われの哲学』 (岩波新書、1986)。
(2)小田実「『味方』を肥らせよう」(『資料・「べ平連」運動』中)223頁。
(3)小田実「『身にしみる』ことに『身銭を切る』こと」(『資料・「べ平連」運動』中)351頁。
(4)古山洋三「べ平連全国会議をおわって」(『べ平連ニュース』14号、1966・11、『縮刷版ニュース』)32頁。
(5)向井孝「未来社会を現在に媒介するもの・姫路行動委員会」(小田実編『べ平連 巨大な反戦の渦を!』、三一新書、1969)137頁。
 「姫路行動委員会」は「べ平連」を名乗っていない。しかし、べ平連はもともとべ平連として登録するとか、認定するということをしない、「組織ではなく運動体」であり、名乗る名乗らないで区切るのも不適当と考えられる。『べ平連』と題する本に収められていること、「べ平連」を名乗る集団と行動を共にしていることという形式的なところ、そして行動を重視し、固定した指導者をつくらない、個人の自発性に基づく結びつきからなっているという性格、その両方から考えてここでは広い意味での「べ平連運動」に含めて取り上げたいと思う。
(6)・(7)「沖縄を忘れるな 4・28市民行動委より」(『ベトナム通信』27号、1970・4、『復刻版通信』)213頁。
(8)向井孝、前掲註(5)論文、140頁。
 
