ベ平連運動研究序説――市民運動の登場と展開―― (2003/03/11掲載)
淵 邊 朋 広
本論文は一九九九年度早稲田大学大学院文学研究科修士学位論文『べ平連運動研究序説』(史学・日本史)を改訂したものである。なお改訂にあたり論題を『べ平連運動研究序説−市民運動の登場と展開−』に改めた。
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目 次
はじめに 一 市民運動の誕生 1 六〇年安保と市民運動 2 市民運動の二系統 二 市民運動・声なき声の会の運動 1 運動の出発:「声なき声たち」の運動 2 運動の転機:政防法反対運動での試み 3 運動の再考:市民的不服従の運動 三 ベ平連の登場 1 市民運動の転回 2 市民的不服従の広がり おわりに 註 (註には、ハイパーリンクをつけてそこに飛べるように設定し てある。また、註から元の本文にも戻れる。サイト管理者) 参考文献 |
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凡 例 1ベトナムに平和を!市民連合はベ平連と表記した。 2『声なき声のたより』・『ベ平連ニュース』・『資料・「ベ平連」運動』全三巻 (河出書房新社一九七四年)は各々『たより』・『ニュース』・『資料』上・中・下巻 と表記した。 3『声なき声のたより』各号は『復刻版声なき声のたより』第一巻(思想の科学社 一九九六年)収録のものを、『ベ平連ニュース』各号および『脱走兵通信』各号は 『ベ平連ニュース縮刷版』(ベトナムに平和を!市民連合一九七四年)収録のものを 『ベトナム通信』は『復刻版ベトナム通信』(不二出版一九九〇年)収録のものを 使用した。 4年号は史料引用文を除き西暦で表記した。 5史料引用文は歴史的仮名遣いで表記した。 |
はじめに
ベ平連運動(「ベトナムに平和を!市民連合」の呼び掛けで始まった運動、以下ベ平連)は一九六〇年代半ばから七〇年代初めにかけて活動したベトナム反戦運動である。
一九六五年アメリカはベトナム戦争(註1)への全面軍事介入に踏切り、同年二月七日その狼煙とも言うべき北爆(註2)を開始した。北爆はアメリカがその後およそ一〇年間に亘る泥沼の戦争へと足を踏み入れていく一大転換点であり、当事国アメリカのみならず全世界に衝撃を与える事件であった。それは日本にとっても例外ではなく、新聞やテレビを通じて日々刻々と伝えられるベトナムでの悲惨な情景は日本人の心を大きく揺さぶり(註3)、北爆開始直後の三月から日本各地で北爆即時停止とベトナムの平和を求める反戦デモが行われるようになった。ベ平連はそのようなデモ隊の中にいた運動の一つであった。
同時期には革新政党(日本社会党・日本共産党)や労働組合(総評など)、その他新左翼、反戦青年委員会、宗教団体(創価学会や日本山妙法寺など)など様々な団体・組織によるベトナム反戦運動が存在していたが、それらの中にあってベ平連は特異な位置を占める。
ベ平連の最大の特徴は「個人参加」を重視し、一人でも行動すること(一人=「ベ平連」、一人でも「ベ平連」)を求めた行動原理・組織原理にある(註4)。これは労働組合の動員デモなどに典型的な団体・組織を通じての運動参加を自明のこととしていた従来の運動のありようとは明確に異なり、参加への明確な意志表示と自己責任の自覚を求めたところにそれまでにない新しさがあった(すなわち、「市民運動」という運動スタイルの提示)。
ベ平連はテレビや新聞、雑誌などを巧みに利用して運動を展開していった点でも従来の社会運動とは大きく異なっている(註5)。べ平連はマスメディアが生活全般に行き渡り、人々の意識形成に多大な影響を与えるに至った大衆社会状況に適応した運動であったといえよう。だが、そのような新しさだけでベ平連という運動の持つ意味を説明したことにはならない。それはベ平連が登場した時代というものを考えた時、自ずと明らかになる。
ベ平連が登場した一九六〇年代後半は高度経済成長の絶頂であると同時に、その歪みが噴出した時代でもあった。同時期には三里塚闘争(成田空港建設反対運動)、公害反対運動(水俣など)、全共闘運動、七〇年安保などの数々の運動、様々な異議申し立てが全国から沸き起こったが、それらはベトナム戦争という世界史的事件を同時代体験として受け止めながら、様々な歪みや人間疎外を生み出し、管理社会の度合いを強めていく高度経済成長下の日本社会に対する懐疑と抵抗の意志を表した動きであった。これら多様な運動が登場してきたことは戦後も二〇年以上を経過してこの時期が戦後の大きな転換点であったことを示している(それは時の経過によって不可避的に訪れる世代の移行からも明らかであり、戦後生まれの若者たちが同時期の社会運動の主な担い手となったことからも見て取れる)。ベ平連は戦後の日本社会が大きな変動を見せる時代の転換期に登場した運動なのであった。
論者はベ平連が一九六〇年代後半に登場してきたことの意味を明らかにし、その作業を通じて高度経済成長下の日本社会を考察していくことを目指しているが、ここでベ平連に注目するのはこの運動がただ特異な運動であったからというだけではなく、同時期の他の社会運動には見られない「多様性」を有する運動であったからである。
最盛期には全国に一〇〇以上の「ベ平連」を名乗る運動・組織が存在していたが(註6)、各地の「ベ平連」はそれぞれが独自の活動を行う運動であり、中央−支部の関係を有する統一的運動ではなかった(註7)。それは革新政党や労働組合のようなヒエラルヒィッシュな組織・行動様式に対するアンチ・テーゼであり、組織化を拒否していたところにベ平連の運動としての新しさがあった。ベ平連は言うなれば「われら」の運動ではなく、「われ=われ」の連なりであり、個々の「われ」が集まることで形成される運動であった。ベ平連は全国各地の多種多様な「われ」(個人や各地の「ベ平連」)を含む流れであり、「ベ平連」という名称(または合言葉)で結ばれた多様な運動の集積体、運動の潮流と言うべきものであった(註8)。
ベ平連の多様性を考える時、無視できないのが成員の多様さである。ベ平連は「代表」小田実(註9)以下数多くの知識人・著名人が参加していたことで知られているが、その顔ぶれは多彩であると同時に複雑なものであった。そこには久野收・鶴見俊輔などの六〇年安保以来の市民運動家(市民主義者)もいれば、いいだももや武藤一羊そして「事務局長」吉川勇一などの左翼出身者(元日本共産党員)もおり、その他にも様々な主義主張を持つ人々が存在していた。ベ平連は一見しただけでも、市民主義者と左翼出身者とが同居するという特異な運動であり、そこに内在する思想的な質は単一の概念(運動概念)では捉えきることの出来ない、多様性を有するものであったと言わねばならない。
ベ平連は一九六〇年代の日本の社会運動すべてを規定するものではなく、同時期に存在した数多くの運動のうちの一つに過ぎないが、そこには反戦運動・市民運動だけではない、住民運動・学生運動(特に全共闘運動)・対抗文化運動(コミューン運動など)その他様々な運動の要素を見出すことが出来る(註10)。このような性格を有するベ平連は一九六〇年代という複雑な時代を読み解いていく上での有力な指標になり得ると論者は考えている。だが、それには先ずベ平連という運動の内容を明らかにしておかなければならない。
ここで先行研究を確認しておきたいが、戦後の社会運動研究は経済史における労働運動研究や労働組合研究を除いては未だ成熟を見ていない領域であり、殊に一九六〇年代以降に登場してきた新しい運動に関する研究は社会学・政治学・歴史学等いずれの学問分野においても発展途上である。そのような全体状況の中でベ平連運動研究がどのような環境に置かれているかといえば、それは極めて限定的であるというのが実情である。通史などで一九六〇年代に特徴的な運動として紹介されることは多いが、ベ平連に関する体系的・実証的な研究は国の内外を問わず未だ見ることは出来ない(註11)。しかし、完全に認識外におかれているわけではなく、興味深い指摘が数多くなされており、その指摘には大別して二つの傾向がみられる。一つはベ平連の反戦運動としての側面に注目するもの、今一つは市民運動というスタイル・運動形態に着目するものである。
前者は日本人の戦争観・平和観の変遷という文脈の中でベ平連を位置付けようとするものであるが、その基礎にはベトナム反戦運動を経験することで日本人の戦争観・平和観に重大な変化が生じたとする認識があり、そのような変化を準備した要素の一つとして反戦運動・ベ平連に注目するものである。このような観点からベ平連に言及したものに石田雄や吉田裕の研究がある。
石田は近代日本の平和観の変遷を概観する中で、ベトナム反戦運動が高揚した一九六〇年代後半を一大画期ととらえ、その運動の中でベトナム戦争での日本の加害性を喚起したベ平連に注目する。ベ平連の運動はベトナム戦争というリアルタイムの戦争への批判であるに止まらず、自らが享受する「平和」への疑念(自らの繁栄と平和が他者の犠牲の上に成り立っているのではないかという疑念)を生み出し、平和観に変化をもたらしたとする。それは戦後獲得された「平和」(私生活の平和)を守ろうとした生活保守主義的心情を基礎としていた六〇年安保とベトナム反戦運動との大きな違いであると結論づける(註12)。
吉田は日本人の「戦争観」の変遷を見ていく中で石田と同様にベトナム戦争に加担する加害者としての日本を告発したベ平連に着目する。ベトナム戦争における加害者としての日本を告発することが過去の戦争(十五年戦争またはアジア太平洋戦争)でのアジア諸国に対する日本の加害性と向き合う契機となり、その経験が八〇年代以降の「戦争責任論」の高揚(ふつうの日本人の戦争責任・国民の戦争責任)を準備したと評価する(註13)。
石田や吉田の作業は原水禁運動などの従来型の平和運動との異質性を踏まえながら、「戦争観」「平和観」という大きな文脈の中でべ平連(そしてベトナム反戦運動)を捉えようとするものである。それはあくまで特異性を指摘するという段階にとどまっているが、べ平連の中での「加害性」の自覚が過去のアジア諸国に対する加害性(十五年戦争・アジア太平洋戦争における加害責任)の自覚を促すものであったという問題提起は、今後取り組んでいくべき研究の一つの方向性を示したものであると言える。
一方後者は一九六〇年代に登場し、それ以降に広がりを見せた市民運動の運動としての新しさに着目する立場であり、特定の指導者を持たず、組織化を拒否するという市民運動の既存の運動との違い、殊に革新運動との違いを強調し、その代表的な運動としてベ平連に着目するものである。ここでは高畠通敏の研究を参照したい。
高畠は政治学の立場から一九五〇年代から七〇年代の大衆運動を概観し、「五五年体制」成立以後の保守勢力に対抗する革新派(社会党、共産党、総評など)の運動を「革新国民運動」と規定する。「革新国民運動」は一九五〇年代を通じて国民的広がりを持つ運動として高揚し、六〇年安保へと至るが、その運動は高度経済成長の進展を背景とした六〇年代以降の保守勢力の路線変更(自主憲法制定放棄・経済第一主義のニュー・ライト路線)や運動の中核である総評以下大労組の高度経済成長路線に対応した経済主義化(春闘に代表される賃上げ闘争の制度化=闘争のプログラム化)によって機能不全をきたしたとする。だが、その中から「革新国民運動」とは異質な個人原理に基づいた倫理的な抵抗を目指す市民運動が登場し、「革新国民運動」がその役割を弱めていく中で、「国民運動」では対応出来なくなった様々な要求の受け皿として機能、六〇年代以降広がりをみせたと指摘する(ベ平連をその代表的な運動として認識)。高畠は市民運動を「革新国民運動」へのアンチ・テーゼとして捉えているが、同時にそれは高度経済成長下の日本社会に対するトータルな批判を内在させた動きであり(管理社会に対する「反管理」の運動)、「文化革命」を志向した運動であったと論じる(註14)。
高畠の作業は直接的にべ平連に言及するものではないが、戦後日本の大衆運動の流れの中での市民運動の位置(一九七〇年代までという限定はなされているものの)を明らかにしようとしたものであり、組織的運動との異質性(組織原理・行動原理における異質性)ばかりでなく、「文化運動」としての側面(「政治運動」のみに尽きない)に着目している点でも貴重な研究である。
先行研究での取り上げられ方がそうであったように、ベ平連の基本的性格は反戦運動としての側面と市民運動としての側面の二つに集約される。前者はベトナム戦争に反対する運動であるというべ平連の存在理由に関わるものであり、後者はベ平連にとっての根本的な行動原理・組織原理に関わるものである。これら二つはベ平連という運動を理解していく上で必要不可欠の要素であると論者は考えているが、二つはともに大きな命題であり、同時に取り組んでいくことは極めて困難である。例えば、ベ平連の反戦運動としての側面を見ていくことは全国各地で展開されたベ平連の行動内容を明らかにしていくだけでなく、戦後日本の反戦運動・平和運動の系譜の中にべ平連を位置付ける作業を必要とする。それはベ平連だけでなく、戦後に存在した数多くの反戦運動・平和運動を分析対象としていくことを意味する。論者自身の準備不足と作業の困難さから、今回は反戦運動としての側面の分析は保留とし、先ずはベ平連の市民運動としての側面に着目し、市民運動の系譜の中でのベ平連の位置を明らかにしていきたい。具体的には市民運動ベ平連の登場を準備した様々な要素(思想・人脈・運動)を前史(市民運動としての前史)に遡って探査・検証し、一九六〇年代後半のベ平連へと至る道筋を明らかにしていきたい。
論者の市民運動理解は先述の高畠の研究に大きく依拠するものであるが、ここで本論における市民運動の定義を示しておけば以下の通りである。第一に登場時期は一九六〇年代以降であるということ、第二に革新党派からの自立を明確にしているということ、第三に強い反権力の姿勢を有しているということである。登場の時期を一九六〇年代とするのは「市民運動」という呼称(自己認識および他者認識)が普及したのが一九六〇年代以降であると考えるためであるが、それと同時に六〇年安保の体験がこの運動の登場に不可欠な要素だと考えるからである(註15)。革新党派からの自立という点は後述するように運動の組織化を拒否していること、そして党派からの自立を運動としての存在意義の一つに数えているためである。最後に反権力の姿勢についてであるが、これも後述することとなるがベ平連を含む同時期の市民運動には政治や現代社会に対する強い批判精神を見出すことが出来る。これは現在一般に考えられている市民運動イメージとは大きく異なるものであると論者は考えている(註16)。
