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『ACT―市民の政治―』160・161号(2002年1月1日)

Line Up

  ◆新春メッセージ
     「ひと、森、あした」  絵:田島征三
  ◆アフガニスタン最前線リポート
       子どもたちは栄養失調で倒れている
  ◆背景としてのパレスチナ問題(上)
       インタビュー・藤田進さん (東京外国語大学教員)
  ◆憲法・9条をめぐる瀬戸際の攻防     高田健 (国際経済研究所)
  ◆金田誠一議員(民主党)に聞く 政治と運動
  ◆今月のしなやかヤッシー
       ゴミ問題で「長野モデル」は発信されるのか?
  ◆2002年の雇用と安全/私の視点・ここが焦点
     NTT合理化     前田裕晤 (全通労組全国協議会議長)
     雇用と労働組合  泰山義雄 (北摂地域ユニオン)
     浜岡原発      山崎久隆 (たんぽぽ舎)
  ◆Make Green More ―新年号特別編―  インタビュー・川田悦子さん
  ◆2002 変革元年 ―新たな発展をめざして!
      トモグイから共生きへ     吉田和雄 (日野市議会議員候補)
     議会・NPOでの活動拡げ    尾崎百合子 (長岡京市議)
     人生のターニングポイント?  佐々木允 (龍谷大学学生)
     読者・スタッフからの一言メッセージ
  ◆シリーズ・食
     〈マクロビオティック料理〉のススメ   上由美子 (マクロビオティック料理研究家)
  ◆BOOK Review  J・K・ローリング/著   松岡祐子/訳
                 『ハリー・ポッターと秘密の部屋』
  ◆いずみ(編集長コラム)
  ◆広告(2面) 『記録』1月号/『帰国子女自らを語る』……潟Aトラス
           『QUEST』NO17……………………オルタ・フォーラムQ
           『月刊オルタ』12月号…………アジア太平洋資料センター
           『デスマッチ議員の遺書』/『監視社会とプライバシー』ほか……インパクト出版会
       (3面) 『悪魔のお前たちに人権はない!』ほか……社会評論社
            『ガラスの壁』/『分裂病の娘の記録』……晩聲舎
            ビデオシリーズ『人権ってなあに』……潟Aズマックス
            『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』ほか
                              …………現代企画室
       (4面) 『創』1・2月号/『YUYA』…………創出版
            アクト新聞社
       (6面) ほんの木のエコロジー通信販売          

      アフガニスタン最前線リポート―取材ノート     

死が日常化した戦場の風景
子どもたちは栄養失調で倒れている

援助の手が及ばない“国内避難民”も急増


 戦場の最前線は世界でもっとも貧しい国の辺境最深部でもあった。そして国外にも出られない貧しい人びとが砲火の下を逃げまどっていた。カブール陥落前夜のアフガンからレポートする。
(※本稿は新島氏の取材ノートをまとめたものです。これをもとに整理されたものが本紙に掲載されています)

