303. 小田マサノリさんから旧ベ平連メンバーへの「熱いメッセージ」(03/06/03掲載)

 つい最近発行された『市民の意見30の会・東京ニュース』の No.78 (6月1日号)に、グループ「殺すな」の発起人である、民俗誌家の小田マサノリさんによる「殺すなを殺すな――憲法第九条は破壊されたのではない、恥辱のあまり自ら崩れ落ちたのだ……」という文章が掲載されています。この最後の部分は、かつてベ平連運動に参加されたことのある人びとに向けられた若い世代の方からの「熱いメッセージ」とも受け取れますので、小田さんの了承を得て、下記に転載します。もっとも、その依頼文に「ベ平連のホームページのニュース欄に『忍野パーティ』の報告を載せてありますが、旧ベ平連の有志は、いまでもこんな集まりを続けています。しかし、そのすべてが今、街を騒がす行動に出てくるとは限りません。小田さんの今度の文は、これら『くたびれた』と思い込んでいる旧ベ平連の面々への檄文のようにも拝見しました。それで、これをベ平連のホームページに転載させていただきたいと希望するのですが、お許しいただけませんでしょうか」と書いたところ、小田さん自身は、返事で以下のように述べられています。
 ……もちろん喜んでお受けさせていただきます。それよりなにより、よりにもよって私のような若輩者が、かつてのベ平連の諸先輩方に檄をとばすなどとは、まことにおそれ多い話で、もしそのように読めましたら、はなはだ恐縮の極みで、身の縮む思いがいたします。無礼のほど、どうぞお許しくださいませ。(後略)……