一九六〇年代の市民運動に見出されるのは社会に対する強烈な批判精神である。それはしかし「反近代」や「革命」へと突き抜けるような激烈さを持つものではない。あくまで自分が置かれている立場・居場所から発想し、行動することを原点にした運動である。今ある立場・居場所から発想し、行動するということは一見保守的態度ともとれる。だが、市民運動は保守の運動ではとらえきれない急進的な要素がある。そこに内在する変革への契機は知識人や革命家が口にするようなトータルな否定や激烈な批判を許されない人々、否定される当の社会の中で生き続けていかなければならない人々によってなされている点で無視し得ぬ重みがある。ベ平連もまたそのような重みを持つ運動だと論者は考えている。
論の構成は以下の通りである。一章二章はベ平連の前史に相当する部分であるが、先ず一章では六〇年安保と市民運動の関係について述べていく。六〇年安保は日本近代史上類を見ない大規模な大衆行動を生み出し、多種多様な思想が混在する複雑な運動であるが、その中から市民運動が登場した。しかしそこには二つの市民運動を見出すことができる。二つの市民運動は安保終息後も活動を続けていくが、両者は成員をだぶらせつつ、一方は市民的不服従の行動を志向し(二章で考察)、他方は地域民主主義という理念を掲げることとなる。一章では地域民主主義を志向する後者の市民運動の系譜について考察していく。
二章では市民運動・声なき声の会について取り上げる。声なき声の会はベ平連の誕生に直接関係する運動であるが、この運動自身は一九六〇年五月一九日の新安保条約批准案の強行採決後に生み出された運動の高揚の中から登場し、革新党派に対する違和感・不信感を基礎にそれまでにはない運動スタイルを提示した市民運動の先駆けであった。ここではその成員や運動原理、行動原理を指摘し、市民的不服従の行動を目指した声なき声の会が同時期にあっていかなる意味を持つ存在であったのか、そしてこの運動がどのような経過を経て一九六五年以降ベ平連を生み出すこととなったのかについて考察していく。
三章ではベ平連について考察していく。ベ平連はベトナム反戦運動が高まりを見せる中、声なき声の会を苗床に誕生したが、それは声なき声の会の精神を継承すると同時に、市民運動という運動を量的にも質的にも大きく転換させるものであった。活動期間は約一〇年であり、その軌跡を余すこと無く見ていくことは現時点ではきわめて困難である。論者はベ平連には四つの時期区分を見ることが出来ると考えているが、それは以下の通りである。一九六五年四月の運動誕生から一九六六年八月「ベトナムに平和を!日米市民会議」までの第一期、一九六八年八月「反戦と変革にかんする国際会議」までの第二期、七〇年安保が争点となった一九七〇年までの第三期、そしてそれ以降一九七四年までの第四期である。それぞれの特徴を述べれば、第一期がベ平連の基本姿勢である個人原理が確立された時期、第二期は「反戦」と共に「変革」という主題が強く認識されるに至った時期、第三期は七〇年安保や沖縄返還が争点となり、新左翼や全共闘運動など他の運動と接触を持つことでベ平連が量的にも質的にも大きな変化を見せる時期、そして第四期は七〇年安保が終了し、運動が終焉へと向かう時期である。ここでは運動の前半と後半とを分かつ一九六八年までの約三年間を対象とし、六〇年安保から生まれた市民運動がベトナム戦争が進行する六〇年代後半の時代状況の中で、どのような認識の変化を見せるに至ったのかを見ていく。
一 市民運動の誕生
1 六〇年安保と市民運動
六〇年安保は戦後史の一大画期をなす事件であり、日本の近代史上類を見ない大規模な大衆行動と政治的緊張とを出現させた特筆すべき運動である。そしてそれは一言では言い表わせない、多様で複雑な相を有する運動であった。
六〇年安保に関する研究はこれまで条約改定交渉の分析など外交史的な観点から研究がなされてきたが(註1)、六〇年安保という運動そのものを問うものはほとんど見られない。それは六〇年安保が狭義の政治闘争(安保条約改定という政治・外交上の争点を巡る闘争)に止まらない多様な価値、思想、記憶の混在する場であったからである。この運動が革新政党をはじめ労働組合、新左翼(共産主義者同盟や革命的共産主義者同盟日本評議会など)、知識人、学生、一般人(六〇年当時「市民」または「市民その他」と呼ばれていた人々)など多様な組織、階層によって担われていたことはそのことの端的な表われであり、それは多様な理念が六〇年安保という一つの場に同居していたことからも伺うことが出来る。
六〇年安保を形作っていたのは反安保(条約改定阻止・条約廃棄)だけでなく、革命、反米、反帝、反戦、民主主義擁護といった一様ならざる理念、感情であり、そこからは様々な「物語」が生まれた(「市民」の誕生、「擬制の終焉」など)。六〇年安保を問うということは、それら「物語」を生む土壌となった複雑な相を有する運動全体を問うものでなければならない。そのためには条約改定交渉やそれを巡る政党の動向など政治史的な分析だけでなく、精神史的アプローチなどの包括的視野からの考察が必要となるであろう(註2)。
本章は六〇年安保全体を論の対象とするものではない。ここで市民運動について論ずることは六〇年安保が有する一つの相、全体の意味連関の内のほんの一局面に触れるに過ぎない。しかし、市民運動は六〇年安保を見ていく際に一つの重要な指標となるものである。
六〇年安保はその中からそれまでにない運動や組織を生み出した。それらは革新政党や労組の動員、指導によらない自立的、自発的な動きであり、平民共闘(平和と民主主義のための共闘会議)のような地区労を軸に政党支部や原水協地域組織、その他様々な団体によって形成される地域ごとの「横割り」共闘組織とも異なった動きであった。党派や労組の動員によらずに街頭へ飛び出した人々は漠然と「市民」または「市民大衆」と呼ばれ、その運動、組織は「市民運動」、「市民組織」とされた。「市民運動」、「市民組織」の登場は運動を量的に拡大させ、国会を連日何万人ものデモ隊が取り囲むという特異な状況を生み出した(註3)。だが、それは運動の量的拡大としてのみ片付けられるものではなかった。
六〇年安保が一九五〇年代後半の勤評闘争、警職法闘争から続く革新運動の高揚の頂点に位置するということはこれまで多くの研究者によって指摘されてきたが、それは運動の絶頂であると同時に、限界が露呈した場でもあった。その象徴が市民運動の登場であった。
市民運動の登場は高畠通敏が指摘するように「革新国民運動」の裾野の広がりとしてのみとらえられるものではなく、そこからの逸脱であり、「革新国民運動」が「国民運動」としての機能を果たし得なくなったことを示唆するものであった(註4)。無党無派の旗を掲げた声なき声の会が国会を取り巻くデモ隊の中から登場し、それに触発されて全国各地に「声なき声の会」が誕生したということは(註5)、それを象徴する事態であった。(註6)。そしてそのような事態が可能になったのは五月一九日以降の状況においてであった。
六〇年安保は全面講和運動以来続く知識人の運動への積極的参加がなされた場であり、そこには安保廃棄を目指した清水幾太郎や既成革新政党に「擬制の終焉」を見た吉本隆明など様々な主義主張を持つ人々がいたが、その中にあって五月一九日以降の状況に大きな意味を見出していたのが「市民主義者」と呼ばれる人々だった。
一口に市民主義者といっても成員は多様であり(久野收、竹内好、鶴見俊輔、日高六郎、丸山眞男などの思想の科学研究会会員や、篠原一、福田歓一といった民学研=民主主義のための全国学者・研究者の会に集った若手研究者など)、その主張も決して一様ではない。しかし、五月一九日が運動の一大転換点であったという認識を持つ点では共通していた。市民主義者たちは六〇年安保における平和と民主主義を巡る言説の主導者であり、一九日深夜の強行採決を境に安保を巡る情勢が大きな変化を見せたと考えていた。それは「安保反対」から「民主主義擁護」への争点の移動であり、各地の自立的・自発的な組織の蔟生に既存秩序を解体し、新たに構成し直す「下からの革命」の実現の可能性を見出していた(註7)。例えば、市民運動・声なき声の会に積極的に関与した鶴見俊輔は五月一九日以降の事態を「根もとからの民主主義」の問い直しが迫られている場としてとらえていた。
「それぞれ私の根にかえった、そこから国家をつくりかえてゆく道をさがす。(中略)政府批判の運動は、無党無派の市民革命としての性格を帯びる。どんな公的組織にぞくしている人も、その根にさかのぼれば、私としてはつねに無党無派だからだ。私の根にかえって各種の公的組織のプログラムをつくりかえることなしに、本格的改革はなされない。」
「この運動を支える思想は、国家によって保証された私生活の享受に没頭するという考え方ではなく、国家をも見かえす私というとらえ方にある。」(註8)
鶴見は強行採決に体現された強権政治に抵抗する意義を問う一方で、イデオロギーから政府批判・国家批判を行うのではなく(与えられたプログラム、正しいと教えられた理論から既成秩序を批判するではなく)、運動する人間がそれぞれの私的な感情、思想の私的な根から国家批判・権力批判を行うことの必要を説く。それは革新党派の運動指導に対する不信感の吐露というだけではなく、政治をはじめとする様々な領域を支配してきた秩序、そしてそれを支えてきた秩序意識そのものを批判し、「国家をも見かえす私」という自覚を出発点として民主主義を根底からつくりかえようとする営為の提唱であった。
高畠通敏が指摘するように市民主義者たちの言説からは五月一九日以降に顕在化した「革新国民運動」に寄り添いつつそれを革新的、原理主義的に純化する、すなわち「民主主義擁護」というスローガンを国会解散や岸内閣総辞職に収斂させるのではなく、従来の運動のありかたを含めて民主主義を原理的に問い直そうとする姿勢が見て取れる(註9)。しかし、それとはまた別の角度から運動の拡大を見ていた人々もいた。
政治学者松下圭一は安保直後に運動を総括する中で、五月一九日以降の情勢変化を認め、そこで提起された個人を原点に政府に対して不服従を突き付ける「市民としての抵抗」(註10)を革新党派などの既成革新組織に対する批判であり、組織外の人々からの「革新運動の体質改善」要求だととらえている。しかし、強行採決以降の「民主主義擁護」の運動が「市民としての抵抗」に傾斜することを危惧し、組織論を伴わない「市民的抵抗」は「マス状況における抵抗原理」としてのみ機能するものとしてその限界を厳しく批判する。
個人を原点に国家への批判を貫徹するという「市民的抵抗」の精神に盛られた革新党派への批判、組織化への懐疑が重要な問題提起であることは認めるが、それだけでは「安保国民運動は<街頭>を流れた奔流にとどまってしまうことになる」(註11)。重要であるのは六〇年安保、五月一九日以降に顕在化した高揚を持続し、有効な運動を組織していくことであり、そのための方法論を作り出すことであった。そしてそれはモラリズムによるのではなく、「変革をともなう組織論」獲得によってなされるものでなければならなかった。
「逆ピラミッドの革新組織をピラミッド型につくりがえし、かつ既成組織が市民的コミュニケイションによって独善主義を脱皮させるという今日の課題は、しかし、モラリズムによって解決されるものではない。この課題は、当然、思想改造、活動スタイルの変革をともなう組織論的基礎を必要とする。」(註12)
松下の立場もまた「革新国民運動」の限界を認識し、その変革の必要性を提起するものであった。だが、五月一九日以降の運動の高まりは松下が危惧していたように「<街頭>を流れた奔流にとどまって」しまったかのように急速に後退することとなるのであった。
五月一九日以降に顕在化した「民主主義擁護」という命題は、岸内閣総辞職という卑近な目標に収斂し、運動の終着点をそこに設定してしまった。そして敵がいなくなった瞬間(六月一九日深夜の新安保自然成立と岸内閣総辞職)、国会周辺に連日何万人ものデモ隊を繰り出させた運動の高揚は急速に後退し、強行採決から一月で運動は収束をみてしまうのであった。五月一九日以降の運動の高揚と一月余りでの早すぎる終焉、このことの意味を問い直していくことが求められていた。こうして収束直後から六〇年安保の高揚を無化してしまわないための方法論が模索され始める。その一つの試みが市民運動であった。
2 市民運動の二系統
六月一九日深夜の新安保条約自然成立以降、運動の波は急速に引いていくが、市民運動はそのような状況の中で運動として定立していくこととなる。そしてその定立の仕方には大別して二つの型が見出される。
市民運動に二つの型があるということは安保直後から指摘されているが(註13)、共に「市民運動」を名乗りながら互いは全く異質な運動であるようにも見える。組織形態では一方は居住組織であるのに対し、他方は非居住組織(運動の基盤を特定地域=居住地におかないという意味で「非居住」)、活動内容では前者がごみ収集、保育所設置、町内会改革などの地域問題(註14)に取組むものであるのに対し、後者は地域にとらわれずに安保、反戦などの命題に取り組むものである。後者の典型は声なき声の会であり、この系譜は後述のべ平連につながっていくものである。声なき声の会に関しては二章で詳述するため本節ではもう一方の市民運動について考察していく。
地域問題に取り組んだ市民運動はそれぞれ独自の内容を持つが、共通するのは一党一派に偏しない無党無派の立場であり、個人参加を原則とする行動原理である(註15)。その基礎にあったのは第一に革新党派や労組の指導を仰がずに自立的・自発的に行動しようとする姿勢であり、第二に党派との間に新しい関係を構築しようとする意志であった。
「それ(六〇年安保の際に全国各地に市民組織が生まれたこと:括弧内引用者)は本来、住民の生活感覚を自らも理解できる人々の革新運動への一つの建設的批判として誕生したものと考えるがどうだろう。少なくとも誕生当時にそう認識しなかったとしても、現状況の中では以上のことを痛感せざるをえないのではないか。」(註16)
「地域民主化の運動はたんにいわゆる革新の側に立つとか、階級斗争的な立場ではやれないし、また、やってはいけないということです。むしろ革新とは何かと問いつめていくことが必要であり、ときにはいわゆる革新と称する人々と対決することさえも覚悟しなければなりません。」(註17)