今もなお両軍が睨み合う

 11月7日。私は北部同盟外務省のある人口1万5000人ほどのホジャバハウディンにいる。外務省といっても100平米かそこらの平屋の建物が二つあるに過ぎない。この建物の前で北部同盟のキーパーソン、マスード将軍がオサマ・ビン・ラディンが放ったと思われる刺客に暗殺されたのは9月9日、米国テロの2日前のことだった。
 この外務省で前線の取材許可を得て、旧ソ連製のジープに乗り込み南方のフロントライン(最前線)へと向かった。ここ数日戦闘が激しくなってきているためか、われわれが向かう方向とは逆に、北をめざして避難民が押し寄せてくる。そのためホジャバハウディンから南へ延びる道沿いにはボロ布や薄いビニールを張り合わせて造ったテント村が日毎に増えている。
 道といっても見渡す限りの土漠のなかに轍がついているだけで、道がえぐれて悪くなれば別の轍ができてそこが道になる。形容しがたいほどの悪路が続き、「カンボジアでもこれほどではなかった」とかつて同地を取材したことのある記者が語っていたほどだ。無骨な軍用ジープが頼もしく感じられる。庶民の主要な交通手段であるロバ、駱駝、馬などと頻繁にすれ違うが、乗り心地は車よりはるかに良いだろうと思われる。
 時折、腹の底を震わすような「ドーン」という爆発音が轟く。アメリカの空爆がめざす最前線でおこなわれているのだ。
 3時間ほどでホジャバハウディンより少し大きなダシュテカラの街に到着。ここから西へ折れしばらくしてアムダリア川の支流、コクチャ川の岸辺に出る。支流といっても川幅は200メートルほどある。
 この先は車では進めないので馬に乗り換える。川を渡り小さな集落をいくつか抜け30分ほどで北部同盟軍が陣取る丘の麓に着いた。馬を降りて丘を登っていくと、土盛りの上に石を置いただけの簡素な墓が一面に広がっている。麓の村の共同墓地らしい。男が二人新しい墓穴を掘っていた。
 昼過ぎ、塹壕を張り巡らせた北部同盟軍最前線の陣地に着いた。眼下に広がる谷間に集落が点在する。兵士たちに聞くと手前が北部同盟が支配するオビという村で、その向こうはタリバン支配下のカブラトゥ村だという。2つの村は100メートルほどしか離れていない。この先はカブール陥落後もタリバン軍が最後まで抵抗を続けたクンドゥズ州だ。
 ザヒルと名乗る25歳の兵士が首から双眼鏡をぶら下げていたので、貸してもらって覗くが、タリバン兵らしい姿は見えない。向こうも塹壕にこもっているのだ。そのとき突然「ドーン」と炸裂音が空気を震わせた。直後にタリバン側陣地で土煙が上がる。約2分後、遠くで砲撃の音が聞こえ、直後に北部側陣地近くで土煙が上がった。兵士の1人が銃座からカラシニコフ銃でタリバン側を銃撃すると向こうからも撃ち返してくる。こうした砲銃撃がときどき交わされる。おそらく互いに牽制しあっているのだろう。
 最初のうちは砲撃音のたびに身をすくめていたが、しだいに慣れてきて、そのうち砲撃音も気にせず兵士たちと雑談を交わせるようになった。片言のダリー語(ペルシャ語のアフガン方言)で、「名前は?」「年齢は?」などと尋ね、ターバンの巻き方を教えてもらったりする。兵士の一人がターバンの端を肩から胸の前に垂らし「タリバンスタイル」などとおどけてみせると、戦場に笑い声が広がった。
 塹壕の所々に地下壕が掘られ、兵士たちはそこで食事や睡眠をとる。中に入ると兵士が1人泥のように眠っていた。
 この戦域で1500人の兵士を指揮するジェネラル・サイーユーソフが短時間のインタビューに応じてくれた。
「ムジャヒディーン(イスラム聖戦士=兵士たちは自らをこう呼ぶ)たちの士気は高い。近いうちにタリバンを完全に打ち負かす。その後、国民すべてが参加する選挙を行い、民主的な政府を樹立し、法律を定め、リーダーを決め、平和で自由な国を造りたい。日本は古くからの友人だ。今は不幸にも戦争の真っ最中で、多くの避難民や犠牲者が出ているが、日本には是非、これらの人びとのための人道的支援をお願いしたい」
 2時間ほど滞在して丘を降りる途中、前方から30人ほどの葬列が登ってきた。大きな担架のようなものに遺体を乗せ、その上を赤や緑の布で覆ってある。来るときに掘っていた穴の横に遺体が置かれ、埋葬のための儀式が始まった。失礼にならないように少し離れて座って見ていると、小さな谷を挟んだすぐ隣の丘の中腹で爆裂音とともに土煙が上がった。私のいる場所から100メートルと離れていない。思わず腰が浮き手が宙を泳ぎ逃げの姿勢になる。「逃げ腰」とはこのことだ。胸から腹にかけて悪寒が走る。しかし私よりもっと着弾地点近くにいる参列者たちは動揺する様子もなく埋葬の儀式を続けている。
 ここでは戦争が日常になっている。
(この4日後、この付近を取材中のカナダ人とオーストラリア人ジャーナリスト3人がタリバン軍の待ち伏せ攻撃を受け死んだ)

