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本書の終章、「『親米』の越え方――戦後ナショナリズムの無意識」の「二 ベトナム反戦運動からの問いかけ」の中の一節は、ベ平連運動の記述にあてられている。その部分のみを以下にご紹介する。
ベ平連という転換
アメリカ批判が、大衆的なレベルでナショナリズムの支えから訣別し始めるのは一九六〇年代後半、ベトナム反戦運動を通じてである。日本において、この明らかに新しい可能性を追求したのは、六五年に活動を開始するべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)であった。べ平連の誕生は、もともと六〇年安保の強行採決に抗議して集まった「声なき声の会」が、他の運動団体に呼びかけてベトナム反戦の連合組織を作ろうとしたことがきっかけだった。初期の活動をみると、ニューヨーク・タイムズ紙への意見広告にしても、徹夜討論集会のテレビ中継にしても、戦後知識人たちのイニシアティブが比較的はっきり出ている。しかし、やがてべ平連は、そのような戦後知識人の思惑を超えて若者たちの草の根的な運動として拡大し始める。六〇年代末までにべ平連は、小田実のリーダーシップと若者たちのエネルギーが共鳴し、五〇年代の反米闘争とはもちろん、六〇年安保とも異なる性格の運動体に進化していく。
形成史的な連続性を有しながらも、べ平連が従来の政治運動とは異なる可能性を帯びていることを素早く看取したのは鶴見俊輔である。一九六八年、彼は小田実が編集した論集に序文を寄せ、べ平連が次の二点で新しいとした。その第一は、草の根的な非組織性である。べ平連の運動には、「いつも地から湧いて出てくるように新しい人が加わっている」。この運動体は内と外の境界線がきわめて緩やかで、いつでも「運動の状況をなしている部分」から運動の中核に新しい人が入ってこられる、つまり運動の中核部分が空洞になっていた。
鶴見が指摘したべ平連のもう一つの特徴は、その脱ナショナリズムの傾向である。彼はこれを「インタナショナリズム」と呼ぶのだが、この「インタナショナリズム」は、「戦前の幣原喜重郎、吉田茂らのような重臣層の米英中心のインタナショナリズムともちがうし、現在の日本の支配層の米国追随のインタナショナリズムともちがう」。むしろそれは、アメリカ国内の反戦勢力にも共感しっつ、圧倒的に優勢なアメリカの軍事力と戦い続けたベトナム人を立派だと感じる心情であり、アジア各地の民衆運動と日常レベルから手をたずさえていこうとする心情である(鶴見俊輔「べ平連とは何か?」市民連合編『資料・「べ平連」運動』上巻、一九七四年)。
鶴見俊輔はまた、「なぜ、われわれの助け合いは、これまでのところでは国家の枠の中だけで主としてなされてきたか。その枠を越えることの必要を、ベトナム戦争反対運動は、われわれに教えている」と語り、べ平連の運動が国家を内から突き破っていくような性格のものであることを強調している。やがてイラク反戦運動がインターネットを通じてグローバルな市民の連帯を可視化していく約四〇年前、ベトナム反戦運動は、市民レベルでのアメリカと日本の反戦運動、そしてアジアの人びとが横につながる可能性をはっきりと標樗していたのである。
アメリカ人や日本人がこうした越境的な「インタナショナリズム」を獲得していく上で重要なのは、自らの加害者性の自覚である。ベトナム戦争からの脱走兵は、ただそれだけでは反戦行動に踏み切らない。しかし彼らが、アメリカは「自分たちが侵略される恐れがないのに、なぜ海を越えてあんな所に行って、ベトナム人を殺すのか、そのことについての自分の責任というものを考えるようになると、アメリカ社会の中にある権力構造」についての認識に達する。つまり、自分を「加害者として位置づけ、自らを追及し、また、自らを追及することを通してアメリカの社会構造におけるアメリカ人の戦争責任を追及」し始める。
鶴見俊輔は、この種の反戦行動が、アメリカと同じように日本にも有効であると考えていた。日本の場合、「大東亜戦争」の推進者たちが、そのまま「戦後民主主義」の中枢を担ってきたという支配権力の連続性がある。一九四五年以降、アメリカと日本は、「お互いに肩を寄せ合って、お互いの戦争犯罪を隠すために協力」してきたのであり、そのためベトナム戦争と同型の構造的理由で、アジア・太平洋戦争に至る日本の加害者性が広く自覚されてはこなかった。このような自己の加害者性についての真撃な自覚がない限り、戦後日本人が真に「インタナショナル」になるのは難しい(鶴見俊輔「市民的不服従の国際的連帯」、前掲書)。
鶴見良行という実践
俊輔の従兄弟、鶴見良行がべ平連を通じて編み出していったのは、こうした「インタナショナリズム」を身をもって実践していく具体的な方法であったように見える。良行はべ平連にかかわり始めた早い時期に、「日本国民としての断念」と題された小論を書き、「主権国家という機構にたいして国民という成員がある以上、平和運動は当然、国民としての立場を否定するものをふくんでいなければならない」こと、つまり「日本の平和運動は、動員デモや各集団のヘゲモニー争いとしての闘争とはまったく異質の原理的地点にまで下降する必要があるだろう。そしてこの原理的地点として「国民としての立場を断念する」ということを発想する」と語っていた(鶴見良行「日本国民としての断念」『鶴見良行著作集2』みすず書房、二〇〇二年)。