これは六〇年安保直後に市民運動の連絡センター的役割を果たしていた東京都政調査会(以下都政調査会、後述)の雑誌『都政』に寄せられた市民運動参加者たちの声であるが、そこには下からの自立した動きを系列化しようとする革新党派への拭い難い違和感、不信感が表されている一方で、革新党派に期待を寄せ、彼等が変わってくれることを望む二律背反的心情が見え隠れしている。指導されるのではなく自ら主体的に問題に取組み、時には革新党派にも意見する。市民運動が掲げた無党無派という立場性は党派との全面対決を意味するものではなく、その役割を認めつつ、自己の自立性・主体性を保持した上で党派との間に指導・被指導ではない新たな関係を構築していこうとするものであった。それは革新運動を下からつくりかえようとする姿勢であり、以下の事例によく表われている。
「平和と民主主義を守る小金井市民の会」(以下、小金井市民の会)は東京・小金井市に一九六〇年四月に誕生した「小金井安保批判の会」が安保成立後に再発足した組織である(註18)。特定の政党を支持しないという会則の下で、安保後には地域問題を取り上げる活動に移行していったが(註19)、次第に単独の活動に限界を感じ、革新政党や労組との提携を模索するようになる。具体的には、日教組(小金井地区協)と教育問題を話し合う場を設ける、市の予算を検討して社会保障拡充のための共闘を革新政党や労組に呼び掛ける、小金井での地区労の結成が進まない中で労組や各種団体に働きかけ、地区労活動を通じての地域共闘の重要性を訴え掛けていく、などの活動を行っていった(註20)。
この小金井市民の会が目指していたのは党派・労組の傘下に入るということではなく、自らが地区労、革新政党、民主団体の「共斗(ママ)のための接着剤」となって地域共闘の実績を積み上げ、その成果をもとに革新党派・労組の体質改善を図っていくということであった(註21)。これは末端地域、地区労レベルでの共闘ではあるが、市民組織が積極的に働き掛け、革新勢力との提携をはかろうとした事例である。このような動きは当時の革新党派(特に日本社会党)の新たな地域対策とも連絡し得る動きであった(註22)。
安保直後に行われた地方選挙や一九六〇年一〇月総選挙での敗北は、安保の高揚が革新勢力への支持につながっていないという現実を露呈した(註23)。この敗北は革新政党の慢性的な地域把握の欠落を再確認させることとなり、結果としてそこから新たな方向性が打ち出されることとなる。一九六一年三月の社会党第二〇回大会運動方針「地方自治体改革」に盛られていたのは、それまでにはない「地方からの変革」という発想であった。
「社会生活全般の民主化をはかる民主主義的改革のわが国における具体的な展開は、まず民主的な地方住民の組織の確立と地域活動におかれなければならない。」(註24)
これは活動の重点を国政においていたこれまでの運動のありかたを根底から改めることを宣言するものであった。それは「安易に国政批判にならって県政批判」がなされてきたことへの反省であり、全国共通課題の安易な適用によって地域の運動の芽、地域住民組織の自立を妨げてしまっていたことへの率直な反省であった。
「この運動は、地方自治体闘争のみに限定されるものではない。既存の地域社会、市民生活組織(民生委員、PTA、町内会、部落会など)の全般的な民主化を達成する運動であり、これらを保守の独占的基盤から勤労大衆のものにうばいかえす積極的な運動でもある。したがって、それは同時に、われわれが従来までもっとも接触が少なく弱かった地域市民社会に全般的、積極的に日常不断に進出していく大衆活動改善の運動でもある。同時にこれらの地域活動は、当然に地方自治体改革の闘いになる。」(註25)
ここで示された「自治体改革」は、従来の生産点闘争の延長にある自治体闘争とは異質なものであり(註26)、具体的には地区労活動の強化や勤労協(勤労者協議会)重視などが盛り込まれていたが(註27)、そこには市民運動・市民組織を評価し、それらに接近していこうとする姿勢が生まれていたのであった(註28)。
上(革新党派)からの変革への意志と、下(市民運動・市民組織)からの変革への要求は両者を橋渡しする理念を必要とした。その理念こそが地域民主主義であり、それを提起してみせたのが先に述べた都政調査会であった。
都政調査会は都労連(東京都労働組合連合協議会)を母体に一九五五年設立された都市問題の調査研究機関である。そこには地域民主主義運動、革新自治体運動のイデオローグや後に革新自治体のブレーンとなる人々が多数参加していた(阿利莫二、松下圭一、小森武、鳴海正泰など。一九六七年の革新都政発足後はそのシンクタンク的な役割を果たす)。活動は東京都政に関わる調査研究が中心であったが(都政民主化のための活動、地域問題の実態調査や都政への提言)、調査研究の域を越えた活発な対外活動を行っていた(註29)。それはこの組織が「地域民主主義」の提唱者であったことと無縁ではない。
「地域民主主義」という言葉は都政調査会が一九六一年に出した報告『大都市における地域政治の構造』(註30)で初めて使用されたが、それ以後会の発行物などに用いられ一般に普及することとなる(註31)。その内容は前掲報告の作成にも関わった松下圭一によれば、「民主主義を地域末端に定着させ、日本の体制変革を地域末端で準備する」ための理論であった(註32)。
松下は地域民主主義を勤評闘争、警職法闘争、六〇年安保と続いた一九五〇年代からの「国民運動」の成熟によって初めて提起可能となった理念であり、運動の成果だとする。しかし一方で、その運動への批判的統括が要請する緊急の課題だとも述べる(註33)。
六〇年安保は地域での革新勢力の基盤の弱さが露呈し、その政治指導が有効に機能していないことが明らかになった場であった。中央闘争のみを行っても運動の拡大を望むことは出来ない。地域を中央に隷属しない自立した運動の場としてとらえ、そこから民主主義をとらえ直していく運動のベクトルの転換が求められていた。それには「思想改造、活動スタイルの変革をともなう組織論」(註34)が必要であったが、その「組織論」の土台となるのが地域民主主義であった。
地域民主主義は一言で言えば「私たちの足もと、つまり地域末端に民主主義を確立すること」という至極単純な内容であるが、それは「生活に根をおろした厚い層の国民運動の発展」を視野に入れた理論であった(註35)。地域民主主義は政党や労組の指導を厳しく批判するものであり、「国民の『一般民主主義』的エネルギーを地域で充分組織しえなかったこれまでの『左翼企業組合主義』的政治指導からの脱却」を目指すものであった(註36)。「脱却」をはかるための実践が地域民主主義と一体の自治体改革であったが、それは特定地域が改革されるだけではなく、「革新運動の全体の前進のための土台を職場とともに地域でもつくるという役割をになう」ものでなければならなかった(註37)。そしてその最重要課題の一つが包括的地域住民組織である町内会の改革であった。
都市における「ムラ」状況(地域における保守支配)を体現する町内会は一九五〇年代から六〇年代にかけて整備され、地域保守層の基盤として機能していたが、町内会と対決し、それを民主化していくことは地域の保守支配を突き崩すと同時に、運動参加者たちが民主主義を身に着けていくための基礎作業、いわば地域民主主義の第一歩であった(註38)。そしてその基礎作業の担い手となるのが、他ならぬ居住地組織であった(註39)。
革新運動再生には地域民主主義運動の一方の担い手である居住地組織が必要であったが、その中にあって市民運動は重要な意味を持つものであった。それは市民運動が「これまでの革新勢力の硬直した発想や組織に、なによりも強い反省を迫る」存在であり、革新勢力に対して建設的な批判を行い得る運動であったからである(註40)。
都政調査会はこの居住地組織を地域に根付かせていくための啓発活動を行っていった。一方で市民組織の連絡会を設定し、市民組織間の「資料交換センター」、「中央センター」としての役割を果たしていた(註41)。具体的には「地域組織連絡懇談会」という会合を年に一回開いて各組織の交流をはかっていたが(註42)、それは安保直後に声なき声の会が果たしていた役割を一九六一年以降に都政調査会が引き継いだものであった(註43)。そこでは市民運動と革新党派との連携が提唱され(各地での地区労との緊密な連携など)、両者の提携によって革新政党の変革・意識改革を生み出すことを意図していた(註44)。
六〇年安保で現れた抵抗のエネルギーを組織化し、定着させることが地域民主主義論者 の狙いであった。六〇年安保は革新運動のありかたを変革することの必要性を喚起したが、そこから実践理論としての地域民主主義論が提起され、その担い手となる市民運動の重要性が認識されることとなった。この流れは革新政治指導という枠組を意識しながら新たな革新運動の担い手として市民運動の進展を望むものであったと言える。
最後に二つの市民運動の差異について簡単に述べておきたいが、二つの市民運動は運動として独自の展開を見せ、その内容も、社会への影響の度合いも各々別ものである。だが一方が市民運動の正統であり、他方がそこからの逸脱、異端というわけではない。両者は共に六〇年安保の経験の上に運動を立ちあげ、そこから導き出された課題や意識の違いは理念や行動様式の違いを生んだ。しかし、この二つを二項対立的にとらえるべきではない。
両者は革新運動が見落としてきた地点(地域という場所や組織化されない人々の立場)から発言した点で共通性を有し、成員も基本的に違いはない。運動に寄り添う知識人の顔ぶれは異なるが、一般参加者の多くは共に組織化されていない人々であった。運動を理念化しようとした知識人たちにとって互いの運動の方向性は異なるものであったが、参加者にとって両者は受入れ可能なものであった。つまりは一つの運動が二つの顔を持つことも決して有り得ないことではなかった(地域民主主義の活動を行いながら市民的不服従の行動を実践することも可能。後述するように声なき声の会の中で地域活動の重要性が語られ、個々の参加者が居住地で地域活動の実践を試みるという例も見られる)。
二つの市民運動は共に民主主義という理念を掲げ、安保後の状況の中で民主主義の意味を問うた。それは代議制民主主義を否定するものではないが、国会正常化や議会主義の復権といった六〇年安保時に叫ばれた既成秩序の再生では立ち行かない事態、擁護を叫ぶだけではなく、民主主義のありかたを問い直すことの必要性を安保後の状況の中で認識し、改めてその精神を問い直そうとしたものであった。市民的不服従の立場が運動の組織化を拒否し、個々の精神(運動を実践する個人、民主主義を担う個人の精神)を重視するものであったのに対して、地域民主主義は民主主義を実践していくための新たな組織論を重視する立場であった。それは機能不全を来した「革新国民運動」を市民運動という下からの動きによって新たな「国民運動」につくりかえようとする試みだったと言えよう。
二 市民運動・声なき声の会の運動
1 運動の出発:「声なき声たち」の運動
声なき声の会(註1)は市民運動の先駆けとされるが、この運動は高尚な理念や理想を語る運動でもなければ、絶対権力に敢然と立ち向かう雄々しく、勇ましい運動でもない。その規模も何千何万という人々を付き従えるものではなく、参加者は数十人、時には数人でしかない(註2)。
無党無派という立場であらゆる政党政派から自立していることが市民運動の特徴として語られるが、声なき声の会はそのような姿勢を鮮明にした初めての運動であった。それは革新運動に対するアンチ・テーゼであり、革新党派への違和感、不信感を基礎にしていたが、ただ革新党派を批判するものではなく、革新党派を含めた運動全般、そして政治のありかたに対する異議申し立てであった。その姿勢は参加者(声なき声の会は会員制をとらないため「会員」は存在しない。ここでの「参加」とは集会やデモに参加、カンパする、などの内容)の認識や行動原理、組織原理に如実に表われている。
声なき声の会の特異さは従来の運動を考察する際に用いる尺度で評価することが困難だということに端的に表わされている。会員制をとらず、指導部もおかず、議決もしないというのがこの運動の基本的な行動原理・組織原理であるが、これは既成の組織論・運動論の常識を逸脱するものである。つまりは数の多寡を以て運動の成果を判断すること、デモへの動員数や選挙での得票数によって政治的効果や対外的な影響の度合いを測り、それによって運動の勝ち負けを判断するということを声なき声の会は最初から拒否しているのである。本章では以上の点を踏まえた上で、機関誌『声なき声のたより』(以下『たより』)を手掛かりに一九六五年のベ平連誕生に至るまでの声なき声の会の軌跡をみていく。
声なき声の会は国会を取り巻く何万人ものデモの中から誕生したが、それは綿密な計画に基づく行動ではなく、「デモをしてみたい」というほんの一声から始まったものであった(註3)。国民会議呼び掛けのゼネスト決行日の六月四日(註4)、国会近くへやって来た絵画教師小林トミ(当時二八歳、思想の科学研究会会員)は友人と二人で「総選挙やれ、U2機かえれ、誰デモ入れる声なき声の会、皆さんおはいり下さい」と書かれた横断幕を広げ、安保批判の会の最後尾についてデモ行進を始めた。するとそこに沿道から人々が次々と加わり、数時間デモ行進をして新橋で解散するまでには三百人ほどになっていた(註5)。「一人でも二人でも一緒に歩いてくれたらという気持ちだけ」で行なった二人だけのデモ、それが声なき声の会の出発点であった(註6)。
声なき声の会は初めてのデモからおよそ一ヶ月の間に五度のデモと二度の集会を行い、運動の波が急速に引いていく状況の中で、いかなる政党政派にも属さない無党無派の立場で活動を継続してことを申し合わせた(註7)。それは強行採決に怒り、街頭へと飛び出した無名の人々、何の政治的力も持たない「声なき声たち」が新安保条約の成立後も運動を続けていくことを選択した瞬間であり、デモの中から自然発生したささやかな集いが運動として真の出発点に立った瞬間であった(註8)。
六〇年安保の高揚の中でデモをすることが活動のすべてであった声なき声の会は、一九六〇年七月以降会としての活動を本格化させる。主な活動内容は以下の通りである。他の団体主催のデモへの参加(メーデーや国民会議主催のデモなど。六〇年代後半からは主にベ平連のデモ)、会報『声なき声のたより』発行(創刊一九六〇年七月一五日。一九九五年三月一五日まで通刊八八号)、他の市民運動・市民組織との連絡(『たより』で活動を紹介する他、声なき声の会が集会を開催)(註9)、講演会・勉強会の開催、そして毎年六月一五日(共産主義者同盟メンバー・樺美智子の命日)の国会南門前での集会である(註10)。