 
第2節 網の目のひろがり
 
 「ベトナムに平和を」願って行動するとき、その時一人一人がべ平連であるのと同じように、各地域のべ平連も三つのスローガンに賛成し、べ平連と名乗れぱそれでべ平連なのだった。本部に届け出る、認定を受けるとか、中央本部が指令を出すということもなく、各地域のべ平連は自立し、目的を同じくすることでつながっていた。それは個人と個人の自立した関係と通じる。
中央の指令を待つとか、そんなアホなことを考えないで、中央を通過しないでじかにいろいろな国とも連帯できるし、日本の中でも他の都市と連帯する、そしてやっていく、ということを僕は考えています。その為にこの第一回を開いたのです。(中略)
ここにいる皆さん方に、僕はお願いします。勝手にやってください。(1)
 幾重もの上下関係の組み合わせが中央の一点に集約され、ピラミッドを形づくり、外にあるものとはその中央の一点を通じてつながる、という組織のあり方を崩していく方向性をべ平連は持っていた。各地域のべ平連は中央本部の支部としてあるのではなく独立して存在し、中央を介さずに地方と地方がつながることが考えられている。
 1966年の全国縦断講演旅行、日米市民会議を通じて全国にべ平連はできていくのだが、この企画は国家と国家の関係は政府が専ら行なうものであるという発想を転換させ、直に市民と市民がつながりをつくろうとするものであった。中央権力に依らない、等身大の結びつきをめざすものとしてあったと言える。そのなかでできていった各地域のべ平連もまた、中央集権的でない結びつきを目指すものとなるのは必然であった。しかし、同時に東京のべ平連が始めた企画のなかでできたと考えれば、中央からきっかけを与えられてできたということになり、中央によりかかる性質も始めから潜在的にはあったのである。各地域に小さなべ平連が多数できていくとき、知識人や文化人を中心としないべ平連ができていくことになった。しかし、それでも、東京中心、文化人中心の傾向はあったようである。『週刊アンポ』の発刊に際して、京都べ平連の機関紙には次のような文章が書かれている。
京都では、毎回一万部を売りさばく予定で、目下、事務所を探しているとか。それはそれでいいけども、将来、東京へ中央集権化している「週刊アンポ」の販売へ追いまわされることにでもなれば一体何のための自立的べ平連運動がと言わざるをえない。(2)
 東京で有名人を執筆者として出される『週刊アンポ』を地域で販売するという活動に対して、中央が出したものを地方が担うという形に陥り、地方独自の活動が疎かになる危険が批判的に指摘されている。情報が東京に集中し、有名人が注目を集めることができるという社会の中にあって、べ平連もやはり、その傾向から自由ではなかったのである。しかし、そこに権力を形成させない、東京も各地域も、有名人も有名でない人も対等に扱う努力はあったのではないか。それは有名人も知識人も他の人と同じようにデモ行進をし、カンパ活動で街頭に立ち、呼びかけ人などの名簿のうえでも全く同じ扱いをされるというところにも表れている。
 さて、べ平連が大きな役割を果たしたものとして共同行動があるが、より広範囲な集団の結びつきの試みとしてここで取り上げてみたい。
 共同行動は、1968年の6月に3月のジョンソン大統領声明を受け、ベトナム戦争即時全面中止と佐藤政府が責任をとることを要求するために始まる(3)。日高六郎、古在由重、新村猛、阿部知二、小田実の五名の呼びかけを受けて出された「ベトナム反戦行動について」(案)(4)を見てみたい。この案は、目的、期間、スローガン、参加団体、行動形態、宣伝の各項目からなる。重要なところを順に抜き出してみる。
目的 ベトナム情勢の新しい段階を迎え、六月行動の「呼びかけ」にしたがって、団体及び個人が独自及び共同の行動を大規模におこすことを目的とする。
状況に対応して、大規模な行動を起こすことがまず第一にある。しかし、単なる画一的な統一行動に終わらない、共同と同時に独白の行動をおこすことが目的とされているのである。
スローガン 委員会の発足後、ただちに、六月行動の統一スローガンを決める。(中略)その他のスローガンは、参加する団体、個人の自由とする。共同行動の際、団体および個人が掲げるスローガンの規制は行なわない。
参加団体 この行動計画に賛同するあらゆる団体、個人の参加を歓迎する。参加の団体個人は、独自の行動をおこすこと、あるいは共同行動に参加すること。又できるかぎり統一アピールを支持した独自アピールを出すこと。
 参加資格を限定せず、「この行動計画に賛同するあらゆる団体、個人」に開かれている。統一アピール、スローガンを持って、その点でしっかりと結びつきつつ、独自のスローガンは規制されることがなく、自由が保証され、独自性が保たれている。
  行動形態
   ・独自行動(1)独自行動のやり方は、各団体・個人が自由に決める。
   (2)独自行動についての一切の責任は、それを計画した団体あるいは個人が引き受けるこ と。(財政負担を含む)(中略)
  共同行動(中略)
(6)それぞれのグループの自主性を尊重し、他のグループの行動に介入したり、妨害したりしない。
(7)参加団体・個人の意見について、相互批判の自由はあるが、中腸非難の態度・言葉はさける。
 独自及び共同の行動を成立させるためのルールがここにある。各団体、各個人が独自の主張、行動形態の自由を保証されると同時に、自らの責任は自らが負うこと、そして他の団体、個人を尊重することが示されている。当たり前といえば当たり前のことであるが、政治党派がさまざまに対立する中にあって、素朴でありながら、重要な共同行動のルールを提起しているのではないか。
 この共同行動は6月、10月、4月、と回を重ねられていったが、70年に入りセクトの対立が強まる中で、ついに内ゲバを防ぎきれなくなったのである。70年の4・28沖縄デーの同行動において、革マル派の参加を他党派が実力で阻止するという事態に、べ平連他市民運動団体が主催団体を降りるということが起きる(5)。しかし、その後も市民が諸党派の間に立って内ゲバを防ごうという試みは行なわれている(6)。内ゲバを防ぐために市民は消耗し、共同行動はだんだん難しさを増していったが、68年に行なわれた最初の6月行動は「美しく感動的な集会とデモであった」と高揚感と解放感をもって語られる、多様性が互いに尊重されつつ調和をもった共同行動が実現されている(7)。状況のなかで制約を受けながらも、多くの人がつながる新しい関係のあり方の試みとして、この共同行動はあるのではないだろうか。
 共同行動のルールのなかには、状況に迫られて止むを得ず行なわれるというものに終わらない、独自の主張と行動形態を持った個人・団体がその独自性を損なわれることなく、生き生きと結びつけられる共同行動が描かれている。各団体、個人の個性が尊重されながら、統一スローガンによってつながる関係のあり方は、べ平連の中における個人と個人のつながり方、「言い出しベエの原則」の延長にある。お互いの違いを認識したところから出発し、一致する点によって、一つの固まりになるのではなく、個と個のままで結びつく関係のあり方がこの共同行動にも読み取れるのである。そして共通する点を持ちながら、その他の対立点によって反目するのではなく、日米両政府に強く働きかけるための共同行動であり、「言い出しベエの原則」と同じく行動を進めることがその根底にある。
 べ平連が目指した関係のあり方は、ベトナム反戦のための方法であったと同時に、ベトナム反戦が政治権力が生み出す抑圧に反対することにつながっていったことからすれば、権力に対する対案としての関係という意味を持っていたとも言える。
既存のピラミッド型の人間関係、価値体系から離れた所より出発し、水平な人間関係の下で運動を進めてきたところに、べ平連の独自性はあるのだろう。(8)
 体制側、反体制側に関わらず、権力が形づくるピラミッドに対し、対案として個と個が対等に結びつく網の目の関係をつくっていこうとした試みをべ平連運動に読み取ることができるのではないか(9)。そして、それは「ぼくらが近い将来に割るであろう社会秩序の原型に近いもの」(10)という意味までも託されていたのである。べ平連が目指していた方向とそれに向かう模索は、たとえその試みが十分に達成されずに終わったとしても、それだけで切り捨てられるものではない。新しい関係はある日突然に生まれるのではなく、運動の過程における試行錯誤の中から主体白身が変わっていき、少しづつ部分的にであっても実現していくことで近づいていくことができる、そういうものとしてあるのではないだろうか。
 