激化する戦闘、押し寄せる難民

 11月9日。タジキスタンとの国境沿いにある北部同盟軍の訓練キャンプに行ってみると、昨日まであった戦車、装甲車、トラックがこつ然と消えていた。昨日の午後までは確かにロシアから供与された旧型だが整備状態の良い戦車20台、装甲車10台、トラック数台がここにずらりと並んでいたのだ。前線に投入されたのだろうか。前線では大規模な作戦が始まっているのだろうか。
 夜、宿舎に戻ると、マザリシャリフを北部同盟軍が奪い返したという知らせが入った。マザリシャリフはアフガニスタン北部の大都市。ウズベキスタン経由で兵たんの補給を受けるうえで極めて重要な戦略拠点で、ここと北東部の拠点都市タラカンを奪い返すことが首都カブール攻略の必須条件だ。この2都市を手に入れることは、すなわちカブールへのゲートを開くことを意味する。
 すでに9時を回っていたが、外務省へ出かけてみることにする。夜間の外出は禁止されているが、ことの真偽を確かめたいし、外務省に詰めているほかのジャーナリストから何か情報が得られるかもしれない。
 ホジャバハウディンを含むこの一帯には電気はまったく通っていない。街には電柱もなければ電線もない。もちろん水道もガスもない。各国のジャーナリストらが分宿する外務省所管の「ゲストハウス」では夜間だけ各人で石油代を分担して発電器を回し、裸電球の頼りない明かりが灯るが、一歩外へ出ると泥で造られた街は真の闇に覆われる。今宵はまだ月も出ていない。ヘッドランプの一条の光だけを頼りに徒歩で約15分のところにある外務省へ向かう。10分ほど歩いて粗末なモスクの前を通りかかったとき、闇の中から鋭い声が間隔をおいて2度聞こえた。思わず立ちすくみ前方を照らすと、3人の兵士が2方向から銃口をこちらに向けながらゆっくりと近づいてきた。
 カラシニコフ銃を脇腹近くに突きつけられて尋問されるが、言葉がまるでわからない。ゆっくり深呼吸をしてから、なるべく穏やかに英語で答えた。
「I am japanese journalist.」
 ジャパニーズと言うときにヘッドランプの明かりを自分の顔に当てて小さく笑顔をつくった。続けて、
「I heard Northern Alliance got MazareSharif. So, I'm going to Foreign Ministry for taking some informations.」
 と言って外務省の方向を指さした。マザーリシャリーフは特に大きな声でクリアに発音した。わずかな沈黙の後、兵士はいくぶん表情を和らげ銃をおろし道をあけた。
 カナダ人ジャーナリストの話ではマザリシャリフの状況はまだ安定しておらずVOA(ボイスオブアメリカ)もこの情報をまだ確認していないとのことだった。
 11月10日。マザリシャリフの攻略が確認された。タラカンへも大規模な攻勢をかけているらしい。訓練キャンプの戦車はこの戦線へ向かったものと思われる。朝から爆撃音が盛んに聞こえる。米英軍の爆撃はタリバンのロケット砲などとは比較にならない。爆弾30dを積むB52のじゅうたん爆撃がおこなわれ、クラスター爆弾やデージーカッターなどによる無差別爆撃もおこなわれている。
 車で南へ向かうとホジャバハウディンを出てすぐのところに新しい難民キャンプができている。昨日ここを通ったときにはなかったものだ。粗末なテントが200張りほど立っている。ものすごい勢いで前線から難民が押し寄せてきているのだ。ここ数日は毎日新しいキャンプができている。
 しかし彼らは国際社会では「難民」とはみなされない。彼らはIDP(Internally Displaced Perons=国内避難民)と呼ばれ難民とは区別されている。したがってUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の援助も彼らには及びにくく国際的な関心も集まりにくい。アフガニスタン国内のIDPは北部同盟支配地域だけで40万人。タリバン支配地域がどうなっているかわからないが、援助を必要としている人々は全体で600万人と推定されている。
 ホジャバハウディン近郊で最大のクムクシュラク難民キャンプを訪ねた。アムダリア川の支流のアムレバ川沿いに1500家族が避難している。
 アイドムハマッドさん(56歳)はホジャバハウディン南方のホジャガール近郊から15ヵ月前に逃げてきた。大工をしていたがタリバン兵に財産、金、食べ物を奪われ家を焼かれたという。ここの最古参でキャンプ全体のまとめ役だ。
 ムハンマトアユーさん(24歳)はさらに南方のタラカンから3カ月前に逃げてきたが、兄はタリバン兵に撃たれて死んだという。
 マーシャルアリーさん(50歳)は家の中にいたところタリバンに家ごと火をかけられ背中に大やけどを負った。タリバンが去った後息子が家の中から連れだしてくれて命拾いした。
 日本の人びとへのメッセージを求めると、アイドムハマッドさんは「食糧はもちろんのことだが、冬が来る前に安全に住めるテント、子どもたちの服や薬、燃料用の薪、ランプ用の灯油が必要です。われわれの政府は戦争で忙しい。日本には人道的な援助を期待しています」と語った。