活動開始後から半年間は来る総選挙への準備が第一の課題であった。それは五月一九日の強行採決に加わった議員を国会から排除し、議会政治を再建していくための「準備作業」として位置付けられるものであった。具体的には選挙直前に各政党に質問状を送ってその心構えを質すなど(註11)、「無党派組の素人らしい総選挙対策」を行っていった(註12)。
しかし一九六〇年一一月に行われた総選挙は自民党が議席を増やし、革新勢力が大きく議席を減らすという結果に終った(註13)。五月一九日の強行採決に関わった議員を再び国会に出さないことを目指し、安保闘争収束後も活動を続けてきた声なき声の会にとって、総選挙での革新勢力敗北は重大な事態であった。だがそれ以上に深刻であったのは、選挙終了が彼等自身の目標の喪失を意味していたことであった。当座の目標であった総選挙が終わってしまったことで参加者には戸惑いが生じていた。運動の波が引いてしまった状況の中で声なき声の会という場に集い、そこで運動することの意味を改めて問い直すこととなる。そしてそのような状況の中から導き出されてきたのが運動の「四つの柱」であった。
一九六〇年一二月一八日、声なき声の会は東京近辺在住の『たより』購読者に呼び掛けて集会を開いた(註14)。この集会では総選挙後の具体的な活動内容について話し合われたが(註15)、そこで示された四つの指針(「四つの柱」)は声なき声の会半年の活動の総括であるとともに、以後の運動の指標となるものであった。それは第一に「五・一九」を認めない、第二に地域に居住組織を作る、第三に会の規約・委員(事務局)を持たない、第四に決議しない、という以上の四点であった(註16)。
第一の「五・一九を認めない」という一語はこの運動の精神であり、五月一九日深夜の強行採決が声なき声の会の原点であり、強行採決に抗議し、抵抗し続けることがこの運動の存在理由であるということを宣言するものである。安保収束後に市民運動の多くが取り組むべき課題を地域問題へと移行させていった中で「五・一九」にこだわり、その記憶を持ち続けたことは、この後声なき声の会を特異な存在にすることとなる。
第二の地域での居住地組織づくりという点であるが、初期には声なき声の会でも居住地組織の必要性が叫ばれていた。一章で触れた地域民主主義論者と同様に地域での運動の根が必要であるという認識を声なき声の会も共有していた。声なき声の会は各地の市民組織と連絡を取り合い、『たより』に各地の活動家(地域民主主義論者も含む)の寄稿や提言を掲載する一方で、会への参加者たちが居住地に自分たちの組織、居住地組織をつくることを提唱していた。その基礎にあったのは居住地組織が地域に基盤のない革新運動の脆弱さを補い、その体質を変えるという認識であり、それは地域民主主義論とも共鳴し合うものであった(註17)。実際声なき声の会参加者は各々の住む地域で居住地組織をつくり、地域問題に取り組んでいる(註18)。だが地域民主主義論者から居住地組織への改組を求められる中で(註19)、声なき声の会自身は決して居住地組織になろうとはしなかった。
理由としては地域民主主義の立場が革新政治指導という運動の枠組みを強く意識していたのに対し、声なき声の会にはその意識が稀薄であったということが指摘できる。革新運動に異議を申し立て、その変革を願うものの、声なき声の会自身は新たな革新政治指導の下で運動を進めていくという意識は有していなかった。声なき声の会は各地の居住組織・市民組織と連絡を取り合っていたが(註20)、それは都政調査会のような革新政党と市民運動との橋渡しを意図してのことではなく、以下のような認識を基礎とした行動であった。
「この運動が、特定の政治勢力への積極的共鳴というよりも、むしろ、私たちの生活原理への侵害への抵抗という姿勢で結集したことを考えれば、この運動自体が特定の政党の下部団体になることは注意して避けなければならない。そして現在の日本の政党が保守・革新を問わず、共通の日本的組織原理によっていることを考えれば、このことはさらに積極的な意味をもつ。」(註21)
声なき声の会も職域の運動(労働運動)や地域の運動を軽視していたわけではなかったが、「現在の日本の政党が保守・革新を問わず、共通の日本的組織原理によっている」との認識を有する以上、自らの運動を「革新政治指導の刷新」という文脈の中でとらえることは出来なかった。声なき声の会の立場は革新党派からの自立を打ち出したものであったが、その自立とは組織として自立することだけを意味するものではなく、行動原理、組織原理における自立、「日本的組織原理」によらない新しい運動をつくり出すことを目指したものであった。そしてそれは運動の成員の中身にも大きく関わる命題であった。
声なき声の会の担い手は主婦・学生・会社員・公務員・教員・大学教授・工場労働者・日雇労働者など職業も年齢も様々な人々であったが、共通するのは彼等が組織的運動から「除外」されていたということである。知識人のように自覚的に「離れた」という場合もあるがそれはごく少数派であり、組織を必要としながら組織を持たないという場合がほとんどであった(註22)。彼等はまた知的・経済的にも恵まれた人々でなかった。声なき声の会には『思想の科学』の関係者(久野收や鶴見俊輔、高畠通敏など)など知識人も多数参加していたが(『たより』には多くの知識人も投稿・寄稿している。鶴見良行、日高六郎、松田道雄、丸山眞男など)、大多数は日々の生活に追われる生活者であり、勤労者であった。
「(60年安保以前には:括弧内引用者)『やじ馬』か『コンマ以下』の在りようしか許されなかった者の一人として、貴会に心から謝意を表します。どうぞ今後事ある毎に、何かの型で、私どものエネルギーを吸い上げるてだてを構じて頂き度いと思います。」(註23)
声なき声の会は「『やじ馬』か『コンマ以下』の在りようしか許されなかった」人が日頃口にすることの出来ない疑問や悩みを誰かに訴えかけることが出来る場だった。『たより』上では安保、反戦、戦争体験などについて論じられる一方で、職場の矛盾や労働者の分断状況(生産点での本工と臨時工の差別など。未組織労働者の組織化を唱えながら臨時工の組合加盟を認めず、臨時工の切り捨てによって本工=組合員の待遇改善を図る労働運動の現実など)など組織的運動が顧みることのない問題が提出されている(註24)。
「『やじ馬』か『コンマ以下』の在りようしか許されなかった」人々にとって、この会は職域や地域とは全く違った運動の場であった。組織的運動から疎外された彼等にとって、声なき声の会は運動というものに加わることが出来る数少ない道筋であり、同時にそれは日常ではなかなか得ることの出来ない自らの「居場所」であった(註25)。
声なき声の会が意図していたのは、職域の運動(労働運動)とも地域の運動(地域民主主義に基づく市民組織や居住地組織)とも違う「三つめの役割」を持つ運動をつくり出すことであったと言えよう。「三つめの役割」に明確な定義があるわけではないためイメージの域を抜けないが、以下の久野收の言葉はそれに対する一つの解答であると論者は考える。
「『文明社会』は、単数ではなく複数である。人間と人間の関係を権威化し、権力化するのではなく、合意化し、文明化する機能をもった集団は、すべて『文明社会』である。大づかみにいえば、『文明社会』はわれわれの生活領域を文明化する機能をもつた居住地組織の方向と、職域を文明化する職能集団の方向と、この両方をつなぐ根本的な生き方の問題を文明化する信仰集団の三つの方向に分かれるだろう。(中略)『声なき声の会』は、どこにぞくすのだろうか。私は、『声なき声会』(ママ)が、国民的ひろがりをもつ信仰集団になることを期待したい。地域や職域や階級組織の中で、それぞれいろいろな苦しみと喜びをもってはたらいている人々が、それらの領域をつらぬく生活原理を文明化させるために、意見を交換しあい、知恵をもちよる組織になれば、われわれの公人としてのたましいの中にある空洞は、大きくいやされるだろう。」(註26)
「三つめの役割」を持つ運動を生み出すためには運動の在り方を根本から問い直さねばならない。これは先の「四つの柱」の第三・第四にも関わる主題であるが、規約も委員も持たず、決議もしないということは既成の運動では考えられないことであり、近代的組織論・運動論からの逸脱に他ならない。しかしそれは単に新奇さを狙ってのことではない。この原則を貫くことで従来の政治のありかたと既成秩序の中で生きてきた人間のありかたを変えていくことを目指した行動であり、参加者個人個人の自主性を重んじ、意見の相違を認めながら政治的な連帯を作り出そうとする一つの試みであった(註27)。
理念においても行動原理、組織原理においても従来の運動とは異なる声なき声の会は、運動としての自立性と主体性を保持していくための努力を重ねていくこととなる。そしてその努力が実践の場で試されることとなったのが一九六一年の政防法反対運動への独自の取り組みにおいてであった。
2 運動の転機:政防法反対運動での試み
政防法反対運動とは「政防法」(「政治的暴力行為防止法案」の略称、または「政暴法」、以下政防法)という治安立法制定の動きに反対した運動である。この運動は各種団体動員によるデモや国会への請願行動など形態において六〇年安保との共通点が多いが、それは社会党や総評、国民会議など六〇年安保とほぼ同じ面々によって運動が担われていたためであり、ある意味六〇年安保の延長線上に位置する運動だと言えよう。
政防法(政防法案)に関する研究はほとんどなされておらず(註28)、反対運動の評価も定まっていないが、運動自体は六〇年安保の「残火」とでも言うべきものであった。だが、この運動は声なき声の会にとって一つの転機となる事件であった。
政防法は第三八通常国会(会期一九六〇年一二月二六日〜六一年六月八日)に提出された法案であるが、背景には浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件や嶋中事件(小説「風流夢譚」の雑誌掲載に怒った右翼少年が講談社社長嶋中鵬二宅に乱入、家族を殺傷した事件)など右翼テロが多発する当時の社会情勢があった。そのような情勢を受けて六〇年末からテロ防止を名目とした治安立法の動きが活発化、法案として具体化したのが政防法であった。
政防法は「政治的暴力行為」取り締まりを謳っていたが、その主眼は右翼テロではなく、六〇年安保で威力を発揮した大衆示威行動、すなわちデモ規制にあったと言える。第四条で「政治的暴力行為」を「政治上の主義若しくは施策または思想的信条を推進し、またはこれに反対する目的をもって」する行為(殺人・傷害・逮捕監禁・集団的暴行・脅迫・器物損壊・内閣総理大臣官邸又は国会構内ならびに周辺の行為)と定義しているが、これに従えば「政治上の主義云々」に基ずく「行為」すべてが取締対象となる。それは政党活動は勿論、デモ・集会・機関誌発行その他「政治的」と見做される行動すべてが対象になり得ることを意味している(註29)。反対派の表現を借りれば、デモ隊が警官隊と遭遇し、警官の肩にぶつかるだけで「傷害・集団的暴行」に該当し、団交・抗議が長引けば「逮捕・監禁・脅迫」となるのであった(註30)。
だがこの法案で最も問題なのは、「政治的暴力行為」を行った団体、または行おうとしたが行なわなかった団体、更にはその行為を行う恐れありと判断される団体に対して規制が可能となるという点であった(四ヵ月以内のデモ・集会禁止及び機関紙発行の禁止、団体解散を公安審査委員会が命令)。それは「政治的暴力行為」を行なった場合は勿論、「行為」の有無に関わらずそれを実行し得る「潜在的能力」を認定しさえすれば、あらゆる団体、運動の規制が可能となることを意味していた。本論の目的は政防法の法理論的考察ではないためこれ以上の条文解釈は避けるが、以上のような法案が成立をみた時、あらゆる政治運動、更には社会運動にもその規制が及ぶことになることは容易に想像が出来よう(註31)。
政防法を巡る国会の動きは以下のようなものであった。一九六〇年末から翌年にかけて各党でテロ対策が検討され(註32)、その過程で自民党・民社党が法案提出で合意、法案が一九六一年五月一三日自民・民社両党共同で衆議院に提出される。それに対して社会党はテロ防止に託けてあらゆる政治行動を封じ込めようとするものだと強く反発、審議拒否で応じるが、法案は六月二日に強行採決され法務委員会を通過、翌三日の衆議院本会議でも強行採決で衆議院を通過、即日参議院に送られた。この前後から院外で国民会議による反対運動が開始されるが、事態は自民党主導で推移、法案の成立は時間の問題であるかに見えた。だが、自民党の党内事情(執行部の混乱、参議院と衆議院の対立)によって採決に至らず、六月八日の会期切れで継続審議となった。その後次の国会でも成立せず、参議院議長斡旋による自社合意で更なる継続がなされたが、その際民社党が共同提案者から下り、その結果政防法は廃案となった(註33)。
政防法は以上のような経過を辿り結局成立は見なかったが、六月に継続審議となったのは自民党の党内事情や与野党の政治的駆け引きによってもたらされた結果であり、政防法問題は最後まで院内で処理されたと見るべきである(註34)。院外の反対運動が成立阻止に大きく作用したと見ることは難しく、それは反対運動の盛り上がりのなさからも伺える。
一九六一年五月末から「安保の再来」を狙った反対運動が全国で開始されたが、運動は当初から盛り上がりに欠けていた(註35)。「政暴法粉砕闘争」と銘打った運動は国民会議(「安保反対・平和と民主主義を守る国民会議」)を中心に一一月まで行われ、八次の統一行動が組まれたが、一年前のような高揚はなく、当事者たちもそのことを自覚していた。
法案が参議院で継続審議に付された翌日の六月九日、国民会議は「歴史的な安保闘争を闘い抜いたわれわれ日本の平和・民主勢力は、政暴法粉砕のため再び安保反対国民会議に結集し、全国的統一行動を展開し、先月末から今日まで院内の闘争を結合し、中央地方を通じ連日連夜の大統一行動を組織した。(中略)闘争に立ちあがった国民大衆は、いささかもひるむことなく、日一日と闘いを強化拡大し、ついに政暴法の今国会通過を阻止した。この闘いは、安保改定阻止の歴史的な闘いをひきつぐわれわれの大きな成果である」(註36)と一月余りの運動を総括し、その成果を謳いあげた。だが実際には運動は警察によって封じ込められ、団体の足並みも揃わず、徒に怪我人と逮捕者を出すだけという有様であった(註37)。そして半年後に再び行なわれた運動の終了時には「院外の大衆行動は必ずしも充分であったとはいえない」という偽らざる心情を吐露するに至るのであった(註38)。