(註)
(1)小田実「私たちの出発点――人民の側の連帯を――」(鶴見俊輔、小田実、開高健編『反戦の論理』、河出書房、1967)39頁。
(2)一ペシミスト「書評週刊アンポ0号」(『ベトナム通信』18号、1969・7、『復刻版通信』)111頁。
(3)共同行動の雛型として1965年6月9日の、日高六郎、阿部知二、小林直樹、中野好夫、野上茂吉郎の呼びかけによる「ベトナム侵略反対6・9統一行動」がある。朝日新聞(1965・6・10東京2版)によれば、「『ベトナム侵略反対国民行動の日』として、社・共産党・総評・中立労連をはじめ約50の市民、文化団体が歩調を合わせ同じ日に行動を起こしたのははじめてのことで、この日のデモ参加者は、昼間約7千、夜約3万人(警視庁調べ)に達した」という。
(4)「ベトナム反戦行動について」(案)(『べ平連ニュース』32号、1968・5、『縮刷版ニュース』)132頁。
(5)吉川勇一「安保日録(抄)B」(『資料・「べ平連」運動』中)324頁。
(6)吉川勇一「私服刑事をなぐる話 内ゲバを阻止する話 間違えてなぐった話」(『べ平連ニュース』58号、1970・7、『縮刷版ニュース』)340頁。
(7)「こんにちは70年 市民・学生・労働者はたたかう!6・15デモ」、「新しい行動と新しい思想と」 (『べ平連ニュース』34号、1968・7、『縮刷版ニュース』)147〜150頁。
  この日のデモの雰囲気を伝える文章を少し抜き出してみたい。共同行動の高揚のなかに即自的な解放感が語られている。
 明確な指示系統もなく、場なれたデモ指導者も少ない。まったく自主的に隊列を組んだ参加者なのに、この大通りで展開されたデモのなんと見事なことだったろう。ジグザグ・デモ、フランス・デモ、かけ足デモ。それらが組みあわされ、交互に移行し、そこへ沿道の人ひとがつぎつぎととび込んで隊列に加わってゆく。「デモにはいろう!デモにはいろ!」新しいよびかけが生まれ、銀座通りにこだましてゆく。整然たるデモ、しかも戦闘性と、多様の統一を保持しつづけるデモ。これは、まったく新しいデモの創造であった。そこには、誰からも強制されず、自然とかもし出されてゆく規律と調和…。(「新しい行動と新しい思想と」)
(8)金田孝之「変革の主体としてのべ平連」(『ベトナム通信』10号、1968・11、『復刻版通信』)59頁。
(9)ベトナムに平和を!市民連合、満州事変の頃生まれた人の会「市民の網の目をつくろう」(『べ平連ニュース』65号、1971・2、『縮刷版ニュース』)397頁。
(10)枠山範雄「闘いを持続させるために いま…」(『ベトナム通信』30号、1970・7、『復刻版通信』)249頁。
 
