一坪反戦通信 Vol.79 一坪反戦通信 79(1996.10.21)

軍用地を生活と生産の場に!
No. 79
1996年10月21日
東京都千代田区三崎町
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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック


 ◆本号の主な記事 ◆


 関東ブロックでは来る11月23日(土)の正午から日比谷野外音楽堂で大集会を開く。総選挙の争点からも「沖縄」ははずされて、まるで「もう終わった」かのようにさわいでいるが、どっこいそうはさせない!

 強制使用手続の公開審理も迫ってきている。しかし基地の整理・縮小なるものは話だけで何も実行に移されていないのだ。


基地も安保もない未来を!

11・23 日比谷大集会に結集しよう

 大田知事は何を考えて公告・縦覧を代行する気になったのか知らないが、橋本首相がそれですっかり元気になって「沖縄は終わった」と国会解散を断行したのは間違いない。9月30日には「政府の努力を沖縄県が評価し、大田知事が公告・縦覧を行うことを表明したことで一定の収束をみた」として『日米安保と沖縄・基地』という政府公報を掲載した(毎日新聞)。他の全国紙も同様であったという。

 政府は「沖縄は終わった」という立場で、マスコミもほぼそれに追随して、派遣していた現地駐在員を引き揚げはじめているという。8日の公示以降は世は挙げて選挙一色に塗りつぶされて沖縄のオの字も出てこなくなるだろう。しかし、この一年間私たちが、そして心ある多くの人々が訴えてきた問題は何ひとつ解決したわけではない。県道104号越えの実弾演習は継続されており、本土移転の受け入れ先も受け入れを了承してはいない。全面返還のアドバルーンを高く打ち上げた普天間基地についても、海上のへリポート案が話題に上っているとはいえ、まだ海のものとも山のものともつかない話。海に浮かべて台湾までも引っ張っていくという話もあり、それでは航空母艦も作ってやるようなものだとの批判が政府内部でもあるらしい。いくら何でも航空母艦を作ってアメリカにくれてやるというのでは、安保好きの国民でも納得しないのではないかと防衛庁が心配しているという。

 今われわれに必要なことは、問題は全く終わっていないこと、米軍用地の強制使用に対する闘いの本番はこれからだということを声を大にして訴えることだと思う。もっと早く、本当に明日にでもやった方がいいのだが、会場が取れなくて11月下旬になってしまったが、一大イベントをぶち揚げて、天下の耳目を引きつけようではないか。4月16日の雨の代々木公園でのように「安保を破棄して、沖縄の米軍基地を生活と生産の場に取り返そう」という声を首都の秋空に響かせよう!


                (上原成信) 


成功した反戦地主との交流

「語やびら・キャンペーン」


  最高裁判決と県民投票をへて、軍用地の強制使用手続きが次第にヤマ場へ迫りつつある決定的な局面だった9月16日から27日まで、開催した9カ所での反戦地主との交流キャンペーン(「語やびら!」(語りあおう!))は、予想以上の参加者がつめかけ(延べ3,000人)多数の質問に沖縄からの反戦地主が「回答」するなど大成功であった。ふだんは参加できない一坪の反戦地主の参加もあり、タイムリーな企画であった。

 さらに各地域の実行委員会で企画されたこのキャンペーンの合間に、労組の大会(三件)や自治労都職労(11カ所)をはじめ各機関・会議などで反戦地主のアピールが積極的に要請されるなど、意外な成果もたくさんあった。

 東部や三多摩など、参加者がそれぞれ450人、300人近くなるところがあったものの、150人程度のところでは反戦地主と膝をつき合わせての会話ができたばかりでなく、唄・踊りで沖縄の「姿」を沢山の人々にも披露できた(あんまり盛りだくさん・欲ばりすぎでたいへんだったところも……)。また支援の運動をめぐって「論争」となり、真剣な発言があいつぎ、意義のああるものとなった。

 またふだんはあまり報道されないのに、この交流を報道した地元の新聞もあった。この交流キャンペーンに沖縄から参加したのは有銘政夫さん(違憲共闘会議・議長、反戦地主)、宜保幸男さん(違憲共闘会議・前議長)、照屋秀伝さん(反戦地主会・会長)の三人。ほとんどの交流会で、9月13日に大田知事が公告・縦覧を応諾したことについて質問がでた。「どうして知事は0Kしたのか」「今後どうなるのか?」「運動の方はだいじょうぶか?」といった内容。