子どもたちが犠牲に

 難民キャンプの死亡率は極めて高い。タジキスタンとの国境近くにあるハジマラキャンプは約300人が暮らす小規模なキャンプだ。このキャンプができてから2年ほどの間に50人が死んだという。50メートルほど離れたところにキャンプ住人の共同墓地があった。土盛りの上に石を乗せただけの質素な墓が並ぶ。数えたら67あった。兵士として戦死した近親者の墓もあるからそれを差し引くと50人という証言は間違いないだろう。小さな土盛りは子どもの墓だ。子どもの死亡率の高さが一目瞭然でわかる。
 キャンプの子どもたちを見ていると、目を病んでいる子、口の周りにたくさんの出来物のある子、そしてこの寒さのなか裸足で歩いている子が目立つ。
 まだ新しい墓の前に立っていた男性に「家族の墓ですか?」と声をかけると、顔を上げ「弟の墓だ」と言って目に涙を湛えた。きっと仲の良い兄弟だったのだろう。男性はアブドルムハマッドさん(35歳)といい、クンドゥズ州から逃げてきたが、ムジャヒディーンだった弟がつい最近戦死したのだ。隣の小さな二つの墓も彼の1歳と4歳の子の墓で、2ヵ月前に暑さと栄養失調で相次いで死んだという。
 古い墓は風雨にさらされ、早くも土盛りが消えかけ文字通りアフガンの土に帰っていく。
 ハジマラキャンプの南2キロほどのところにACTEDの救援物資分配所がある。ACTEDはNGOの技術協力開発機関で、国内避難民のための救援活動をおこなっている数少ない国際援助団体だ。
 ちょうど小麦の配給が始まろうとしていた。広場の中央に50`入りの小麦袋が200個積み上げられている。それを300人ほどの人垣が取り囲む。この地域の住民や避難民に対して、およそ一家族に一袋の割合で配られるそうだ。しかしわずか200袋程度ではとてもこの地域の全家族に行き渡るとは思えない。病院で助手をしているというファッハルディンさん(20歳)が話しかけてきたので実情を聞いてみた。「この小麦は新しく来た難民には配られません。彼らはまだリストに登録されていないのです。配られた小麦も一家が冬を越すのに必要な量の3分の1しかありませんし次の配給がいつになるかもわかりません」
 ザイニティ(2歳)とコムリー(5歳)という二人女の子とブルカを被った母親と祖母が地べたに座って配給される小麦をじっと見ている。新しく来た難民だがまだこれまでにどんな援助物資も貰ったことがないし今日も貰えないという。ファッハルディンさんがザイニティの腕を取り袖をまくり上げて見せた。「見てください。この子も栄養失調です。みんな一日一食、朝しか食べられないのです。ほとんどの子どもが栄養が足りません」
 物資は圧倒的に不足している。それでも援助を受けやすいと考えるのだろうか、分配所の周りにはいくつもの新しい難民キャンプができていた。今たどり着いたばかりの難民たちもいて、あちらこちらでテントを立てている。
 アリャクルさん(75歳)一家もテントを立てていた。タリバン兵に目を突かれ手首を棒で殴られたと言ってその箇所を見せてくれる。テントといっても支柱を2本立て棒を渡し布をかけてだけの簡単なもので、とても冬の寒さを防げるとは思われない。すでに立て終わったテントの中では子どもたちが毛布にくるまり体を寄せ合っている。どの家族も家財道具らしきものはほとんどなく、雨露をしのげるものだけを身にまとい手に持ち命からがら逃げてきたという様子がありありとわかる。しかしこの地域に逃げてきた難民のすべてがタジク人とウズベク人だった。パシュトゥーン人とは1人も出会わなかった。彼らはタリバン側に逃げているのだろう。北部同盟軍から略奪や残虐行為を受けている可能性もある。
 このままでは多くの難民が冬を越せず、多くの子どもたちが命を落とすだろう。人道援助は急を要するが、タジキスタンやウズベキスタンなど周辺諸国が国境を閉じていることもあり物資の輸送は極めて困難だ。
 11月11日。北部同盟はタラカンを攻略、次いでカブールに進軍した。16日からのラマダンを前に一気に攻勢をかけている。ラマダンはイスラム教徒にとって盆と正月を一緒にしたようなものだ。そういえばベトナム戦争の時にも「テト(旧正月)攻勢」というのがあった。タリバンは正面戦を避け撤退を開始した。血で血を洗う本当の戦闘はまだおこなわれていない。ゲストハウスに同宿しているトルコ人ジャーナリストは「本当の戦争は冬の後に始まる(The real war will bigin post winter)」と言った。
 タリバン政権は崩壊したが、反タリバン側が支配しているのは、都市と主要道路、点と線に過ぎず、多くの難民が「まだ家には戻れない」と言う。そればかりか本格的なゲリラ戦の始まりとともに難民はさらに増えるかもしれない。援助は急を要する。地域によっては車が入れず馬かロバによってしか物資を運べないところもある。
 私たちにできる、私たちがするべき支援とは何か? アフガン民衆の視線で考えることがなによりも大切だ。
 12月3日、この地帯で雪が降った。