政防法反対運動に安保の再来を期待した革新勢力の目論見は失敗をみた。原因は安保後の停滞ムードの中で安保の縮小再生産的運動しか組織し得なかった革新勢力自身の見通しの甘さに求めることが出来よう(註39)。そしてそれと共に、情勢如何で自身もテロ対策法を作りかねない革新政党への不信が一部影響していたということも指摘できよう(註40)。
政防法に対しては六〇年安保時に登場した市民運動・市民組織の多くも関心を持てずにいた(註41)。政防法に反対する自発的な運動が自然発生したという事実もほとんどなく、そこには安保後に訪れた停滞感の深さが如実に表されている。しかし、そのような状況にあって声なき声の会は独自に政防法反対の動きを見せる。それが「政防法をせきとめる会」(以下「せきとめる会」)の運動であった。
「せきとめる会」は「市民による政防法阻止運動の実現」を目指し、情宣活動(鶴見俊輔をはじめとする著名人寄稿によるパンフレット『政防法をせきとめよう』発行など)や集会・デモなどを行ったが、それは一九六一年五月六月の国会会期末前後に行われた革新党派主導による反対運動への失望と反省の上に立ち上げられたものであり、それらの反対運動とは一線を画すことを目指していた(註42)。運動の経過を述べれば、先ず一九六一年八月に『たより』上で呼び掛けがなされ、九月二一日に参議院議員会館で結成集会が開かれる(会結成時の参加者は六三人)。その後二回の会合を経て九月三〇日には名称が「政防法をせきとめる会」となり(当初の「政防法反対市民会議」から改称)、「行動デー」(国民会議のような大組織に頼らない「市民単独によるデモ」決行日)と定められた一〇月二二日に向かって、「せきとめる会」は活動を本格化させる(註43)。
運動の原則は以下のようなものであった。第一に政防法阻止を目的とし、成功・非成功を問わず事態が一段落した時には解散する(運動を恒常化せず、「シングル・イシュー」に専念)。第二に組織形態は個人参加を原則とし、責任を参加者個々が平等に分担する(各地の市民組織の連合という形式をとらず、参加の主体は個人であることを徹底する)。第三に会(「せきとめる会」)が責任をもって運動を設計すると同時に、参加するにあたって個人に求められる責任の範囲(個々の主体性の他、予想される不利益や危険性など)を参加者に徹底させる(註44)。
「せきとめる会」は原則の第二点にもあるように市民組織の連合ではなく、個人参加による運動を目指していた。それは国民会議のような組織ぐるみ、団体ぐるみのスタイルでは参加者個人の意志が明確にならず、組織に埋没して自己責任が曖昧になるという危惧があったためである。そこではイギリスの「百人委員会」がイメージされていた(註45)。
百人委員会は哲学者バートランド・ラッセル等によるイギリスの核武装に反対する運動であり、「非暴力直接行動」(「非暴力の不服従のたたかい」)を基調とするものであった。行動様式は以下の通り。先ず百人委員会がデモと座り込みに関する実施細目を定め、参加者を募る。参加希望者は「誓約」することで参加を保証されるが、座り込みは違法なため逮捕の恐れがある。出来ない者はデモだけに参加、出来る者は座り込みを行うが、その際には必要な法律知識を記した文書を事前に配布する。委員会が運動を計画するが、参加者に組織(百人委員会)への盲従を強いるのではなく、参加者の自主性を最大限に尊重する(座り込むか否かは個人の判断に委ねる)。必要とされる知識や支援策は委員会が用意し、個人の負担を軽減、運動の指導と参加者個人の自主性とが調和するよう配慮する(註46)。
「せきとめる会」の運動は明確な敵や目標(安保時の岸信介首相や、強行採決で踏み躙られた議会制民主主義再生という大義名分)の喪失した状況の中で、個人の自主性・自発性に支えられた運動を軸に広範な運動の展開を目指すものであった。しかし、それは必ずしも運動の「成功」を望むものではなかった。従来の運動に顕著であった効果主義(デモの動員数や選挙での得票数の多寡を以て運動の成果を判断する考え方)を越え、「参加者一人ひとりが、自発的な責任もった『市民』として運動するということが、『政防法』を阻止するという目的と同時に重要」なのであり、参加者が運動の意義を自覚し、運動を通じて自己のありように変化をもたらすことこそがこの運動の目指すものであった(註47)。動員数や得票数など目に見える結果で勝ち負けを判断しないというそれまでにない運動のありかたは、それを提起した高畠通敏の言葉を借りれば「不敗の運動」の実践であった。
「たとえ小規模でもできるだけキッチリと設計されたものにしたいというのが私たちのねがいである。もし、私たちさえもが目前の政治的効果にとらわれて、応急の『現実的』運動をくり返すならば、すでに多くの人たちにとって常識となっている日本の政治的体質からくるさまざまな『悪循環』を断ち切る芽はどこに生まれうるだろうか。」
「私たちが自らの力と責任でそれなりの運動をなしとげることができるならば、私たちはふたたび六月のような(盛り上がりを欠いた革新党派主導の運動で感じたような:括弧内引用者)敗北感に苛まれることはないだろう。今の日本にとって何よりも必要なのは、まさにこのような意味での不敗の運動を築くことなのだ。」(註48)
効果主義・結果主義で勝ち負けを判断せず、一人々々が抵抗の意思表示を行える運動を実践する。「せきとめる会」が提起した個人原理を徹底した運動のありかたは、百人委員会などの海外の先駆的運動を参照しながら抵抗・不服従という行為に内在する思想的意味を実践を通じて参加者一人一人に問い掛けるものであった(「完全に合法的で安全で誰でも入れるデモをする」というようにあくまで合法性の枠内に止まるものであったが)(註49)。それは従来の政治参加のありかた(保守か革新かを争点とするような政治参加)への挑戦であり、その理念や行動原理は後のべ平連にも響きあうものであった(註50)。
それまでにない運動の実践を目指した「せきとめる会」であったが、その活動は出発から二ヶ月足らずで休止に追い込まれる(一九六一年一一月三日を以て休会)。情宣活動を行ったにも拘らず、「行動デー」である一〇月二二日の集会・デモには他の市民組織や一般からの参加者はほとんど見られなかった。そして運動の一大目標としていた「市民単独によるデモ」に参加したのはわずか三〇名で、その数は結成集会への参加者六三名の半数にも満たない数であった。「成功・不成功を問わない」とは言ったものの、その結果は「敗北」に等しいものだった(註51)。
政防法のわかりにくさや革新勢力主導の運動の盛り上がりのなさなど、反対運動全体の沈滞ムードがそこに影響したことは間違いないだろう。運動の組織化を急ぎ過ぎたということや、安易に「著名な市民主義者や文化人の力添えをあおぐ」という姿勢も至らなさとして指摘することが出来るかもしれない(註52)。しかし運動の基本原理に照らし合わせてみるならば、個人参加を重視する組織原理の限界、すなわち参加者は全くの平等であるが、同時にあらゆる行動に対し参加者自らが全責任を負わねばならないという原理が受け入れられなかったことが、「せきとめる会」の「敗北」の原因だったのだと言えよう。
機能的ではあるが指導・非指導関係を前提とせざるを得ない従来型の階層組織に対し、全く違うスタイルを目指したのが「せきとめる会」の運動であった。しかし、自由だが厳しいその行動原理(参加は自由だが片手間の参加を許さない)はこの段階では多く人々に受け入れられるものではなかった。「せきとめる会」で期待された個人の主体的参加による運動の実現は一九六五年のベ平連の登場まで待たなければならなかった(註53)。
3運動の再考:市民的不服従の運動
「せきとめる会」の活動停止以降、声なき声の会の活動は停滞していく。国民会議は政防法反対運動終了後完全に活動を停止し、安保時に誕生した市民組織の多くもこの時期次々と活動停止に追い込まれていった(毎号掲載されていた『たより』での各地の市民組織紹介も一九六二年以降徐々に見られなくなっていく。理由は連絡の途絶と推測される)(註54)。デモすら出来ない状況の中で、声なき声の会は毎年六月一五日の集会と『たより』の発行とを細々と続けるだけとなる。しかし、それさえもままならなくなっていった。
『たより』は第三種郵便物認可を受け郵送コストを抑えていたが、認可を維持するには定期刊行を続ける必要があった。一九六三年初めまでは隔月発行を続けていたが、以後は発行自体困難になっていった。資金不足(購読料未納やカンパの減少)や原稿の集まりの悪さ(『たより』は寄稿が原則、原稿が集まらなければ発行不可能)が原因と推測されるが、第三種郵便物認可取り消しは資金面で運動を圧迫し、『たより』発行を更に困難にするものであった。定期刊行維持を図ろうとしたが三一号(一九六三年七月二〇日発行)を以って第三種郵便物としての刊行を断念せざるを得なくなる。それからおよそ一年、『たより』は休刊状態に陥ってしまう(註55)。
特定の場(居住地・地域)を持たない声なき声の会にとって『たより』は単なる機関誌ではなく、各地に散らばる参加者を結び付ける唯一の手段であり、運動の中核的な機能を担うものであった。(註56)。『たより』休刊は参加者相互の結び付きを弱めることであり、運動の存続を脅かす深刻な事態であった。声なき声の会は一九六二年以降長い沈滞の時期を迎える。それは運動にとって危機的な状況であったが、一方で自らの運動のありかたを根本から問い直す機会ともなった。
「敗北の大状況の中で、民主化のための活動が数量の上でふえてゆくことをなおも期待しつずけて(ママ)失望するということが『声なき声』の参加者の中に残っているのではないか。」(註57)
一九六二年以降『たより』では「敗北」という言葉が目立つようになる。「せきとめる会」以降、運動が停滞して行く中でその状況を突き破り、六〇年安保のような高揚を再び得るための方策が『たより』上でも盛んに論じられている。しかし、有効な打開策を見出だし得ないまま活動は沈滞していく。運動の高揚が望めない状況の中、声なき声の会は「敗北」を認めることから出発せざるを得なくなる。そしてそれを通じて運動の原点を見詰め直すこととなる。それは「五・一九を認めない」ということを再確認する過程であった。
「一九六〇年五月十九日、議会政治が踏みにじられた日。怒りと絶望に震えた日を私は決して忘れないのだ。」(註58)
「五・一九を認めない」ということの内容は強行採決という議会制民主主義を踏み躙る行為を認めないということであり、反対勢力を有無を言わさず圧倒する強権的な政治手法を認めないということであった。「民主主義擁護」を叫び、岸内閣総辞職と国会解散を求めた五月一九日以降の運動の高まりはそのような心情を反映したものであった。だが、安保の運動は急激な高揚をみた後、急速に後退してしまった。収束後にあって尚も「五・一九を認めない」ということに存する意味は、五月一九日に顕在化した民主主義の危機が未だ去っていないことを改めて認識することであり、総選挙や内閣交替、国会正常化といった既存の政治秩序の回復だけで事態が収束していないことを自覚することであった。
「一九六〇年の体験は決してあの時点で終熄してしまったものではなく、いつどこでも生み出されるものであり、それを安定ムードの市民の胸から引き出しよみがえらせることが、『声なき声』の大きな役割だと思います」(註59)。
それは「五月十九日のやり方をズルズル認めてしまわない」こと、運動の波が引いてしまった状況で「ズルズル認めてしまわない」ことに改めて思いを致すことでもあった。
「いつか、私たちの子供に〃あの時みんなどうしていたの〃と
きかれてもはずかしくないことだけはしておきたい。
五月十九日のやり方をズルズル認めてしまわないために
国会をすぐ解散して白紙にもどしてもらいましょう。」(註60)。
これは一九六〇年六月一一日のデモの際に配られた散文詩「誰でも加われる〃声なき声〃の行進」(安田武・高畠通敏作)の一節であるが、「ズルズル認めてしまわない」という認識は強行採決を拒否する意志の表れであるとともに、その後に訪れた既成事実への屈服を拒否する決意表明であった。手段はどうあれ一度成ってしまったことに異を唱えない。新安保条約が成立し、内閣も交替した以上、殊更抵抗するようなことはしない。「五・一九」を拒否する精神はこのような考え方を拒否すること、すなわち既成事実に屈服し、日常性に回帰することを拒絶するものであった。しかしそれは個人の倫理の問題だけに帰着するものではなかった。その精神の根底にはかつての戦争体験があった。
「私の場合、根本にあるのは戦争体験なんです。戦争がはじまって以来ズーッと状況に押し流されていったときのあの感じ。あれが私の原体験で、もう二度と押し流されまいという気持ちが、声なき声をよりどころにしてゆきたいということの底にある」(註61)。
強行採決という強権行為は戦争の記憶の蘇りを促すものであった。それは状況に流されていくことへの恐怖、事態をズルズルと認めてしまうことで悲惨な敗戦を招いてしまった過去への痛切な反省の念を呼び起こすものであった。運動が沈滞し、大規模な大衆行動が望めない状況の中で声なき声の会は目標を「反戦」におき、「戦争体験」を見詰め、それを記録していくことを自らの課題として打ち出すようになる(註62)。
「わたしたちは、四年前につくりたした(ママ)市民運動のよき遺産に十分自信をもち、これが大状況の動きに支持されない期間が相当ながく続くあいだ、守りつずけたい(ママ)。この運動の形が、四年前の安保闘争の時とおなじように、一日ごと、一時間ごと、いや数分ごとに流れるもののようにひろがりのびてゆかないからと言つて、この運動の形そのものに信頼を失う理由はない。」(註63)
運動が沈滞の度合いを深めていく中で六〇年安保に敗れてしまったという現実を直視し、その現実の中で新たな運動の核を保存し、育成することの必要性が自覚されることなる。敗北の状況の中で来るべき闘いのための行動の核を確立する試み、それが声なき声の会の運動であった。そのために『たより』で政治的な提言(「状況論」)とともに、安保の記憶や戦争体験の記録(「根になるもの」)、自らの実感や生活体験を記録すること(「日録」)が重視されることとなる(註64)。声なき声の会はある種の「生活綴方」運動(安保体験、そして戦争体験を見詰める「生活綴方」)としての性格を併せ持っていくこととなる。
「骨はない。切れれば切れたところで、もう一つのクラゲができる。一つ一つをつかみ出して岸にほうり上げれば蒸発してあとものこさない。けれども、かたまつて(ママ)海流のなかにあれば大きな船のスクリユウを止めてしまう。硬骨魚たちは船が近づくとにげてしまう。そして死ねば硬骨魚は骨をのこす。骨はくさつて(ママ)変なにおいがする。クラゲのたよりなさ、クラゲの美しさ・クラゲの力を、私たちはばかにしていたことを反省しました。」(註65)