 沖縄からの反戦地主らは「私たちとしては残念。抗議の声明も出した。もっとがんばれた、とは思う。しかし知事はここまでよくやってきてくれた、という側面もある。知事を糾弾するということにはならない」と回答した。

 交流の参加者からは「まずいことははっきり批判すべきではないか?」「ヤマトでの運動を強化させることこそが連帯ではないか?」など、発言もいろいろな観点からあった。

 地域の沖縄出身者が参加、深夜まで盛りあがったところもある。また会場でのカンパがたくさん集まり、反戦地主基金へ送金されたほか、沖縄の地元紙への意見広告運動からも多額のカンパが届けられた。

 また、県道104号越え実弾射撃演習の「移転先」候補対象五箇所のうち、宮城県の王城寺原(おうじょうじがはら)の住民による移転反対運動との交流も行われた(宮城県・色麻〔しかま〕町現地で9月23日、参加者60人)。講演した照屋秀伝さんは「私は沖縄へ帰ったら、ここの美しいすばらしい自然のことを報告します。海兵隊が来て破壊することのないよう、ともに力をあわせようではありませんか!」と訴えた。


三多摩集会

労組・市民の力で300人参加


  9月18日立川市民会館でおこなわれた集会の主催は「沖縄反戦地主を支える三多摩の会」で、集会名称は「特別立法反対沖縄の心を全国へ!三多摩集会」です。

 この集会には、300名集まりました。あとで集会を運営する側から、うまくいった、よかったという感想がありました。集会を準備する段階では、集会の参加動員に不安がありました。なぜなら、よびかけのチラシを作るのが大幅に遅れてしましったからです。9月に入ってから宣伝するのでは、あまりにも時間が短い、これでは会場に空席の目立つのでは、と不安をもちました。しかし、集会当日は会場に多くの人々が集まり、席に座れないひとがいました。地域で沖縄を課題にした集会の動員で300名ははじめて、ということを聞きました。

 集会の成功の原因は、主権側の労組、市民運動団体の協力が一番大きいと思います。主催した実行委員会は、9月30日に総括会議を行い、次のように総括・感想を出しました。

 1. 結論からいえば、成功であった。市民と市民団体、労働組合が共同で行い、300人を集めたことは、近年の状況からすれば画期的ともいえる。
 2. 事前のチラシなどの準備が遅かった。次回何かに取り組むなら情宣を早く。
 3. (代表あいさつで)福本さんの横田基地に対する取り組み報告の時間がもっと欲しかった。
 4. いい集会だった。この実行委については、何らかの形で継続すべきだ。

 以上のことから、実行委の継続と、今後の具体的な取り組みの一環として沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの予定する11月23日の集会にむけて取り組むことになりました。

                (文責 瀬底)


早すぎた “決断”

大田知事 公告・縦覧代行表明


  歴史的な県民投票から五日後、大田・橋本会談から二日後の9月13日、大田知事ついに公告・縦覧代行を表明。

 「将来に活路で決断」の活字に一瞬息をのんだ。人間、来る来ると思いつつ、いざとなるとやはりショックである。知事も大変だよね、がんばったよね、行政の限界だってあるさ。そう、自分に言い聞かせてはいたが……。それにしても早すぎる。二週間前の8月28日、最高裁はたった15秒で、上告棄却の四文字をもって51年間の沖縄の想いを蹴ちらしてしまった。翌日、知事は「自らの生活・将来は自らの手でつくっていくしかない。今一番欲しいのは自立である」と言っている。行政のみか、司法の限界も見せつけられた率直な感想である。

 では、沖縄の人々はどうだったのか?沖縄タイムス社の調査によれば、回答した人の67%が「判決に納得できない」としており、「代行拒否を続けるべき」は64%、三人に二人が知事の姿勢を支持している。中でも21世紀を担う20代では78%を占めたという。さらに、県民投票では有権者の過半数が基地の過重負担に“ノー”の意思をはっきり示した。

 一方、4月に橋本首相が必死で合意をとりつけたという「普天間返還」は何のことはない、県内移設を条件としたものである。縮小どころか、強化・拡大につながる様相を見せており、全移設先住民から総スカンをくらっている。

 それなのになぜ?と思うのである。

 県はこれまで訴えて来たにように、基地の縮小が目に見える形で示されない限り、公告・縦覧代行拒否の姿勢を貫くべきではなかったか?