新島 洋(ACT関西)  

◆新島洋(にいじまひろし)
 フリーの雑誌記者。ユーゴスラビア・コソボ自治州やフィリピンのゴミ 捨て場で働く子どもたち、全国の住民投票運動など、多くのルポルタージュがある。著書に『青い空の記憶』など。

ACT・3月読者会『アフガニスタンは揺れている』 TOPページ


特別インタビュー
金田誠一さん(衆議院議員/民主党)   
               
に聞く政治運動

良心に基づいた自己決定
そして政治に関わること

 臨時国会終盤で民主党執行部の方針に反対した「造反議員」の一人、金田誠一衆議院議員
(比例区北海道ブロック)に、そこに至る思いと、日本の政治と市民運動にいま必要なものについてお伺いした。(構成・大島正裕)

 ――2001年秋の国会では自衛隊の戦時海外派兵が承認され、一挙に憲法の枠組みを飛び越えてしまいました。金田さんが所属する民主党の対応は、特措法成立の過程では「国会の事前承認」を盾に反対にまわり、事後承認となる「基本計画」に賛成するという迷走ぶりでした。金田さんは、党の対応に真っ向から反対されましたが、その思いをお聞かせください。

 民主党の執行部は、衝撃的な9月11日のあのテロ事件直後に、自衛隊派遣ありき、そのための新法ありき、という方針を打ち出し、その方針どおりにここまで来たということです。これはとりわけ民主党に限ったことではなく、マスコミの論調も全てそうだったのではないでしょうか。そういう枠組みを決めるにあたっての議論はほとんどありませんでした。
 ところが中身にふみこんでみると、米国がアフガニスタンでやっていることは、国連憲章に照らして認められた行動なのか、という基本的な問題があるわけです。これは国際法上、禁止された「報復」にあたります。米国は「個別的自衛権の行使」だといっていますが、はたしてそれに該当するのか、ということは何ら検証されていないのです。
 また、あの事件の実行犯とアルカイダの関係、そことウサマ・ビン・ラディン氏がどういう関係だったのか、さらにはタリバンとの関係がどうだったのか、そうした構造的なことから実際の犯行にいたるまで、ほとんど何も立証されていないわけです。また、立証されたとしても、ああいったかたちの軍事行動がどこまで許されるのか、ということも定かではありません。
 そんな状況の中で、NATOは「集団的自衛権の行使」であると宣言する、そこに日本が「後方支援」するということが、その集団的自衛権とどう関わるのか、集団的自衛権の行使ではないといえるのか、憲法の範囲内であるということを何を根拠にいえるのか、何も解明されていないのです。派遣した自衛隊をシビリアン・コントロールできるのか、そこにはどんな担保があるのか、実はわからないことだらけで、私としては賛成のしようがないというのが率直なところです。
 憲法、自衛権、国連憲章などという法律の枠組みからの見方と同時に、国益という観点からみても、今回の日本の役割はけっして軍事的なものではなく、やることはほかに山ほどあるはずです。直接の当事者ではない日本の立場から、もっといろんな角度から議論がなされるべきでした。しかも日本は、米国の自衛権の発動に対して集団的自衛権を発動するという関係にないのですから。