 
終 章
 
 1968年のパリの「5月革命」に始まる世界各地での学生の運動、「プラハの春」、ベトナム反戦運動、その他世界各地で起こった現象は、既存の資本主義、社会主義両システムに反対する運動として「68年革命」とも呼ばれている。そしてそれらの社会運動を特徴づけたものとして、「『前衛』の崩壊」(1)ということが指摘されている。前衛が大衆を指導し、引っ張っていくという型が解体され、市民や学生という新しい主体が確立されていったのである。べ平連もその流れのなかにあった。それまでの労組、政党中心の組織による運動ではなく、組織に属さない不特定多数の市民が自立した、自発的な運動を展開したのである。前衛の指導を受けない市民が採った方法は、行動しながら考えるという方法であり、「前衛ー大衆」という「指導・被指導」関係に対置されたものが、固定された命令・指示系統を持たない個人と個人の対等なつながりだったのではないだろうか。
 べ平連の運動過程にある、理論や綱領を実践におろして運動を展開するのではなく、行動のなかから認識と次の行動を引き出していくやり方、個性を尊重した網の目のつながり方は、それまでの反体制的な運動のあり方に対する批判態としてあった。権力に反対、抗議する運動が、反対し、抗議しているはずの当の権力と同じ型の堅固なピラミッドを形成していることに対し、その外に存在していた市民の側からの新しい対案として出されたのがべ平連の運動のやり方だったのである。べ平連の運動は当初、反米ということも明確に出してはいなかった。しかし、運動の進展に伴って、アメリカとそれに加担する日本に対して抗議し、日本の社会のあり方を捉え直し、変えていこうという方向に向かい、行き着いたところはやはり、反権力の運動であったのだろう。そして、権力に反対する限りは、反対していく過程においても、その先においても、自分自身が権力に転化してしまわないようなしくみを、運動のなかに持とうとしていたのである。
 60年代の日本において、経済の成長による賃金の上昇と量産量販に伴って大衆消費時代が到来し、マイホーム主義と呼ばれる私生活中心主義が生まれていった。人びとの関心は、マイカーを持ち、多くの物に囲まれたアメリカ的豊かな生活へと向けられていった。それは内向きの関心であり、社会に対して無関心になっていく傾向が指摘される。べ平連で行動していった人びとは、反戦運動によって社会と積極的に接点を持っていったわけだが、組織に縛られることを嫌い、「私」に重心を置いていた点で、この私生活中心主義の傾向と実はそう離れてはいないのではないか。「公」によって干渉されることを拒み、「公」に対して「私」を確立しようという姿勢がまた、逆に積極的に「公」に関わっていくことにもなった。べ平連のベトナム反戦運動をそう読むこともできるのではないか。市民が私的生活に関心の重心を置きながら、「私」に閉じこもらずに社会に接点を持っていく可能性をべ平連は示している。そこには自分が社会のなかに生きていること、社会とつながった存在であることを感じられることが不可欠である。現代の社会的無関心と言われるものとの違いはそこにあるのかもしれない。しかしそれでも、「閉じた私」と「開いた私」(2)とはそんなに離れていないのではないか、というのが幾分希望を含めた私の観測である。そして「開いた私」たる市民が社会に関わっていくとき、べ平連は市民の方法に対して多くの示唆を含んでいるのではないだろうか。
 
