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 第182号(2006年10月28日発行)

「琉球救国運動」が現代に問うもの

『うるまネシア』第8号紹介


続けられていた琉球の併合抵抗

——再評価される琉球の自己回復運動——

 『うるまネシア』第8号の特集をたいへん興味深く読んだ。この特集は、19世紀末、琉球処分前後における琉球人の「琉球救国運動」を扱っている。1876年、琉清関係を初めとする他の地域との外交権が明治政府によって剥奪され、琉球の解体と沖縄の日本統合が本格的に始動した時期に、こうした窮状を伝え支援を求めようと幸地朝常らが名護から清へ向けて出航してから、今年はちょうど130年目に当たる。

 この時期、西欧の近代資本主義国家体系による市場開放・植民地化の圧力を受けて、東アジアの国際関係は従来の華夷秩序を中心とする構造から大きく変化し、日本は近代国民国家の形成を急速に進めた。

 それまでの幕藩体制では、琉球が薩摩の支配下にあるとしながら中国との冊封朝貢関係も同時に維持していたが、明治政府は西欧の近代国際関係における国境概念・国家概念を積極的に取り入れ、アジアの交易地として独自の立場にあった琉球をその意志に反して統合の対象とし、朝鮮・中国を植民地化した。そして、日本は自らが帝国主義化する中で、東アジアにさまざまな亀裂と断絶をもたらした。

 清で救国運動を繰り広げた当時の琉球人の活動は、「脱清」と呼ばれてきた。しかし、単に清に亡命するのではなく、在京の外国公使に向けた救援要請や県政不服従を血判で宣約する運動とも有機的に結びついた組織的な抵抗運動であった。明治政府は通商における対清不平等条約とこの国境問題をリンクさせ、沖縄を分割する案も提示して清と交渉したが、亡命琉球人の清における必死の請願が李鴻章に影響を与え、条約調印は阻止されたと指摘する研究者もある。

 政府は渡清行為を取締り、戻った者を拷問にかけて運動を弾圧した。最後の琉球王尚泰自身に、明治政府への忠誠を表明すると同時に脱清者を批判する発言を行わせ、運動の沈静が図られた。その後、琉球復旧の運動はひとくくりに「時代錯誤」の「頑固」とされ、社会から孤立化させられていった。

 研究においても、旧支配体制の自己保身的な運動と否定的に捉えられたこともあった。しかし、その動きの独自性は否定できず、統合への抵抗は社会の中に通奏低音のように残った。「脱清」における請願書や取調べ調書などの資料分析が進む中で、当時の国家意識・体制意識に規定されつつも日本の統合に対する抵抗、琉球の自己回復を求める「救国運動」として再評価されている。

 興味深いのは、特集の中で、こうした救国運動の評価が、反復帰の思想と重ねられ、また現在の日本との関係を批判しつつ、提示されていることだ。現在、そして将来の沖縄の「独立」に向けて、救国運動を積極的に位置づけようという意識が見られる。今回の知事選に向けた、琉球独立党の復党と立候補も話題となっているが、選挙としてはやはり実際の公約を検討しなければならないだろう。

 現実の「民族自決・自主独立」は公式どおりには行かず、むしろ国際関係のもたらす影響が大きいわけだが、米軍基地問題に見るように、国際問題を国内問題として処理するような不条理さが強いられ続けている状況は、「独立」という「抵抗の文体」の「発明」を不断に求める。それは同時に、今所属する日本国家の民主主義の問題でもある。

 この特集の副題が「第四回世界ウチナーンチュ大会記念」となっているように、越境した「救国運動」の可能性が論者たちの意図する所かもしれないが、その動きは翻って、世界的な平和と民主主義の実現に向けて、沖縄の「自主独立」の果たす役割が問われる事にもなるのだろう。
(会員 M)