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貧乏記者のアフガン現地ルポI[最終回]  (12月9日号/183号)

さよならアフガン
緑陰喫茶

 カブールでの不満の一つが、街なかで一息ついたりちょっと考え事をしたり簡単な書き物をする場所、そう、喫茶店のような店がないことだ。まあ、そんなものは望むべくもないのだが、日本大使館の近くにある小さな公園で、ウンコを踏まないように慎重に場所を選んで木陰に腰をおろしたときのこと。
 周囲を眺めわたすと、同じように座り込んでいる人びとが大勢いる。よく見るとみんな粗末な敷物を敷いてチャイのポットとグラスを前に置いて座っている。さらに目を凝らすと人びとのあいだを腰の曲がった爺ちゃんがこまめに動き回っている。爺ちゃんの動きの中心付近にはブリキのストーブのようなものがあり、そばの小さな台の上には大小のポットが並んでいる。
 ハハァー、ここはオープンカフェなんだ。さっそく私もチャイを注文し敷物も貸してもらった。なんと料金は2000アフガニー(8円)。物乞いにも受け取りを拒否されることがある額だ。しかも小皿にキャンデーまでついている。
 ストーブは薪を燃料にした瞬間湯沸かし器のようなものだった。ときどき煙突をはずして小さな木片を一〜二切れくべている。内部はおそらく二重構造になっていて外側の部分に水が入るようになっているのだろう。熱効率はすごくよさそうだ。
 日本のほうじ茶に似たチャイを飲みながら取材ノートの整理をしていると、体重計を持った少年がやってきた。体重計を私の前に置き、上に乗れという仕草をする。乗ると五九キロだった。日本にいるときより3kg落ちている。しかし少年は指を折って「60」と告げた。私は指を5本と9本出して「59」と主張したが、彼は頑として譲らない。これもサービスのつもりなのだろう。この国では痩せていることに何の価値もないのだ。2000アフガニー取られた。
 しばらくすると今度は新聞売りの少年がやってきた。「カブールタイムス」という週刊の英字紙を持っている。五千アフガニーだというが、日付を見ると3日前の新聞だ。「これはニュースペーパーじゃなくてオールドペーパーだ」と言うと、通じたのか2000アフガニーでいいと言う。
 さっきからこちらをチラチラ見ている5人連れの若者たちがいる。1人がアイスクリームを持ってやってきて私の前に置き、身振りで「食べろ」と言う。「タシャクル(ありがとう)」と言って頂戴した。しばらくすると別の青年が赤いビッグのボールペンを私の前に置いて「やるよ」と手振りで言う。さらにもう一人がアラビア文字の本を持ってきて「コラーン」「コラーン」と指をさす。ウン、ウンと肯くと、「ジャポン」「ヒロシマ」「ナガサキ」と彼の知っている限りの日本語を披露した。

二十四の瞳

 会話が途切れると、垢まみれの服に破れた靴を履いた靴磨きの青年がやってきた。驚いたことに達者な英語を操る。英国のNGO「セイブザチルドレン」の語学スクールで学んだという。彼と話していると次々と若者が寄ってきてたちまちのうちに12人、二十四の瞳に囲まれた。こうなると考え事も書き物もできない。せっかく見つけた緑陰喫茶だが、退散せざるを得なくなった。
 カブールでは外国人を見つけるとすぐに人が群がってくる。注意深く観察するとそれには3通りの動機があるように思われた。
 1つは「バクシーシ」つまり物乞いのため。うっかり繁華街で腕を差し出してきた誰かに金をやろうものならあっという間に子どもたちが走り寄ってきて身動きがとれなくなる。
 2つめの動機は英語学習熱だ。今この国では英語を習得することがビッグマネーを手に入れる一番の近道なのだ。街を歩いていると中学生くらいの子が寄ってきて、おそらく習いたての英語なのだろう、「あなたはどこから来ましたか?」とか「あなたはアフガニスタンが好きですか?」などとこちらが赤面するような単純な質問を繰り返しぶつけてくる。
 そして3つめは単なる物珍しさからだ。アフガン人の物見高さは半端じゃない。街角で20人くらいの大人が輪になって何かをのぞき込んでいるので、強引に割り込んでいくと中にはゆで卵売りの少年がいるだけだったりする。
 私はこの時期、アフガン人たちの好奇心を1人で引き受けることになった。
 NGOや国連機関の職員は、宿舎と事務所の移動はもとより個人的な買い物でも専用車の使用を義務づけられており、単独行動は固く禁止されている。彼らにはミッション(任務)があるのだから、そうした制約があるのはやむを得ない。報道関係者もたいていは運転手、通訳付で動き回っている。というわけでアフガニスタンの街なかを1人でフラフラ歩いている外国人は私くらいしかいなかったからだ。
 しかしそのおかげで私は等身大のアフガン人を肌で感じることができた。彼らのホスピタリティー(もてなしの心)には心が温まるが、遠慮のなさにはときに辟易とさせられた。ドイツ文化圏を旅したときは、外国人を「無視」することが実は彼らなりの旅人への「配慮」であると知ったが、それと好対照だ。それでもアフガン人の多くがこころ優しい人びとだった。ドルに群がってくる人の中に「いやなヤツ」が多いというだけだ。

さよなら、そして……


 日本へ帰る日が近づいてきた。カブールを出て途中ジャララバードで一泊した。ペシャワール会(PMS)の蓮岡さんに別れを告げるためだ。夜、彼らの宿舎で遅くまで話し込んだ。干ばつと空爆が続くもっとも困難な時期に井戸掘りの先頭に立ってきた蓮岡さんは、PMSの水源確保事業が新しい段階に入ったのを期にPMSを辞めて日本に帰るという。
 彼は1990年代の初めころからタリバン政権が樹立される前後にかけて、「戦争の写真を撮るために」何度もこの地へやってきて、ときどきPMSにも世話になった。アフガン入りする蓮岡さんを中村医師は「あんた死ぬばい」と言って送り出したこともあったそうだ。その後、彼は「まだやり残したことがある」とアフガンに戻ってきて、PMSの井戸掘り事業にかかわるようになった。その彼が「日本に帰ってもいい。もう帰れる」と思えるようになったというのだ。「日本で再会しましょう」と固く握手して別れた。
 国境を越える際、また一悶着あった。ジャララバードで「400ルピーくれたらペシャワールまで連れていく」と言うので雇ったタクシーの運転手が、国境で「この先は許可証がないので行けない」とぬかす。去年タジクからウズベクへ入ったときもまったく同じことがあったので慌てることはなかった。「それなら半分の200ルピーしか払えない」と無理に金を押しつけさっさと歩き出した。だがやつは荷物を引っ張って離そうとしない。パスポートコントロールの係官が出てきて運転手と私を通訳する。まわりに人が群がってくる。終いには「この嘘つき野郎、200取ってさっさと帰れ!」と日本語で怒鳴り、荷物をひったくって国境を越えた。カイバル峠で振り返ると、アフガニスタンは黄砂のような土埃のなかに霞んでいた。
 7月、大阪市内で蓮岡さんと再会した。別れ際、私が「またアフガンに行くことがあるのだろうか」と独り言のようにつぶやくと、「必ずもう一度行くことになりますよ」と妙に自信ありげに断言した。私は「何故そう思う?」と聞き返さなかった。そして彼は9月のおわり、新しい人生への準備のためにロンドンへ旅立っていった。
 まだ何かやり残していることがあるような思いが、私の中には今もある。(おわり)
                   
                    

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