そのように考える鶴見良行が、なぜベトナム戦争にこだわり、アメリカにこだわらなくてはならなかったのか。一九六八年、彼はこの点について次のように書いている。
それに接したとき、私の血が騒ぐ何かが、アメリカの中にある。と同時に、あの国が、時 によっては、私の血を凍らせることのあるのも事実だ。他のいずれの国々にもまさって、 あの国が私を触発するのはなぜか。いびつなシャム双生児のように、日本がアメリカとわかれがたくむすびついて命運をともにしているからなのか。あるいは、戦争中の軍部とはくらべようもないほどに不透明な仕方で、アメリカが私自身の生活を支配しているからなのか。それともまた、私があの国に生まれ育ったための、血縁のみに感じる愛憎のためか。
(鶴見良行「米国ニュー・レフトとの対話」同『著作集2』)
鶴見良行は、後にもこの比喩を取り上げながら、サイゴン街中の広場で公開銃殺された民族解放戦線のゲリラ兵士の叫びが「もうひとつのアメリカ」、黒人を差別しアジア人を殺しているアメリカに導いたと述懐している。日本はそのアメリカと安保条約でつながり、企業はベトナム戦争で儲け、市民はアメリカの庇護の下でアジアに対する加害者性を忘却していた。しかも鶴見は、「日米の文化交流にたずさわる民間団体につとめていた私」自身、「アメリカ」と「日本」という不均等な二つの身体のあいだを循環する血液の一部なのだと自己を問うた(鶴見良行「アジアを知るために」同『著作集4』、一九九九年)。このような鶴見の問いには、「アメリカの権力や資本の意向から離れて自由に生きることのなかった戦後の日本」と、その「アメリカ」との関係を幼少期も現在も保ち続けている彼自身という二つのレベルの「日本のなかのアメリカ」への問いが重ね合わされていた。
当然ながら、このような問題意識は、戦後日本をベトナム戦争との関係において問い返す作業を含み込んでいる。すでに六六年の時点で鶴見は、「政権も、官僚も、資本も、マスコミも、組合も、市民も、つまり、日本の社会を動かすいかなる勢力も、日本のベトナム戦争にたいする関与という問題について、事実に則したやり方で、大づかみな見通しをたててさえいない」と批判していた。実際のところ、「われわれは、あまりにも細分化された無数のパイプでベトナム戦争とつながっているので、誰もが、この無数のパイプの全体の構図を知りえないでいる」(鶴見良行「ベトナム戦争と日本」同『著作集1』、一九九九年)。鶴見がこの時点で論じたのは、主としてベトナム特需や日本の再軍備との関係などであったが、やがてベトナム戦争は、鶴見の問いの地平に、こうした直接的な関係以上に大きな問いの視点を浮上させていく。
一九七〇年、鶴見はべ平連の活動を中間総括しつつ、こう論じている。
ベ平連は、ベトナム戦争反対の運動であるはずだ。それがなぜ、日本の戦後体制に深い亀裂を入れつつある政治的社会的現象の普遍的質を代弁しうるようになったのか。ひとつの解釈は、ベトナム人民にたいする人間的同情から出発し、そのかぎりでは、戦後民主主義や基本的人権の擁護でたたかった六〇年安保闘争の延長上に位置したベトナム反戦運動が、沖縄問題、ベトナム特需、各地の基地闘争、日本の中の脱走兵と、運動を深めてゆく過程で、ベトナム−沖縄−安保−アメリカという、日米を基軸とするアジアの基本的政治構造にゆきつき、いわゆる「わが内なるベトナム」認識が生じたということがある。ベトナム戦争は、もはや遠い河の向こうの戦争ではなく、この日本ですべての日本人を何がしかそれにかかわらせる戦争であった。六〇年当時には、守られるべきものだった日常的な市民生活が今では否定されるべきものとなった。
(鶴見良行「一九七〇年とべ平連」同 『著作集2』)
つまり、六〇年代末の日米の社会意識の変化のなかに鶴見が見出したのは、当事者性=加害者性の自覚であった。ベトナム戦争は、アメリカの外で起きたのではないことはもちろん、日本の外側で起きているのでもない。まさしく戦争は、日本を不可欠の関与者とし、「日米を基軸とするアジアの基本的政治構造」のなかで生じている。だから、われわれはベトナム戦争を外側から語ることなど出来るはずもなく、まさしく戦後日本が東南アジアへの経済的覇権を狙う構造のなかで「ベトナム」と向かいあうべきなのである。ベトナム戦争に反対することは、「平和」の国から「戦場」の国に手をさしのべることなどではまったくなく、むしろその「平和」の構造を疑うこと、「平和」と「繁栄」を謳歌しているかに見える日本社会の位置を、ベトナムからのまなざしを通じて問い直していくことを含んでいなければならなかった。……
吉見俊哉「親米と反米――戦後日本の政治的無意識」( 岩波新書)p219〜225 より