 沖縄に押しつけられ、諸悪の根源となっている基地を素通りして、将来にどのような活路を見い出そうというのか? 県民のあずかり知らない“高度な政治判断”は、日本政府だけでたくさんである。
                         (野口)


公開審理で強力な反撃を その1

防衛施設局側に助け船を出していた5年前の収用委員会


 私たちの共有地強制使用手続きのヤマ場、公開審理が近づいてきました。地主の思い・反戦の思いを口頭で述べることのできるチャンスです。もし東京開催が実現できたら、それを発言・訴えの場にしていこうではありませんか!

 関東ブロックでは「公開審理対策」の学習会を近く開催します。模擬「公開審理」も企画中です。

 そこで5年前の公開審理の時のことを、ふりかえってみると……。

 89年の夏ごろから那覇防衛施設局によって強制使用のための「予約契約」というインチキ契約方法が始まっており、翌90年6月に強制使用手続きが始まった。

 公開審理はその翌91年8月14日に開始され、8回開催された。そして9回目が92年2月6日に予定され反戦地主と那覇防衛施設局・収用委員会との間で散しい論争が続けられていた。

 しかしその一週間前の1月31日、ついに収用委員会は「裁決の機は熱した」として公開審理の打切りを一方的に宣言、会長は行方をくらました。そして2月12日に強制使用5年の裁決が出された。

 

審理の資格めぐり紛糾

 当時それまでの「対ソ脅威論」はソ連崩壊で現実性がなくなっており、日米安保条約にもとづく米軍用地提供も「適正かつ合理的」な根拠はもはやなくなっていた。この点でも地主側は従来以上に強く申請却下を主張した。

 第1回の冒頭から「前審関与の委員は除斥せよ!」と地主側が要求。宜保収用委員長は「その必要はない!」とこれを退けたため、大もめにもめた。

 この地主側の要求は、施設と地主が違うだけのやはり米軍用地の強制使用裁決申請が10年前と5年前に二度あり、「この裁決に関与した委員は今回の審理に加わる資格がない」という趣旨の要求。裁判では裁判官の中立をはかるため同一趣旨の事件には判事も交代させるのが一般的だ。しかもこれまでの裁決は、国・那覇防衛施設局の主張をまるっきり追認、「契約拒否地主はほんのわずかに過ぎないから、強制使用でもそれほど問題ない」としているため、その同じ収用委員による審理ではとても中立性・公平性が期待できないと、地主側は除斥を要求したものだ。

 宜保収用委員長は理由も示さずにこれを拒否。地主側は「除斥しないのなら委員を忌避する」、それも「必要ない」のなら委員は自ら回避すべきだ、と喰いさがった。地主側は、この要求には収用委員会自身によるこのような「前審関与は避けて中立・公平を確保すべき」だとした文書の存在も根拠としてある、と粘った。  しかし宜保収用委員長はさっさと那覇防衛施設局の意見陳述にもっていこうとして、「委員は回避もしません」と発言。この「回避」は各委員が自らするものなのになんと各委員の意思も確認せず代行発言するありさまであった。

 冒頭からこの状態で、手続きをめぐる論議が激しく続いた。反戦地主が「命(ぬち)どぅ宝」を合いことぱに「自分の土地は、沖縄戦の教訓からして軍用地に使わせたくない!」と発言する、その手前での論争が第一回と第二回の公開審理となった。

 

聞こえなくてもわかった?

 そしてついに第3回(10月17日)、起業者・那覇防衛施設局による意見陳述が強行されてしまった。この時会場は騒然となり、抗議の声が渦巻き、ほとんど何も聞きとれなかった。

 宜保収用委員長は那覇防衛施設局から同一趣旨の書面提出もあったから、聞こえなかったとしても収用委員会には意見は届いた、と主張。たしかに収用委員会による当日の議事録には、この提出された書面と同一の意見が載っていた。おそらくはその部分だけ録音テープによらず作成されたのであろう。だから、この時宜保収用委員長は「静かにして下さい!」とか「聞こえませんので、静かに!」と言ったのにそれが議事録に載っていないのはどうしたことか、と次の第4回の公開審理では地主側から追及された。

 この意見陳述が騒然とした中で強行されたとうい事実自体、那覇防衛施設局の反沖縄的性格と収用委員会との一体性がよく示されている。地主側から「ウチナーンチュ同志でこんなに争わなくてはならない事態を引き起こしている責任は、あげて軍用地強制使用をしようとする那覇防衛施設局にある。しかもそれにき然とした態度をとらない収用委員会にもっと問題がある!」という怒りを込めた発言があった。
                  つづく


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