これは声なき声の会を評した松田道雄(小児科医・文学者)の言葉である。「クラゲ」は硬骨魚(組織化された運動)のようにしっかりした骨(組織や綱領)もなく、存在しているのかどうかさえはっきりしないが、わずかな体の一片(それは運動をする個人であり、その個人を行動へと駆り立てる批判精神)さえあれば、また「クラゲ」として再生する。硬骨魚にはなれない「クラゲ」(組織化を拒否し、規約もなく、議決もしない運動)として運動を続け、敗北の状況の中で生き残る。そして一度事が起これば再び立ち上がる。この小さな「クラゲ」はやがて一九六〇年代後半のベトナム反戦運動の高まりの中からベ平連という大きなうねりを生み出すこととなるのであった。
三 ベ平連の登場
1 市民運動の転回
ベ平連は一九六五年の北爆によって誕生し、一九七三年のパリ和平協定締結を以てその活動に終止符を打った(註1)。誕生から終焉までのおよそ一〇年、ベ平連は全国に広がり、各地で多種多様な反戦活動を展開したが、それらは地域ごとに独自の内容を持ち、反戦という一語では語り尽くせない多様性を有するものであった。それは冒頭でも述べたようにベ平連が単一の運動ではなく、運動の潮流と言うべきものであったからに他ならない。
ここで十年の運動の軌跡を網羅することは出来ない。本来は地域性を踏まえて複数事例(各地の「ベ平連」の活動)を検討し、その上でベ平連総体の特質を言わねばならない。あわせて運動の成員の多様さ、それが意味する思想の多様性(知識人の多様性のみならず、全共闘や反戦青年委員会とベ平連の相関性)の分析も行っていかねばならない。以上の点を自覚しつつ、今回は本論の冒頭でも述べたように問題整理の意味から市民運動の側面の分析が中心になる。そしてそれは東京を中心に見たベ平連像、厳密には『資料・「ベ平連」運動』(註2)に基づくベ平連像の素描となる(註3)。
ベ平連は六〇年安保の際に生まれた声なき声の会を苗床とし、五年前の声なき声の会と同様デモ行進によってその第一歩を踏み出した。第一声は次のようなものであった。
「私たちは、ふつうの市民です。ふつうの市民ということは、会社員がいて、小学校の先生がいて、大工さんがいて、おかみさんがいて、新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している少年がいて、つまり、このパンフレットを読むあなた自身がいて、その私たちが言いたいことは、ただ一つ、『ベトナムに平和を!』」(註4)。
ベ平連は新たなリーダーとして白羽の矢を立てられた作家の小田実(註5)と声なき声の会が呼び掛けたデモを切掛けとして誕生したが、それは声なき声の会の精神、行動原理を継承するとともに、市民運動という運動を量的にも、質的にも転換させるものであった。
「規約があり、入会申込書や会員制度、あるいは会費がある団体ではないのです。それはベトナムの平和のために行動する人びとの集まりなのです。ベ平連の集会に来る人、デモに参加する人、カンパする人、反戦広告の募金にお金を出す人、『ベ平連ニュース』を読む人、そういう人すべてが、一人一人『ベ平連』なのです」(註6)。
規約も会員も持たず、議決もしない。「ベトナムに平和を!」、「ベトナムはベトナム人の手に!」、「日本政府は戦争に協力するな!」の三つの目標に向かって各々が自分の出来ることを行う。一人でもベトナム戦争に異を唱え、行動するならばそれが「ベ平連」となる(註7)。ベ平連の行動原理は「私」の立場での参加を求める「個人原理」であり、個人が組織に埋没せず、自発性、自主性に基づいて行動することを大前提とするものであった。
ベ平連の正式名称は「ベトナムに平和を!」市民連合であるが、出発時は「市民・文化団体連合」であった(註8)。ベ平連は当初六〇年安保以来続く市民運動や各地に点在する「自発的な平和行動のグループ」のための「連絡センター」役を担おうとしていた(註9)。これは六〇年安保当時、各地の市民組織間の「連絡役」を買って出た声なき声の会と共通する姿勢であり、総評や政党のような強固な組織でない様々な団体を包みこんだ緩やかな連合の形成を意図するものだった。だが「市民・文化団体連合」であるベ平連にはそれらの団体にも属していない多数の個人が参加していた。団体、組織のゆるやかな連合の狭間で組織という枠組に捉われない無数の人々がベ平連に集い、自らを行動へ駆り立てていた。それは参加者一人一人が運動を組立てていく個人原理の実践に他ならなかった。ベ平連の歩みが進んで行くうちに個人原理が運動の全面に打ち出されるようになり、出発から一年半後の一九六六年一〇月、ベ平連は名実ともに「市民連合」へと転換する(註10)。
ベ平連は一九六七年以降広がりを見せるが(註11)、各地での「ベ平連」の成立事情は地域性もあって類型化することは難しい。機関誌『ベ平連ニュース』(創刊一九六五年一〇月二三日〜終刊一九七四年三月一日、通巻一〇一号)購読者同士が連絡を取り合い、各地に「ベ平連」が結成されるというのが一つのパターンであるが、東京からベ平連の関係者が出張し、結成に至るという例も見られる(註12)。しかし、その広がりは活動家による「オルグ」の結果ではなく、各地での自然発生的なものであった(註13)。
代表的な活動としては開始直後から行われていた月一回の定例デモ(毎月第四土曜日に東京・清水谷公園に集合。運動終了まで通算九七回)(註14)などがあり、このスタイルは後に広まって各地で独自の定例デモが行われることとなる。だが東京を中心に見た場合、出発後の一年間はマスコミで大きく取り上げられるような派手な活動(イベント)が多い。
代表的なものでは一九六五年八月一四日深夜にテレビ中継されたテイーチ・イン「徹夜討論会 戦争と平和を考える」(註15)や『ニューヨーク・タイムズ』への反戦意見広告の掲載(註16)などがある。その活動は既成の運動などからは「文化人頼りの運動」と揶揄されていたが、文化人が用意した図式に自らを当て嵌めるだけで(つまりは募金をしたり署名したりするだけで)、運動参加による不都合も不利益も何等心配する必要がないという点では確かに片手間でも出来る気楽な運動であった。だが、そのようなスタイルも次第に変化を見せることとなる。
ベ平連が大きな変化を見せるのが一九六六年以降であり、そこに至るまでの一年の間にベ平連の個人原理と市民的不服従の行動が確立されたと考えられる。それには「全国縦断反戦講演旅行」(註17)といったイベントの効果(宣伝効果)や小田実など運動を代表する知識人・運動家の影響も少なからずあったと思われるが、それとともに「ふつうの市民」による運動という旗を掲げたベ平連の行動の質が従来の運動とは異なるものであるということが定例デモなどの地味な活動を通じて参加者に気付かれていったのだと考えられる。それは以下のような一般参加者の発言から垣間見ることができる。
「(一九六五年一二月二五日東京の定例デモは:括弧内引用者)今まで僕のみてきたデモとは訴える目的は同じでも質(訴え方)はだいぶちがっているように思えます。(中略)デモを終わって考ついたことは『希望するだけではいけない、その目標達成の為に現在、可能な範囲の最小な事柄をなしとげなくてはいけない』ということです。僕はただ現在の社会に不満をいだいて、ただ『あんなことをしてはいけない』『ああすべきなのに』等とただ希望するだけでした。しかしそれは誤りであることがいくらか分かったように思います。希望することは良いことだと思います。しかし希望するだけで何もしていない自分を発見しました。(中略)何故、望むだけ望んでそのことを目標にして現在我々の可能な範囲の行動を起さなかったのでしょうか。望むだけなら誰にでもできます。今、我々にとって重要なことはその目標に到達するための現在、我々にとって可能な小さなことを着実に終了していくことではないでしょうか」(註18)。
何より先ず行動を起こし、「目標達成の為に現在、可能な範囲の最小な事柄」に取り組んでみる。トータルな解決法が無いことを嘆いて行動を押し止めてしまうのではなく、現在の自分に可能なことを自力で発見し、それを成し遂げるための行動へと自らを駆り立てる。「我々の」や「我々にとって」といった表現も見られるが、ここには与えられた理念と統一された指導の下への参加を自明とした従来の組織的運動とは異なるベ平連の「質」、全ての行動の原点は個であり、それぞれの自立性、自発性であるということへの気付きがある。そしてその「質」がベ平連の中で明確に打ち出されたのが、以下に述べる「日米市民会議」の場においてであった。
「ベトナムに平和を!日米市民会議」と銘打たれた会議は一九六六年八月一一日から一三日までの三日間、東京サンケイ会館で行われた。日本側六一名(小田実・開高健・久野收・桑原武夫・鶴見俊輔・日高六郎・丸山眞男・安田武等)、アメリカ側九名(公民権運動家ハワード・ジンや反戦運動家デイブ・デリンジャーなど)、その他にオブザーバー一七名(イギリス、インド、ソ連、フランスなど)総勢八三名が参加、一四日には会議の報告を兼ねた「大衆集会」が聴衆一六〇〇名を集め行われた(註19)。
会議は「二国間の政府の意志だけの問題ではなく、市民の間での連帯を基礎とした日米両国の新しい関係をつくりだす歴史的な第一歩となること」(註20)を意図し、ベトナム戦争を推進する日米両政府に対して両国「市民」の立場から抗議し、日米「市民」の連帯によってベトナム戦争を中止に追い込むことを目指すというものであったが、同時に意思疎通が十分でない日米の反戦運動家が相互理解を深める場(アメリカ側が安保条約の存在など日本に対しての認識を深めるなど)となることも期待されていた(註21)。三日間の討議で互いの運動を取り巻く状況が明確にされ、連帯を進めていくための方策が話し合われた。最終日には会議の成果として「日米反戦平和市民条約」、「日米市民へのよびかけ」、「ベトナム平和のための行動」の三つの文章が採択された。
この会議で先ず注目すべきは小田実のいわゆる「被害者=加害者の論理」が提起されたことである。少々長くなるが、以下の小田の言葉を見ておきたい。
「ベトナム戦争の残虐行為の写真を見ると、そこに出てくるのは、まず、かわいそうな被害者の姿である。しかしそれだけではなくして、私の目に出てくるのはその残虐行為を加えている手です。その手の姿が私の目に現れてくる。その手はひょっとすると自分の手であるかもしれない。(中略)国家が私の意思に反して、鉄砲を撃てと命ずる。その場合に、私がはっきり拒む態度を持っていなかったならば、自分は弾を撃つだろう。そして弾を撃つことによって、自分で自分の原理を踏みにじることによって、私は国家に対して被害者となる。しかし同時に、その倒れた人に対しては私は加害者の立場に立つ。そういったメカニズムをわれわれはここで認めまず。私はここで認めます。そういったメカニズムをはっきりとした形で示してきたのは、このベトナム戦争であると思います。」
「日本というものはアメリカに対しては被害者の立場に立っているかも知れない。アメリカに対して強力なことを言うことができない、日本政府はそんなふうに考えているかも知れない。そうすると日本はアメリカに対して被害者の立場に立っている。しかし同時にそのことによってベトナムに対しては加害者の立場に立っている、そういうことが言えます。そして日本国内では、日本人民は国家と個人の関係においては、われわれは被害者の立場に立ち、そしてさまざまの形で、直接、間接に国家に協力せざるを得ないところに追い込まれていて、そのことによってわれわれはベトナム人民に対して加害者の立場に立っている。そういうような奇妙な連鎖反応というものを起しています。こういうようなことを、われわれはここではっきりと断ち切らなければいけない。」(註22)
ベトナム戦争を推進するアメリカ国家や日米安保条約を根拠に戦争に協力する日本国家に対しては被害者であるが、その被害者の立場に甘んじることによってベトナムへの加害者となっている日本人の矛盾した姿とそれを生み出す「メカニズム」。その「メカニズム」・「奇妙な連鎖」を「断ち切らなければならない」という認識を基礎に以降のベ平連の運動は進められていくこととなり、その点からもこの会議は運動の一つの転機として位置づけることが出来る。しかし、それとともにここで注目すべきなのは「日米反戦平和市民条約」(以下「市民条約」)の「締結」である。
「我々は日米安全保障条約によってアメリカと結びつけられている。とするならば、アメリカとの結びつきというものを、もう少し我々の側から考えてもいいのではないか、民衆の側から考えてみてもいいのではないか、つまり、安全保障条約に対して我々民衆の間の安全保障条約、民衆の安全を守る為の安全保障条約というものを勝手に考えてもいいんじゃないか、そういうことも考えたわけです。」(註23)
「市民条約」は小田が市民会議に先立つ「全国縦断講演旅行」において提起したものであるが、それは日米政府が締結した「日米安保条約」に対抗する「市民による安保条約」とでも言うべきものであった。「民衆の間の安全保障条約」をイメージしてつくられたこの「市民条約』で特筆すべきは国家同士の契約である「条約」を「市民」が結ぶという奇抜な発想(諧謔の精神)だけではなく、「条約」の主語が「私」だということである。
「私は、この条約に署名します。そして、私は、正義と、自分の良心を犯すことを拒みます。ベトナム人の生命を奪う行動に協力することを拒みます。また、あらゆる国の人間が自身の運命をえらびとる権利を認めます。私は、つぎのことのうち、いずれかの行為を、できるかぎり多く行ないます。また、私は、そのことで、隣人、知人にも強く働きかけます。私は、つぎのこと以外にも、考えつくまま、なんでもやるつもりです」(註24)。
「条約」の主語は署名する主体を指す。それは「条約」全文を貫く「私」である。「市民条約」は、「条約」というよりも「誓約」に近いものだといえる。それは署名する「私」がベトナム戦争に反対すると決意表明し、戦争を止めさせるための行動へと自ら駆り立てる「誓約」であった。そのことの意味を小田は次のように述べる。
「私の考えているのは、各個人が条約を結ぶということです。各個人が自分の責任の領域のなかで条約を結ぶということです。それは各個人に責任を課します。つまり国家が条約によって拘束されるように、個人もまたその条約によって拘束される。そのことを私はここで考えていきたい。国家が条約によって拘束の義務を受けると同時に、またそれは権利として働く。同じように人民同士がみずから条約を締結する。それは義務として働くと同時に、また彼の権利として働く。」(註25)