 殺すなを殺すな
   
憲法第九条は破壊されたのではない、
   恥辱のあまり自ら崩れ落ちたのだ…… 

【右の図は、小田マサノリ:ぼくらの暮
しをなによりも第一にするということ】

 おととい、有事法制三法案が衆議院をあっさりと通過していってしまいました。「待て」と呼びとめるひますら与えられぬまま、ただちにそれは参議院へ送られてゆきました。その日の議場には、苦渋に満ちた決断も、断腸の思いも何もなく、ただもうあっさりと、実にあっさりと、賛成多数という数の力だけで可決されてしまいました。まるで問答無用の追いはぎにでもあったかのような気分です。本国会での法案成立はほぼ確実だといわれています。ことによると、この号が出る頃にはすでに法案は成立してしまっているかもしれません。仮にもしこのまま、なしくずし的に法案が成立してしまったら、その時、僕らはマフマルバフにならって、こう云わねばならないのかもしれません。「日本国憲法第九条は破壊されたのではない、恥辱のあまり自ら崩れ落ちたのだ」と。そう、僕らがあまりに迂闊で、それを大事にまもることを怠けてしまっていたばかりに、憲法第九条はその無関心さに耐えかねて、自ら膝を屈して崩れ落ちたのだ、と。そしてそんな風に憲法第九条を見殺しにしてしまった僕らは、もしかすると平和憲法に値しないような人間どもではなかったのかと、つい、そんなことまで考えてしまわざるを得ない、この何日間でした。本来ならばここには、美術評論家の椹木野衣と僕らがイラク攻撃をきっかけにして始めた「殺すな」の運動とそのデモのことについて何か書くはずで、またそれを楽しみにしてもいたのですが、その楽しみも計画も有事法案可決のニュースのせいですっかりだいなしにされてしまいました。
有事法制はまさにこんな風にして、僕らの「暮し」の計画や楽しみを奪ってしまうもののようです。そんな法案が成立してしまったら、と考えると、未来の抵抗運動や夢のデモについての想像力も萎え、それを書こうとする手すらにぶってきてしまいます。さいわい「殺すな」を始めた経緯や「デモ」についての考えは、すでに別のところに書いておりますので(*)、まことに僭越ですが、そちらをあたって頂けましたらありがたく存じます。話をもどします。ベトナム北爆の頃に生まれた僕らは「戦争を知らない子供たち」とそう呼ばれて育ちました。でも、いまや「戦争しか知らない子供たち」が僕らの後に生まれ育ってこようとしています。有事法制が成立すればますますそうなってしまうでしょう。そうなれば文字通り、未来は灰色だから、ここでもういっぺん「ふりかえってみよう、われわれは戦争の被害者であった、と同時に、加害者でもあった」という、小田実のことばと共に、いま僕は、花森安治のことを思い出しています。「見よぼくら 一銭五厘の旗」などの文で、戦争を知らない子供たちである僕らに、戦争を教えてくれた花森安
治です。その花森が、もしいま生きてたら、有事法制のことをどう思うでしょう。ふたたび日本が戦争をする国になろうとしているのを知ったら何と云うでしょう。たぶん花森は、それこそ気も狂わんばかりに怒りだし、僕らを怒鳴りちらすに違いありません。
 「死者にこだわる」。これもまた小田実のことばです。ありがたいことに僕らはまだ生きていて、これから有事法制反対のデモに行くこともできれば、自分でこしらえた旗をあげて抵抗を示すこともできます。でも死んだ花森にはもうそれはできません。そして
有事法制に対して怒りのことばをなげつけることもできなければ、過去に書いたものを読んでくれということすらできません。だから、ここでは、僕の考えやことばよりもまず、そんな花森安治のことばを、もういっぺん虚心坦懐に書き写し、書き継ぐということからはじめたいと思うのです。花森はこう書いています。
 ...戦争がすんだ/戦争がない ということは/それはほんのちょっとしたことだった/たとえば夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった/たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった/生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ/戦争には敗けた しかし/戦争のないことは すばらしかった 「見よ ぼくら 一銭五厘の旗」
 これが花森の思考と行動の原点です。花森の戦後はひたすらこの「暮し」をまもりぬくことに捧げられました。公害をまきちらす企業を告発し、腐敗した政府を弾劾することを花森は決してやめませんでした。ひとえにそれは、戦争によって一度奪われ、終戦によって再びとりもどした、ごくあたりまえの庶民のふつうの「暮し」をまもるためでした。そこからこの有名な宣言がうまれました。
 民主々義の<民>は庶民の民だ/ぼくらの暮しをなによりも第一にするということだ/ぼくらの暮しと企業の利益とがぶつかったら 企業を倒す ということだ/ぼくらの暮しと 政府の考え方がぶつかったら 政府を倒す ということだ/それが本当の民主々義だ/...今度はどんなことがあっても ぼくらはいう 困まることをはっきり言う/人間が集まって暮すための ぎりぎりの限界というものがある/ぼくらは最近それを超えてしまった...
 多数決で勝手にものごと決める民主主義ではなく、「暮し」のための民主々義を、と花森は唱えたのです。でも公害と政治はその後もますます酷く一方で、そんな中で花森はこう云っています。「もう一ど あの焼け跡に立ってみよう」そして「そこへ戻ろう」と。
 「そこから出直して ぼくらは じぶんのつくった罪を じぶんの手であがなってゆこう/ぼくらがこんなにしてしまった世の中を すこしでもマシなものにして こどもたちに渡してやるために 「二十八年の日日を痛恨する歌」
 このように戦後の花森は、もっぱら加害者の立場に立って思考しました。そんな花森ですから、今回の有事法制のことを知ったら、やはり加害者の立場からそれを考え、こんな悪法をまかり通してしまったことに対する痛恨の中で、こう云うに違いありません。「もう一ど あの焼け跡に立ってみよう」そし