 ――シビリアン・コントロールについて広義に考えてみると、自衛隊の派兵を国会が事後承認するということは、これはかなり民主主義の危機ではないかと思うのですが、如何でしょうか。

 私自身も、今日の構造は戦前のあの大戦にのめり込んでいく構造と酷似しているのではないか、という気が実はしています。当時は軍部の圧力というものが国会議員の口を封じましたが、今は何がそうさせているんでしょうね。民主党の中でも、おそらく本音で投票しろということになれば、反対あるいは棄権の議員が半数はいたでしょう。自民党の中でも相当数その種の票が出てきたはずです。
 日本にジャーナリズムは存在するのかという議論もありますが、マスコミ自体、社の方針が決まって、各社すべて横並びで、新法ありき、派遣ありき、ということでは各社共通していました。取材に来る記者に、あなたの社はそれでいいのですかと聞くと、私はそうは思っていませんと言う記者は多いのですが、社の方針は決まっていて動かないと言うんですね。誰が決めたのかも定かでない。
 労働組合の状況はどうでしょうか。連合は反対なのか賛成なのか、よくわからない。逆にいえば、暗黙の了解を与えているということです。いくつかの産別や地域の支部が反対しているという話しで、労働組合運動総体としては、この流れを認めてしまっているということです。
 マスコミと労働組合が認め、国会では与党三党プラス野党第一党、そして自由党も認める立場なんです。自由党はきちんと憲法解釈を変えた上で自衛隊を派遣しろといっているわけですから。したがって反対なのは共産党と社民党だけ。そういう構造になってしまったわけです。しかも、アッという間に、です。
 まさに、民主主義の危機です。きちっと議論をつくしてその結論に立ち至ったのであれば、判断や評価はありますが、それはそれで民主主義の1つのあり方だと思います。私は反対しますけれども。それなしに、9月11日を契機に一挙にブレるというのは、日本ってそういう国なのか、という気がしてしまいます。同じ敗戦国でも、ドイツはもっと深刻な議論をしました。
 私は今、この事態を深刻に受けとめています。軍部の圧力もなく、命の危機にあるというわけでもない。何を言っても命をとられる心配はないんですから、今は。にもかかわらず、民主党内でさえまともな議論ができない。情けないですね。

 ――なぜそんな国会になってしまったと思われますか。

 選挙制度も大きく影響していますが、もう一つの問題点は、党議拘束です。党議拘束をしている先進国は日本くらいです。米国では民主党、共和党が入り乱れてクロス・ボーティングなんていうのは日常茶飯事です。欧州はアメリカほどでないにしても、日本でいう党議拘束などというものは実質的にはありません。
 私が一番注目しているのはドイツで、憲法にあたるドイツ基本法に「国会議員の表決は自由である。なにものにも拘束されない」という主旨の条項が入っています。ドイツ社民党も、キリスト教民主同盟も、「党の決定と異なる表決をしようとする者は事前に党に届け出ること」という規約をもっていますが、逆にいえば、届け出さえすれば良心の自由に基づき投票することができるわけです。
 なぜそうなったか。ナチス時代の反省をふまえ、戦後ドイツは、党や国家以上に、良心に基づく自己決定という価値観を根本にすえることから再スタートしたわけです。その価値こそが、まさに民主主義の原点だと思うんです。
 日本だと、会社の方針だとか、労働組合の組織決定だとか、それこそ党議拘束だとか、国策であるだとか、こういうものは逆らってはいけないもので、良心の自由などというものはそれ以下に位置するというようになっているのではないでしょうか。民主主義が根づいた国や社会と、そうでない国や社会との違いなのだと思うのです。
 良心の自由、自立した個人というものを基礎にした国、社会を、これから日本はつくっていけるでしょうか。それを阻害している大きなものが党議拘束だと思っています。また、こういう日本の国のあり方自体が、いまどうしようもなく行き詰まっているのではないでしょうか。
 経済、金融も、大蔵省主導の護送船団方式で破綻し、金融システムがズタズタになってしまった。中央集権のもとに公共事業が進められて、財政破綻により国がつぶれるところまできてしまった。それなのに、誰ひとりとして責任をとる人はいない。
 いま、小泉首相が改革、改革と言っていますが、求められている改革の基本は、これまでのような護送船団方式とか中央集権とか、みんなで渡れば恐くない式の構造から、一人ひとりが自己決定して自己責任を負う、地方分権、個人の自立というものを基礎とした国に構造改革することだと私は思っています。
 民主党は、個の自立を基本としながら、市民が主役というような言い方で、それを目指してきた。その民主党が党議拘束をふりかざして、党の国会議員のどれだけが執行部の方針を支持しているのか採決もせず、アンケートさえもとらず、上意下達で従わせようとするのは改革の党としてその資格を喪失していると、私は思います。非常に残念でならないですね。
 民主主義とは、いろいろあってこその民主主義で、いろいろあるなかから1つの方向に収斂していける場合もあれば収斂できない場合もある。できなければ、できなくていいではないですか。国論を二分しているわけですから。党議拘束をして表面をとり繕うという旧来型の発想から抜けださなければなりません。
 誰かが決めれば従うのは当たり前という、この全体主義的な構造は、先ほど私は金融や公共事業を例にとりましたが、文部省統制下の教育もその最たるものではないでしょうか。その結果が、学力の低下だとか、学級崩壊だとか、受験地獄だとかの状態を招いたわけです。
 誰かがどこかで方針を決めて末端まで貫徹するという教育ではなくて、一人ひとりの持てる力はすべて違うわけですから、その力をどうやって引き出し、そのための意欲をどうやって引き出すかが、真の教育でしょう。学力偏重教育は、人間を伸ばすのではなくて、殺してきたのです。
 その結果が、今日の日本の危機を招いているのです。