「誓約」に基づく行為は、何よりも先ず「私」を出発点として行われるべきものである。ここにはベ平連の個人原理、全ての行動の原点は個人であり、それぞれの自立性、自発性に基づいて運動が行われるべきだという姿勢が表われている。しかし、それは個人の姿勢(個人倫理)だけに収斂するものではなく、運動のありかたそのものに関わるものであり、以下の発言にも見られるように一般の参加者にも強く認識されていた。
「今までのベ平連の運動はその結びつき(反戦感情、厭戦感情を媒介としたベトナムに縁のない人々とベトナムとの結び付き:括弧内引用者)を作るという段階、市民的反応を要求する段階でおわっていたのではないでしょうか。結びつきの後の持続性、方向性は各個人にまかせて、後はうっちゃっていたようなきらいがあります。これは今までの呼びかけやベ平連ニュースの文を見ても、主語に<私たち>という複数形を使っていることに象徴的だと思います。単なる市民という不特定多数としての結びつきを目指して、その中の個人の方向性はあなたまかせにしていた一つのあらわれがここにあると思います。(中略)そんな状況の中で日米市民会議が開かれ、日米反戦市民条約などが締結されたのです。ここで私達は市民条約の文章の主語が<私たち>という複数から<私>という単数にかわったということに注目しなければならないでしょう。主体とも結びつく主語の変化は、今後の平和運動の新しい方向性を示しているように思われます。」(註26)
安易に<私たち>の運動を求めるのではなく、<私>から運動を出発させ、それを基礎に<私たち>の連帯を模索する。市民条約の「私」という主語は「私たち」(「われら」)を主語とする運動ではなく、「私」と「私」の連なり(「われ=われ」)の運動を目指すベ平連の姿勢を明確化したものであった。同時にそれは国家というものに不信の念を抱き、それに対する不服従の行動を実践することを宣言したものでもあった。
この「条約」に署名した「私」は条文に明記された「いずれかの行為」を出来る限り行うことを求められるが、その「いずれかの行為」とは以下の通りである(註27)。
一、核兵器・化学兵器・ナパーム弾等の大量殺戮兵器の開発・使用に反対し、拒否する
二、戦争をあおるような教育や宣伝活動に反対し、拒否する
三、全面軍縮の第一歩としてアジア地域のアメリカの基地撤去のための行動を実践する
四、日米軍事同盟とアメリカの沖縄支配に反対し、同盟と支配を終らせるめに行動する
五、その他デモ、集会、ストライキ、すわりこみ、選挙を通じベトナム戦争に反対する
この実践内容から浮かび上がってくるのは戦争を推進する国家への強い不信の念であり、それに対する対決姿勢である。ベ平連が目指すのは何よりも先ずベトナムでの戦争を停止させ、ベトナムに平和をもたらすことであるが(三大目標の一つ「ベトナムに平和を!」)、それにはただ「反戦」を叫ぶだけでなく、戦争当事者であるアメリカ政府を批判せねばならない。そしてそれは同時に、アメリカに協力する日本政府に批判の眼を向けることにもならなければならない(「日本政府は戦争に協力するな!」)。「私」から出発したベトナム戦争との対決は、その戦争を生み出す「国家」との対決へと進むこととなる。
ベ平連出発時からの有力な活動家であり、会議にも参加していた鶴見良行(評論家・当時国際文化会館職員)の言葉を借りれば、「市民条約」は「基本的人権の思想によってではなく、むしろ市民的不服従の運動を国際連帯にむすびつけたところにスタイルの新しさがあった」ということになる。そしてそれをベ平連が打ち出したことは「諸国家の市民が、国家権力あるいは国家権力の同盟に対抗して横に連帯するという運動の構想は、それが当然にふくむ、すべての国家権力にたいする強い不信の念によって新しさをも」つものであり、「すべての国家権力にたいする強い不信の念によってこそ、ベ平連の反戦平和運動は、他の既存の運動とは区別される新しさをもつ」ことを意味していた(註28)。
これはベ平連が運動の対象をベトナム戦争に限定してはいるが、批判の眼を戦争を生み出す国家権力に向け、戦争を生み出す国家同士を結び付ける安保条約に(そしてアメリカ軍による沖縄統治にも。前掲「条約」中の「いずれかの行為」第四項を参照)その眼を向ける運動になりつつあることを物語っている。実際これ以降の活動は国家や安保条約との対峙を意識させられる局面が数多く見られることとなる。
「市民条約」での個人原理の宣言によってベ平連は無数の「私」の連なりである「われ=われ」の運動を目指す姿勢を明確化し、「文化・市民団体連合」から「市民連合」へと転換することとなる(註29)。この会議以降ベ平連は全国へと広まり、それまでのイベントやデモだけでない多様な行動が生まれる。それは市民的不服従の実践とその広がりであった。
2 市民的不服従のひろがり
ベ平連出発当初のベトナム戦争観は以下のような言葉に代表されていると思われる。
「戦争中から戦後にかけて食べる事のみ追われ人間でない様な生活をして来た私どもは、今の若い人よりも戦争のみじめさ、恐ろしさは身にしみております。あの頃には小さな声でも戦争に反対といえませんでしたが、今度はベトナムのこともよくわかり、事に日本はアメリカの基地にされそうで何時大きな戦争に巻き込まれないかと心配なので、何かの形で戦争に反対し平和を望む事の意思表示をしたいと思います。」(註30)
これは二〇代の子を持つ主婦が、先述した一九六五年八月一四日深夜のティーチ・インの中継を見て寄せた感想の一節であるが、ここには自己の戦争体験を基礎にベトナム戦争を認識しようとする姿勢が見てとれる。それは戦争被害者として戦争に対し、再びそれに巻き込まれないために反対するという姿勢である。しかしベ平連の運動の深まりは他者の行う非道を諫める、または巻き込まれることへの恐怖から戦争に反対するということだけではすまされない状況を浮かび上がらせることとなる。そこでは自らも加害者であり得る状況が進行していることへの気付きがなされ、行動にもその認識が反映されることとなる。
「日本にもヴェトナム(ママ)戦争があります。政府は、日本が、もはや中立の立場を取るべきではないと用心深く言い出しました。資本家はこの戦争によってお金をもうけています。日本の幾つかの工場では、どんどん軍需品が造られ、ヴェトナムに送られています。飛行場や港には、巨大な人殺しの機械が修理に来ています。(中略)わたしたちは、このことを考えるにしろ、考えないにしろ、(戦争で利益を得ることを:括弧内引用者)歓迎しているのです。わたしたちはみんな加害者なのです。そこで、反戦非暴力直接行動委員会は、みなさんに提案します。今こそ行動すべき時です。わたしたち委員会は、これまでハノイ、ハイフォン地区の爆撃に抗議して、三度アメリカ大使館の前にすわりこんだことがあります。この行動は緊急の事態に応ずるために、無届けで行われました。ですからこれは非合法な行動であったわけです。わたしたち委員会は非合法なデモを否定しません。」(註31)
これはベ平連有志によって結成された反戦非暴力直接行動委員会(別名「非暴力反戦行動委員会」、以下直接行動委員会)による声明の一節である。この組織は一九六六年二月に作成されて密かに回覧された「よびかけ」(註32)に起源を持ち、文芸評論家の栗原幸夫(後の脱走米兵支援組織JATECの中心的活動家)を責任者に(註33)、鶴見俊輔などが参加していた。
直接行動委員会は「非暴力直接行動」を通じて反戦行動を行おうとする集団であり、ベ平連と同様に組織や会員を持たず、会の趣旨に賛同する人間が自由意思で参加するものであった。直接行動委員会の最初の活動は一九六六年六月三〇日に前日の北ベトナムのハノイ・ハイフォン地区爆撃に抗議して鶴見や市井三郎など七名が行ったアメリカ大使館前への座り込みであり、その際には座り込んだ直後に機動隊に排除され、警察署に連行されている(連行後すぐに釈放されたが、同日夕方にも一五名が座り込みを行っている)(註34)。
声明に「非合法なデモを否定しません」とあるように直接行動委員会の姿勢は「法を犯すことも辞さない」というものであった。しかしそれは暴力肯定を意味するものではない。北爆拡大など事前には想定し得ない「緊急の事態に応ずるため」に行う処置であり、合法的抗議行動(七二時間前の届出を要するデモなど)では対応出来ない場合に止むなく行う「非暴力」に基づく「直接行動」であった。このスタイルは基本的には前章で触れた百人委員会から学んだものであり、合法活動と非合法活動との複合させた運動であった(註35)。
法を破ることで自らの反戦の意思を確認する。国家が非人間的で理不尽な行為を行っている場合には敢えて「法」を犯すことで「不法」な国家を糾弾する。ここには国家の提示する「法」を「法」であるというだけで自明のこととして受け入れるのではなく、自らのおかれた状況からその妥当性を問い直すという原理主義的姿勢がある。しかしそれを実践することは政治的効果を期待出来るものではない。鶴見俊輔の言葉を借りればこの行動は「自分の反射を新しくするだろうという期待」に基いてなされるべきものであった(註36)。
「反射」は本来生物学用語であり、刺激(外的要因)に身体組織が無意識的に反応する現象を指す言葉であるが、ここでの「反射」とはベトナム戦争や北爆といった「刺激」によって個人が反戦意思の表明や反戦行動の実践などの「反応」を起こすという内容を持つものだと言えよう。戦争という行為を目の前にした時、それに反対することが出来るか。そして反戦行動の実践へ踏み出すことが出来るか。これはある意味個々の姿勢、個人倫理に帰着する問題であるが、その「反射」は「無意識的」に起こるものでなければならない。そこには勇気の有無や知識量の多寡といった「意識的」な要素は必ずしも関係ない(勇気や知識があるに越したことはないが)。これは知識の上では国家に反対し得ても行動ではそれを貫徹し得ず、結局は権力に屈服してしまって戦争(十五年戦争またはアジア・太平洋戦争)を防ぐことが出来なかった日本の知識人のありかたへの痛切な反省から導き出されたものであった。
「知識をもち、状況についての見通しをもつ人が、かならずしも状況打開のための行動をおこすものではないことをまず確認したい。私は、自分の戦争下の記憶をほりおこして、そのことを自分について確認する。私は第二次世界大戦での日本の立場が正しいと思ったことはなく、日本が負ける以外の終末を考えることはできなかったが、同時に、戦争反対のための何らの行動もおこすことはしなかった。(中略)それは知識の構造に欠けたところがあるためではなく、肉体の反射の問題だ。『思想』という言葉を、知識だけでなく、感覚と行動とをもつつむ大きな区画としてとらえるならば、それは思想の問題だ。知識としてはひろくこまかく正しくて、思想としてはもろい存在というものがある。」(註37)
これは鶴見自身の戦争体験から導き出されてきた述懐であるが、知識を持つことが即、行動を生み出すものではないということへの気付き、その知識がいかに精緻であっても、感覚と行動が媒介されることがなければ強固な批判精神が生まれてはこないという認識がそこにある。思想というものを知識だけではとらえきれない感情や心情(または生活実感)を包み込んだものとしてとらえようとする鶴見の姿勢が反映されているが、ベトナム戦争はそのことの意味を再認識させられた場であった。
鶴見自身、非暴力直接行動が戦争反対の唯一の方法だと考えていたわけではなかった。反戦行動には直接行動委員会のような行動もあり得るし、反戦意見広告や代案主義(戦争を止めさせるための政策の提起)もあり得る。有効だと考えるあらゆる行動を行うべきだとしている。しかし、その有効性の基準を政治的な効果の有無に置くことはしない。非暴力直接行動は政治的効果の有無を論ずる以前に、批判精神を持つことを重視するものであり、その実践は自らの内に批判精神を生み出す、またはそれを強める(「反射を新しくする」)「知識と感覚と行動とをつなぐ回路」(註38)を作り出すための一つの方法論であった。
日本の加害性を自覚したとき、アメリカを批判するだけでは済まされなくなり、自らの問題としてベトナム戦争をとらえる視点が獲得される。そしてそこから新たな行動が生み出される。「非合法」であることも厭わない非暴力直接行動は政治的な効果は期待出来ないささやかな行動であったが、運動を行う個人の内面に変化をもたらす(変化を要求する)ものであった。それは同じイギリスの百人委員会に範を求め、政治的効果に左右されない「敗北しない運動」を目指した「政防法をせきとめる会」が合法性に拘ったのに対して、合法という枠を破った点で市民的不服従の運動が新たな段階に踏み込んだことを示すものであった(註39)。そしてそれは直接行動委員会だけに限られたものではなかった。
直接行動委員会の視点は市民的不服従の新たな段階を開くものであったが、それをより大規模かつ衝撃的にしたのがJATEC(Japan Technical Committee for Assistanse to U.S. Anti-War Deserters「反戦脱走米兵援助日本技術委員会」以下ジャテック)の活動であった。ジャテックは脱走したアメリカ兵の逃亡を支援する組織であったが、活動の切っ掛けはアメリカ空母イントレピッド号からの四人の脱走兵(通称「イントレピッド・フォー」)との遭遇であった(註40)。
「四人の行動は、日米両国の軍事的結びつきに反対する日米両国人民の反戦、平和の行動の連帯を直接にうちたてました。これを機会に、『日米市民条約』の精神にもとづき、私たちは、さらに、アメリカが現在のベトナム政策を放棄する日まで、両国人民の連帯の行動をさらに積極的に進めていきたいと思います。」(註41)
ベ平連は四人の脱走兵の逃亡を支援し(ソ連経由でスウェーデンに出国)、日本出国後にメディアを通じて公表した。上の文章はその記者会見の席上で読み上げられた声明である。会見から半月後の一九六七年一二月二日ベ平連有志による「イントレピッド四人の会」がつくられ(註42)、それとは別に脱走兵の逃走を支援するジャテックが同じくベ平連有志によって結成された(註43)。両者の関係について説明すれば、イントレピッド四人の会が一般からのカンパ受付けやジャテック機関誌『脱走兵通信』(創刊1969年八月二日〜終刊一九七三年三月二六日。後に『ジャテック通信』と改名)発行など外部との窓口役を果たしていたのに対し、ジャテックは脱走兵の逃亡や潜伏支援を行う実戦部隊の役割を担っていた。以上のことからも両者は別組織ではあるが、活動は一体であったと言える。