て「そこへ戻ろう」と。
 戦争の強烈な体験をもち、戦後も決してそれを手放さなかった花森は、常に意識の上で「そこへ戻る」ことができたのかもしれません。「暮しの手帖」を通じて花森が提案し続けた「暮し」にはそれをうかがうことができます。そこには奪われたものをとりもど
し、たとえ何かが欠けていても、どうにか何とかするという、そういう身ぶりのようなものが感じられます。だから戦争体験をもたない僕らでさえも、その「暮し」から何かをとりもどし、また何かがなくとも何とかしようとする身ぶりを学ぶことができたのだと思います。そしてこれこそが、今まさに僕らに必要なもので、一度まかり通してしまった有事法制をもういっぺん何とかして差しもどし、それを何とかすることを急いで始めなければならない、と考えています。でも、どのようにして?イラク攻撃の時、僕らはそれを「殺すな」に求めました。1967年に岡本太郎が字を書き、ベ平連が広告にし、そしてベ平連解散後は「市民の意見30の会」が引き継いだ「殺すな」です。そして先日それは「意見広告運動」の中で再び甦りました。小田実の言葉をもじっていえば、「何かがもどってきている。私にはそんな気がする。実感として、する」。そんな気がする出来事でした。その「何か」が何であるかは「意見広告運動」のサイトに意見を送らせて頂きましたので、そちらをお読み頂けたらありがたく存じます。では、なぜ「殺すな」だっ
たのか。これには幾つも理由がありますが、一言で云えば「殺すなを殺すな」と思ったのです。というのは、「殺すな」の新聞広告だけでなく、新宿西口のフォークゲリラやティーチイン、週刊アンポやジャテックなど、様々なかたちで反戦運動を展開したベ平
連の活動スタイルに今でも、いや、今だからこそ、僕らのいまの「暮し」に接続してゆける可能性を感じたからなのです。ですので、ここではベ平連についてもぜひ何か書きたいと思っていたのですが、それはやめました。その必要がないからです。なぜなら「殺すな」のDVDの最後のナレーションにあるように、べ平連はまだ生きているからです。
 「日本の様々な場所、あちこちの分野に、かつてのベトナム反戦市民運動の参加者たちがいる。その精神が息づいている。彼ら/彼女たちは平和や民主主義や平等を求める運動の中にいる。環境保護やエコロジー運動の中にいる。学問や教育、ジャーナリズムや文学、映画や音楽や芝居の中にいる。あなたの隣にいる。そして、あなたの中にいる」
 鶴見俊輔、小田実、吉川勇一、みなさんまだ生きてらっしゃいます。デモや集会でその姿を見ることもできれば、隣で話を聞くこともできます。同じように、かつて全国に四〇〇近くもあったというベ平連もまだ生きているはずです。それを考えると、にわかに希望がわいてきます。チョムスキーではないですが、簡単なことなのです。かつてベ平連だった人がまたもういっぺんベ平連になればよいのです。
 ベ平連の解散集会は「危機の中での出直し」と名づけられていました。ならば、いまその出直しをすればよいのです。今度は「日本に平和(憲法)を、市民連合」として。ここでまた花森安治を引用します。
 やってみないで、できるはずがないときめていてはいけない。げんに、人間の歴史はじまって以来、世界中のどこの国もやったことのないこと、やれなかったことを、いま、日本はやってのけている。世界の一三七ある国のなかで、それをやってのけたのは、日本だけだ。日本国憲法第九条。ぼくは、じぶんの国が、こんなにすばらしい憲法をもっていることを、誇りにしている。あんなものは、押しつけられたものだ、画に書いた餅だ、単なる理想だ、という人がいる。だれが草案を作ったって、よければ、それでいいではないか。単なる理想なら、全力あげて、これを現実にしようではないか。「武器をすてよう」
 「ふりかえってみよう」そして「みんなでてこい」。この呼びかけの声がもういっぺん、かつてベ平連であった人たちのもとへ届くことを願っています。平和憲法はまだ生きています。倒れてもまだ死んだわけではありません。有事法制がたとえ成立しても、新たなベ平連的抵抗が「行為の現場」でそれにせめぎあえばよいのです。「殺せ」とせめぎあうことのない「殺すな」は「殺すな」ではない、それは「非暴力的無抵抗」であり、「あきらめ」だと小田実は書いてます。
 もとより僕ら「殺すな」は、人のいうことをきかない美術家の集まりです。人から命令されるのが何より大キライな美術家です。そして岡本太郎がそうであったように、世の中の流れに逆らおうとする美術家です。まさに変人の集まりであり、小中陽太郎がいうところの「ベ平連的人間」です。そんな変人の美術家であり続けるために、そんな自分を殺さないですむように、自分の「暮し」とむすびついたかたちでの「殺すな」の運動とデモを、かつてのベ平連がそうであったように、自分たちの思う自分たちのスタイルで続けてゆこうと思っています。テロリストではなく、非暴力のデモニストとして、騒乱有理・有事粉砕のデモを創ってゆきたいと考えています。殺すな、自分も他人も。そしてなにより、殺すなを殺すな。
(おだまさのり/「殺すな」発起人、元・現代美術家、民族誌家)

* 小田マサノリ「殺すな一九六七の記(とその追記)」『美術手帖』2003年6月号 美術出版社、
小田マサノリ+椹木野衣「殺す・なからはじめよ」『別冊文藝 岡本太郎』河出書房新社 2003年
小田マサノリ「見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗、改メ、殺すなの旗」『現代思想』2003年7月号 青土社
【右の図は小田マサノリ「戦争に呪いを〜笑いと叫びはよく似ている」】

     (『市民の意見30の会・東京ニュース』No.78  2003年6月1日発行 より)

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