 ――戦後民主主義という価値観は、結局は根づかなかったということでしょうか。

 戦後民主主義は、一人ひとりの自立とか自己決定ということをあまり重要な価値観にしてこなかったような気がします。全体的に軍国主義の方向に向かうのではなくて、全体的に平和の方向に向かう、どちらも全体主義的な傾向があったと思います。一人ひとりの個人を基本にして、その個人がいかに自由に生きていけるか、それを社会としてどう保障しサポートしていけるかという意識は、戦後民主主義の中で極めて希薄だったのではないでしょうか。
 私は、戦後民主主義の負の部分について、そういう総括をすべきだと思います。全体主義のもろさは、左右を問わなかったというのが、歴史の教訓ではないでしょうか。

 ――大衆運動、市民運動については。

 全体主義的な運動に対するアンチテーゼとして、個人主義的な運動も発生してきましたが、その運動を広げてネットワークにして、一つの勢力に育てていくという意識が非常に弱かったと思います。個人にしても組織にしても、それぞれのどこがどれだけ異なっているかという違いを強調する傾向が、非常に強いように感じられます。違いは違いとしながら、共通点をさがしだし、力を寄せ集め大きな発言力を得て目的を達成するという発想が希薄なように見えて仕方がありません。
 自己主張することだけが目的化していて、結果を出すということについては、あまり考えていらっしゃらない。そういう意味では、政治にかかわるという視点がほとんどないのだと思います。政治にかかわるときは超党派のロビー活動として自民党から共産党まですべて対等にかかわる。それでは、政治にかかわったことにはならないのです。したがって、そういった大衆運動、市民運動が政治的な力になることはほとんどない。
 政治の場にいる者からすると、闘いになる勢力を結集していかなければならないわけで、日常活動の中、あるいは選挙になったときに、そういう運動のあり方では議員の政治活動にとってアクセサリーくらいにはなるかもしれませんが、プラスにもマイナスにもなりません。選挙のプラスにならないから、逆に敵にまわしても恐くはない、ということです。だから、民主党がそういう人びとを敵にまわすことができるわけです。
 ACTは、日本における緑の党の可能性を追求されているようですが、いま私が申し上げた条件を考えると、その可能性はどのくらいあるでしょうか。むかし「革自連」という市民の政治を掲げた潮流がありましたが、日本における知識人や市民運動の集合体というものは、残念ながら非常に弱い。それら一部の知識人や市民以外に、選挙を命がけでやっているのは、ゼネコンと特定郵便局長と農協と宗教団体、そして労働組合だというのが、日本の政治の現状なのです。

 ――自立した個人がつながり、運動がネットワーク化され、その上で政治的な力を持たなければならない。でも、その可能性はかなり厳しいとなると、また振りだしに戻って堂々巡りになりますが…。