ここでジャテックの活動を逐一追って行くことは出来ない。理由はジャテックの全容を掴むことが極めて困難であるからである。ジャテックはベ平連の基本原理を体現した運動であり、会員も規約も持たず、議決もせず、明確な指揮系統も持ってはいなかった(註44)。それは全くの見ず知らずの人間同士の「ヨコの連帯」で成り立つ運動であった(註45)。
『脱走兵通信』という機関誌は存在するが脱走兵を匿うという活動の性格上、全活動を記録していたわけではなく(註46)、活動を統括する組織や人間が存在しない状態で詳細な記録を残すことは事実上不可能であった。『脱走兵通信』などの記録で判然としない活動については、近年になって活動従事者たちの証言や手記を集めた記録集が刊行されているが、それを以ってしてもジャテックの全貌は明らかにはなっていない(註47)。以上の点からもここでは個別具体的な経過は追わずに、脱走兵支援という行動の持つ意味について考えることとしたい。
ジャテックは非暴力直接行動委員会のように「非合法も辞さない」という方針を掲げていたわけではなく、「合法的」活動を常に心掛けていた。『脱走兵通信』各号に掲載されている「法律相談」欄(「JATEC無料法律相談」など)や「脱走兵援助実務必携」などの支援活動に関するマニュアル(註48)からは法の枠内でどれだけ有効な支援活動を行っていけるかに苦心するジャテックの姿勢が垣間見られる(註49)。しかし奇妙なことに脱走兵を匿うという行為自体は法に反するものではなかった。
脱走という行為は明確な軍規違反であり(註50)、ある意味「非合法」であるが、脱走兵を匿う行為は決して非合法ではない。それは米兵がいわゆる「日米地位協定」(日米安全保障条約第六条に基づく「合衆国軍隊の地位に関する協定」)に基づく特別在留資格を有しており、日本の国内法の枠外にいる存在であるからである(外国人登録法、出入国管理令の適用を受けない)(註51)。日本の法律で取り締まれない人間を匿い、その逃走を手助けしたとしても「日米地位協定」に基づく「刑事特別法」の規定により日本人は罪には問われない(註52)。米軍の要請に基づく日本警察による家宅捜索や、「参考人」としての聴取はあり得るが、基本的に日本人が逮捕されることはなかった(註53)。
ジャテックの脱走兵支援は非合法ではなく、一部で言われていたような「地下活動」でもなかった(註54)。しかしそれは無届けデモや座り込みとは違った形で国家権力と対決するものであり、明確な「国家への反逆」を意図した行動であった。
脱走兵の逃走を支援するということは他者に哀れみを掛ける、不幸な境遇にいる人間に同情するというだけで成り立つものではなかった。それは「脱走兵への支援が、国家への反逆への加担であり、国家の原理への抵抗であるとするなら、私たち一人ひとりが、みずからの加担の論理、抵抗の根拠が問われている」(註55)という言葉通り、それぞれが「加担」し、「抵抗する」ことを自覚した上で、戦争を推進するアメリカという国家から脱走した兵士とともにその国家に反逆し、抵抗するというものでなければならなかった。
ジャテックの活動は支援者一人々々に脱走兵の逃亡に加担することの意味を自らに問い、その行為の重さを受け止めることを要求するものであった。しかしそれはアメリカの戦争政策を批判し、脱走によって米軍に損害を与えるというだけで解決する問題ではなかった。何故なら、「四人の若い米兵は、今では、日本が、平和な暮しを送れる国ではないこと、イントレピッド号の艦上とあんまり違わない国だということを知っている」(註56)という事実が日本人に重い課題を突き付けているからであった。
何故脱走兵を支援せねばならないのか。理由は一つには戦争を拒否した脱走兵の居場所が彼等の母国にないからであるのだが、今一つは日本が彼等を受け入れることが出来ないからであった。「日本が、平和な暮しを送れる国ではないこと、イントレピッド号の艦上とあんまり違わない国だということ」とは、脱走兵を受け入れることの出来ない日本の現状を言い当てた言葉であった。脱走兵の多くは当初日本への亡命を希望していたが(註57)、彼等の亡命を日本政府が認めることはない。何故なら日本はアメリカの戦争政策に協力しており、更に言えばその協力の根拠となっている安保条約が存在しているからであった。脱走兵を受け入れられないという事実は日本人に自らの国の現状を再認識することを迫る。それは戦争放棄を謳った平和憲法を国是としながら日米安保条約によってベトナム戦争に協力している矛盾した日本の姿であった。
脱走兵支援はベトナム戦争を推進するアメリカという国家への反逆であったが、それは同時にアメリカの戦争に加担する日本、脱走兵を受け入れない日本という国家への反逆でもあった。そしてその反逆はアメリカへの戦争協力の根拠となっている安保条約を浮び上がらせ、ベトナムへの攻撃基地となっている沖縄を浮かび上がらせることにもなった。
「私たちは、日米安保体制が、あらゆる意味で人間(アメリカ人であれアジア人であれ)の〃人間らしさ〃を圧殺するものであり、それ故にまた、すべての〃人間らしさ〃の反抗によってのみ、安保体制を空洞化させることが可能なのだと信じます。」(註58)
『脱走兵通信』創刊号の「発刊の辞」で語られた安保体制への懐疑、そして「安保体制を空洞化させること」の必要性の自覚は、ベ平連の脱走兵支援開始からおよそ二年の活動を踏まえて導き出されたものであり、それは「反安保」を活動の全面に打ち出すに至ったジャテックの姿勢を端的に物語るものであった。
脱走兵支援によってそれまで抽象的イメージでしかとらえられなかった安保条約にイデオロギーや知識の力を借りずに接近する道筋が開かれた。「日米地位協定」や「刑事特別法」の規定など安保条約の皮肉な恩恵(脱走兵の逃亡を助けても日本人は罪に問われないという意味で)の発見はその一例に過ぎないが、「戦争に使われている安保」を認識することは自らの日常生活の各所に安保条約の産物・副産物が顕在・伏在していることへの気付きを生むこととなり、各地に多種多様な運動を生み出すこととなった(註59)。そこには従来のベ平連にはなかった「変革」という視点が盛られることとなった。それを象徴しているのが一九六八年八月の「反戦と変革にかんする国際会議」であった。
ベ平連にとって二度目の国際会議は一九六八年八月一一日から一三日の三日間、京都の国立京都国際会議場で行われた。会議には日本から二一九名、海外五ヶ国(アメリカ・イギリス・フランス・オーストラリア・ベルギー)から三七名が参加したが、二年前は日米の参加者以外はオブザーバー参加であったのが、今回は全員正式参加であったという点で前回とは異なっており、日米の連帯に止まらない、ベトナム戦争を共通体験とした各国の反戦運動の連帯について話し合いが持たれた(註60)。
国際会議は一九六六年の「日米市民会議」を継承するものとして位置付けられていたが、二年間の活動を通じてベ平連の認識は大きく変化していた。それは一つには今述べたような「日米市民会議」から日米の枠組みにとらわれない「国際会議」に変わったということ、そして今一つは「反戦」とともに「変革」という理念を掲げたということに表われている。
「反戦は反戦、変革は変革、その二つはまったく別なもので、なんの関係もない。関係づけようとすれば混乱が起きるばかりだ、という立場を取りうるかどうかということです。私たちの問題をそのように立てることはおそらくできないでしょう。」(註61)
「市民会議」から二年のベ平連の歩みは非暴力直接行動委員会やジャテックなどの様々な反戦運動への取組みを通じて、「反戦」と「変革」とは分離し得ないということを認識する過程であった。「国際会議」に至るまでのベ平連内部の変化を鶴見良行は次のように語る。
「(ベ平連が三年を経過して:括弧内引用者)どういうふうに変わってきたかというと、何でもない市民だから非常に穏やかなことしかできないんだという考え方が一つあるわけです。つまり形態だけ言えば街頭募金をするということそれ自身は、戦時中に国防婦人会とかがたすきがけで街頭で千人針というものをやっていたことと全然変わらないわけです。しかし、そういうものからややはみ出しているわけです。ベトナム戦争の持っている重みみたいなものが、何でもない市民に対して非常に大きなものになっているという実感が出てきている。だからいままでのような街頭募金とか旗とかちょうちんデモみたいなものだけではだめであった、もっとそれぞれの人が人間としてコミットしていかなければいけない。そのためにはそれぞれコミットしている人間が、結果として法を侵すことになってもいたし方ないのではないか、運動は急進化しているわけです。」(註62)
「結果として法を侵すことになってもいたし方ないのではないか」という認識の変化は「ベトナムに平和を!」という目標を達成するためには戦争そのものに反対するだけではなく、脱走兵たちを受け入れることの出来ない日本の現状、安保条約を根拠に米軍に基地を提供し、様々な便宜供与をしている日本の現状を「変革」することの必要性を認識するに至ったベ平連の変容ぶりを端的に示している(註63)。
会議では日本の反戦運動の直面する課題として「日米安保条約の廃棄」と「沖縄の米軍からの解放」が提起され(註64)、安保条約の有効期限が切れる一九七〇年が反戦運動にとっての重要な指標となることが強調された。「安保廃棄」と「沖縄」がベ平連の取り組むべき課題として明確に打ち出されたのは三年間の活動を通じこれが初めてのことであった(註65)。
「反戦と変革にかんする国際会議」はベ平連の運動が告発の段階から変革の段階に移行したことを告げるものであった。日本のベトナムに対する加害性の告発やベトナム戦争への加担を押し進めるものとして安保条約を告発する声は既に二年前から存在していたが、それ以降の運動の深まりと市民的不服従の行動の進展は「非合法」であることも厭わない「非暴力直接行動」というスタイルを生み、国家と安保条約に正面から対決し、抵抗するジャテックの活動を生んだ。市民運動もまた変革という命題を正面から見据えざるを得ないということを認識させられたのだといえる。一九六八年に至っての「反戦」と「変革」との架橋は反戦運動からの逸脱でも革命路線への転換でもなく、運動の進展の中から導き出されたものであり、三年の活動を経てのベ平連の一つの解答であった。
おわりに
一九六八年以降、ベ平連は「反戦」と「変革」を正面に据えて運動を進めていくこととなる。これ以降様々な混乱や意思の齟齬を見せながらベ平連は七〇年安保を迎えることとなるが、そこに至る過程で新左翼や全共闘などのヤングラディカリズムの潮流が流れ込み、運動の中身もその思想もより一層複雑なものになっていく(若者と運動をリードしてきた運動家・知識人との対立など)。本論ではその後のベ平連が混乱していくさまを扱うことは出来ないが、ここで改めて述べておきたいのはベ平連が「変革」という理念を掲げたことが「ベトナムに平和を!」という目標や個人原理を変更し、明確な綱領を掲げた戦闘的な運動に転換することを意味するものではなかったということである。それは以下のような小田実の「市民」の定義からも伺うことが出来る。
「市民とは、私の定義にしたがえば、市民意識をもつ人間なので、この中には、労働者も学生も市民意識をもつならば入れます。では市民意識とは何であるか。少し乱暴な言い方ですが、それは人間であることに目覚めるということです。これはある場合には支配階級の悪を正して自己の階級を意識することにもなりますが、同時に、階級をこえて存在する不正、悪にガマンがならないという意識でもあります。私はこれまで、そういう意識にもとづいてベトナム反戦運動を四年間やってきました。」(註1)
市民運動は現状維持を望む運動でもなければ合法性という枠組みに止まる運動でもなく、必要に迫られれば国家や権力に対して明確な拒否を突付ける運動であった。それは「革命」(暴力革命)を志向するような激烈なものではないが、「人間であること」(「階級」でもなく「市民」でもなく「人間」)を基礎に不正や矛盾に立ち向かうものであった(註2)。
六〇年安保の中から生まれた市民運動は安保後の「敗北の状況」を生き延び、ベ平連へとその命脈をつないだ。国家や権力に対して個人の立場から拒否を突き付ける市民運動はベトナム戦争というリアルタイムの戦争への関わり(ある意味での「ベトナム戦争体験」)を通じて「人間であること」を踏み躙ろうとする国家への批判の度合いを更に強めることとなる。だがその批判はただ国家や権力を批判していれば済むというものではなかった。
小田実の提起した「被害者=加害者」の論理は国家の被害者でありながらベトナムへの加害者でもあるという矛盾した日本の姿を告発し、それが日本の現状によって成り立っているということの自覚を迫った。それは日本の現状を許してしまっている自分、脱走兵らの亡命を受け入れることの出来ない日本の国のありかたをそのまま放置してしまっている自分自身が「人間であること」を踏み躙っているのではないのかという深刻な疑念を強く喚起するものであった。
「私たちはベトナムという国にすべての思いを“入れ込む”ということをしなかった。運動は『ベトナムのため』ではなく、『私たち自身のため』のものだということが、運動自体の中で自覚されてきたからだ。私たちは、ベトナム人の戦いから多くのことを教えられ、授けられたのであって、こちらが彼らを助けたのではない、ということを知った。」(註3)
ベ平連の事務局長であった吉川勇一が述懐するようにベ平連は「ベトナムのため」ではなく、「私たち自身のため」になされた運動であった。しかし「私たち自身のため」という内容は重く、苦しい課題に立ち向うことを意味していた。「被害者=加害者」の論理に根差した市民的不服従の運動はベトナム反戦運動を通じて戦争放棄を謳った憲法と戦争を押し進める日米安保条約とを共存させてきた戦後の民主主義のありようを直視することとなる。一九六〇年五月一九日の強行採決に怒り、民主主義の擁護を掲げて登場した市民運動は、一九六〇年代後半に至ってそれまで守るべき対象としてきた民主主義、「戦後民主主義」の深刻な矛盾と正面から向き合うこととなったのであった(註4)。
以上前史整理を含めてベ平連に関する考察を行ってきたが、論の冒頭でも述べたように今回は「市民運動」に標準を絞っての作業であり、この運動の有する多様な相の内のごく一部を見てきたに過ぎない。ベ平連運動研究を進めていく上で解決せねばならない課題はまだ数多く残されている。以下では今後取り組んでいくべき課題について述べていきたい。
先ず最初に、ベ平連が「市民運動」という単一の概念では捉えきれない多様性を有する運動であったということを再