「在留特別許可取得一斉行動」 (号外2)



●許さん一家に在留特別許可!

 一家5人で在留特別許可を求めたものの「留学」で在留特別許可が認められた長女以外の4人が不許可となってしまった許攀桂(きょ・はんけい)さん一家が、3月14日、再審の申し立ての結果を受け取りました。結果は今春から私立大学に入学する次女が「留学」1年の、父、母、長男の3人は「定住」1年の在留資格がそれぞれ認められました。

 許さん一家は支援団体や弁護士に相談せず、家族5人だけで1997年10月1日に東京入国管理局に出頭しました。出頭から20ヶ月あまり、入国管理局からはなんの音沙汰もなかったにもかかわらず、1999年6月に違反調査は始まって以来、わずか、4ヶ月後の1999年10月22日に、長女以外4人が不許可との結果を受け取り、子どもを含む4人が収容されてしまいました。

 許さん一家へ入管側が下した判断は、家族で申請したにもかかわらず、在特が認められたのが短大生の長女のみというのも異例の裁決といえますし、不許可即収容という入管側の原則にしたがって、10歳と17歳の子どもたちまでをも収容してしまったことは行政の行き過ぎた人権侵害といわざるをえません。収容生活で、次女はストレスからか顔面が赤く腫れ上がり、不眠などの体調不良を訴えましたが、入管側は専門医に診察をさせることなく放置してきました。また、ぜんそくの持病をもちたびたび発作を起こす長男も、男女別が原則である収容所では母親と引き離されたまま、母親の看護を受けることもできずに、心身共に不安定な生活を強いられました。

 当初、入管側は「子どもを含め、帰国準備以外では仮放免を認めない」と強固な姿勢を見せていました。が、、弁護士とAPFSの粘り強い働きかけにより、同年、11月30日、再審の申し立てを行うと共に、4人の仮放免許可を申請したところ、父親以外に仮放免許可が認められました。

 それ以降、3月14日に呼び出しを受けるまで、一家にはなんの連絡もなく、父親は茨城県牛久市の東日本入国センターに移送されてしまいました。9月1日に出頭した21名の結果が2月に出たことで、許さん一家に許可が認められるのも時間の問題と思われていましたが、なかなか出ない結果に一家は不安を隠すことができませんでした。 APFSとしても、4月から大学生となる次女の入学式までには、なんとか在特が認められるようにと、2月から許さん一家の団体署名を募り、15団体からの賛同を受け取り、提出の準備をしていた矢先の許可でした。各団体からの署名は、3月14日、許可を受け取るまえに提出しました。また、東日本入国センターに収容されていた父親は、その場で許可を受け取り、同日、収容施設を出ました。これによって一家は5ヶ月ぶりに一家5人の生活を取り戻すことができました。

 ご支援、ご協力をいただいた皆さん、本当にありがとうございました。


◆許さん一家のこれまでの経緯◆

1988年 6月
      許攀桂さん(当時35歳)就学生として来日

    10月
      妻(当時32歳)、長女(当時9歳)次女(当時6歳)来日

1989年 8月
      長男誕生 6ヶ月の在留資格を取得

1990年 4月
      在留資格の更新が認められず、超過滞在に

1997年 10月1日
      東京入国管理局に在留特別許可を求め、出頭

1999年 6月
      初めて違反調査の呼び出しを受ける

    8月
      違反審査開始。母、長女、次女、長男は仮放免許可を受け
      在宅での取り調べとなるが、父親のみ仮放免が認められず、
      収容される。

    10月22日
      長女のみ「留学生」として在留特別許可が認められるが、
      父、母、次女、長男の4人は不許可。そのまま収容される

    11月30日
      4人の再審の申立と仮放免許可の申請を行う。
      母、次女、長男に仮放免許可

2000年 3月14日
      4人に在留特別許可
      父、母、長男は「定住者・1年」
      次女は「留学・1年」


許さん一家の仮放免の報告は在特一斉行動速報 「号外−No.1」をごらんください。

2000年3月 



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