(註)
(1)桜井哲夫『思想としての60年代』(ちくま文芸文庫、1993)8頁。
(2)日高六郎「戦後青年の意識」(日高六郎編『戦後日本を考える』、筑摩書房、1986)280頁。
 
 
参考文献
 
井上澄夫『歩きつづけるという流儀 反戦・反侵略の思想』(晶文社、1982)
小田実、鈴木道彦、鶴見俊輔『国家と軍隊への反逆脱走兵の思想』(太平出版社、1971)
小田実『「べ平連」・回顧録でない回顧』(第三書館、1995)
小田実『世直しの倫理と論理』(岩波新書、1972)
久野収『市民として哲学者として』(毎日新聞社、1995)
清水知久『ベトナム戦争の時代』(有斐閣新書、1985)
鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史』(岩波書店、1984)
鶴見俊輔『鶴見俊輔著作集』5(筑摩書房、1976)
鶴見俊輔、吉岡忍、吉川勇一『帰ってきた脱走兵 ベトナムの戦場から25年』(第三書館、1994)
鶴見良行『アジア人と日本人』(晶文社、1980)
鶴見良行『東南アジアを知る 私の方法』(岩波新書、1995)
吉川勇一『市民運動の宿題』(思想の科学社、1991)
池田浩士、天野恵一『検証昭和の思想』V思想としての運動体験(社会評論社、1994)
伊藤光晴編『ドキュメント昭和史』8問われる戦後(平凡社、1975)
今村仁司『近代性の構造』(講談社、1994)
内山秀夫、粟原形『昭和同時代を生きる それぞれの戦後』(有斐閣選書、1986)
大阪社会労働運動史編集委員会『大阪社会労働運動史』(第5巻) 高度成長期(下)(有斐閣、1994)
高木正幸『全学連と全共闘』(講談社、1985)
村上也寸志『学生反乱の思想史』 (亜紀書房、1979)
山田宗睦編『ドキュメント昭和史』7安保と高度成長(平凡社、1975)
吉沢南『ベトナム戦争と日本』(岩波書店、1988)
歴史学研究会編『日本同時代史』4高度成長の時代(青木書店、1990)
 
 
あとがき
 
 1年次で日本研究概論の授業を受けてから、「餡ドーナツの会」、「波紋の会」、「部落差別問題研究自主ゼミナール」、「市民の意見30の会」と関わってきた、その歩みのうえにこの卒論はある。そこで出会った人たちにこの場を借りてお礼を言いたい。この人たちにはたくさんのものをもらっている。主指導の池田先生には特に感謝している。先生から受けた衝撃は、私の歩みのきっかけとなっているし、「壁」としての先生の存在の意味は大きかった。
最後に私の好きな文章を抜きだしておく。
 
  「人間はいつ自分になるのか。
 
   人間は、生まれた時に、いきをする。手足を動かす。その時に木の枝などに、ぶらさがらせれば、けっこうぶらさがれるそうだ。手をひいて歩かせれば歩けるそうだ。
そういうことは、生まれてからすぐにまた忘れてしまうけれども、それにしても、私たちが自然に知っていること、なんとなく覚えてしまっていることは、じつにたくさんあるものだ。
   そんなふうにして、なんとなく私たちはことばを覚え、人間としてのいろいろのしぐさを覚えてしまう。それでけっこう暮らせる。
   ところがそのうちに、なにか変なことが起こる。いままで自然に覚えたことでは、どうにもそこをこえられない。
   今まで自分にそなわった力では、それとかくとうしても、組みふせることができない。そういう恐ろしさの中から、あたらしい自分が生まれる。」
  (鶴見俊輔 『ひとが生まれる』<ちくま文庫、1994>7〜8頁。)
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