 そうは言っても、諦めるわけにはいきませんからね。
 例えば、原発を止めると言っても、やっぱり政治なんですよ。電力会社は、労働組合から関連業界を含めて総動員して、政治的に動いているわけです。かたや原発を止めようと一生懸命やっている運動の側は政治的ではないですよね。国会内で原子力政策に反対して原発を止めようと一生懸命やっている国会議員は、さほどバックアップされているわけではないでしょう。孤立しているようなものですから頑張ってもツライですよ。

 ――昨年後半で、がっかりされて、お疲れになっているところですが、さて今年の抱負、あるいは提案も含めて、最後にお伺いします。

 やはり民主主義というのは政治の民主化ということだと思っています。ですから、みなさんそれぞれが政治にかかわらなければダメなんだと思います。政治にかかわらなくてうまくいくのであれば、それに越したことはない。でも、そんなうまい話っていうのはないですよ。やっぱり、手を染めないと、政治に。そういうかたちでの市民のバックアップがなければ、政治の民主化は実現できないのです。
 ご自分が立候補されるのも政治参加のひとつの表現ですし、積極的に候補者を支援して当選させるのもひとつの政治表現です。もし当選させた議員が信頼に足らないということになれば、別の候補者を出すなりして、落とす運動でもいいからやってほしい。
 良心に基づいた自己決定で市民それぞれがやっていただかないと、政治はそこにかかわった人だけで勝手に動いていくということに益々なっていくのではないでしょうか。
 市民運動と政党が直接的な関係を結ばなくても、もちろん超党派の運動でもかまわないわけですが、もう一面で、政治にかかわるときには、それぞれが主権者ですから、主権者が政治にかかわるツールが政党だ、というふうに考えてほしいのです。
 民主主義の原点は、結社の自由であって、昔はそれが禁じられ、あるときに許可制になり、それをどんどん広げてきた歴史があるわけです。その政治的な頂点に立っているのが、政党結成の自由なのです。その政党結成の自由という権利を、ほとんどの人が行使されていない。今ある政党がそれに足るものでないということは、私もよくわかっていますが、放置しておけば余計に悪くなると思います。
 市民が主役の政党ができないと、政治は変わらない、ということかもしれませんね。

金田議員のWebサイト◆金田誠一の「良心宣言」 http://www.hotweb.or.jp/kaneta/
金田誠一テレホンメッセージ◆TEL 0138-40-3030
(初当選の翌年1994年元日の第1号から、2001年11月11日号で408回を数える)
金田議員のメールアドレスkanetas@hotweb.or.jp

いずみ

 本紙前号で、東芝府中の松野哲二さんが、これほど人の命が軽んじられている時代に「新年おめでとう」なんて言えるかい。賀状はもうやめた、と言っておられる。
 私は、500枚ほど賀状を出すが、冒頭の挨拶は「あけましておめでとうございます」と書く。母や、つれあいの両親が亡くなった年にも、慣行の「喪中につき」に従わず、賀状は出した。
 この歳になると、賀状は何十年も会っていない人の安否の確認と、近況報告のために必要なのである。松野さんと同じ心境ではあるが、今年もせっせと出した。もっとも当たりクジを調べるのは根気がなくなって、やめて久しい。
 内閣府調査が発表された。「悩みや不安を感じている」人は65%で過去最高。対して「感じていない」人は過去最低だが、それでも33%もいる。今後の生活の見通しについては「良くなっていく」が、これまた過去最低の6%、「悪くなっていく」は28%。 興味深いのは働く目的である。2年前の調査までは「生きがいを見つけるため」がトップだったが、いまや「お金を得るため」が断トツの1位である。仕事の選り好みなど言っておられない、食うのが精一杯というのだ。
 この国はかなり前から上位3割と下位7割に分化しているが、人びとの意識においても、ようやく「総中流意識」の幻想から醒めたということだろう。それでも「不安を感じている」65%と、「今後の生活が悪くなる」28%との間には大きな開きがある。
 小泉首相の高支持率を支えているのは、上位3割と下位の4割である。下位に足を引っぱられたくない上位が構造改革を支持するのは当然にしても、切り捨て対象の下位までが幻想するのは悲しい。
 1000万円をこえる世界一周船の旅が一週間で売り切れ、10万、20万のおせち料理がとぶように売れる。家なく職なき人が寒空に放り出され、自殺者が年間3万人をこえるこの国でである。同じ現象は世界中に見られる。
 でも、ペシャワール会に3億円も寄せられた。希望をもって、おめでとう、と言おうではないか。

                                                         小寺山康雄    


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