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 第180号(2006年7月28日発行)

【連載】
私の垣花(かちぬはな)物語 その(7)

語り 上原成信(関東ブロック)

編集 一坪通信編集部

 7月5日のテポドン報道の騒ぎは、大本営発表を思い出させた。NHKは朝の連続ドラマまで吹っ飛ばして、一日中この報道で持ちきりだった。他のテレビ局も似たり寄ったりで、国中に、国民全部に次にはどの種類のロケットが打ち出されるかを注視させた。まるで戦争でも起こったような騒ぎ方だった。安倍官房長官や額賀防衛庁長官が、アメリカの情報に踊らされて右往左往するのは仕方ないとして、マスメディアはもう少し主体性を持った報道ができなかっただろうか。いま、進行中の「国民保護法」によってマスメディアは政府が配布する報道を「正確に」「速やかに」放送する責任を負わされるらしい。背筋が寒くなる。今回大騒ぎをしたマスコミはテレビも新聞も、波が退いた後は自らの報道姿勢に対して何の反省もない。


 ☆古堅宗憲のこと

 私が東京沖縄県人会の事務局長になったのは復帰四年目の七六年。いろんな経緯があって引き受けた。会長、副会長というのはある意味誰でもやれる。事務局長というのは汗を流してやる仕事だ。復帰前、古堅宗憲という男が、それは苦労して県人会活動や復帰運動に取り組んでいたが、六九年一月九日、日本青年館の火事で亡くなった。運動の結果もみずに死んでしまった彼のことを思うと、事務局長をやる人間がいなくて県人会がつぶれたんじゃ、古堅に申し訳ないなあという気持ちがあった。

 その時の新聞に屋良朝苗の「大切な人を失った」というコメントが出ていた。中野好夫は古堅の故郷伊江島に建つ記念碑に文章を寄せているし、大江健三郎は『沖縄ノート』(岩波新書)で古堅について書いている。東京でのウチナーンチュの運動を、彼がいかに下支えしていたかということだ。


 ☆県人会活動の変化に危機感

 事務局長時代は目まぐるしかった。初代会長神山政良、その次の会長喜納浩が続いて亡くなり、二日連続の葬式に、私ひとりで二通の弔辞を書かなければならなかった。副会長は何人もいたのに誰も手を出さなかった。

 復帰運動と軍事基地撤去を両輪にして、県人会の活動は組み立てられてきていたが、それまでの指導者たちが亡くなったあとの県人会がどうなっていくか、考えざるを得なかった。

 活動方針にはまだ基地撤去が掲げられていて、県道一〇四号を封鎖して恩納岳への実弾射撃演習が開始されたので、会長(その時は三代目の新崎盛敏)や副会長を引き連れてアメリカ大使館に乗り込んで抗議した。

 しかし、時代は変わりつつあった。県人会も微妙に変質し、右にぶれていくのは見えていた。幹部連中がガラッと入れ替わるのは時間の問題だった。それに対抗するためには正義感を持った若い人たちの層を厚くし、一握りの幹部だけでは方針を替えられないようにしようと考えた。青年部の必要性を会議にかけたが「青年部を作ったらゲバ棒を持って何をやり出すかわからん」と初めのうちは取り合ってもらえなかった。


 ☆青年部、ゆうなの会、エイサー

 初めは青年部とは言わずに、バレーボール大会を青年たちに企画してもらった。青年部には反対していた幹部連中もバレーボール大会ならと納得させることができた。何回かやっているうちに、次第に青年部主催ということになっていった。それが数年のうちに「ゆうなの会」と合体してエイサー中心の「あしば祭」に変わり、二〇年近く続いている。

 東京で最初にエイサーをやったのは「ゆうなの会」。最盛期には都内で五支部もあった。彼らはそれなりの意識を持っていて、県人会は体制順応でダメ、オレたちは自力で青年同士の相互扶助をやるという意気込みがあった。県人会青年部に合流しないかと持ちかけたが、一蹴された。県人会の活動は沖縄から来た青年たちにとっては何の役にも立たないと決めつけていた。

 エイサーといっても型はいろいろあり、「ゆうなの会」はパーランクーを叩き、青年部は締太鼓だった。私が育った那覇にはエイサーはなかったので、県人会事務局長になって初めて東京で沖縄中部のエイサーというのを知った。青年部と「ゆうなの会」はそれぞれの型を維持しながら、いつか合同するものと期待していたが、「ゆうなの会」が数年で消滅してしまったのは意外であった。

  青年部は継続しているが、歌三線だけにのめり込んで、基地問題などに対する関心は薄らぎ、県人会の右傾化を阻止するという私の目論見はつぶれかかっている。


 ☆六〇年代初めの若狭町風景

 一九六〇年代初め、与那国中学校から転校で那覇に出てきて若狭町に住んだ大仲尊の話を紹介しよう。──若狭は当時、重民町と呼ばれ、家賃が安かったのでそこで下宿なり自炊生活をしていた。埋め立て地に造られた町だからか、木や花などの緑がほとんどなく、おまけに町を流れるガーブ川の汚さには心底驚いた。あのころが川の汚染度がもっとも酷かったのではないか。イヌやネコ、魚などの死骸が浮かんでいたし、臭いは表現できない程臭かった。便所みたいな川だったね。住人は垣花の人ばかりで、海人の流れをくむという儀間や国吉とかの苗字がやたらに多く紛らわしいので、みんな名前を呼び合っていた。コウエイとかタカシとかね。
 すでに軍用地料が払われていたのか、昼間から働かずにブラブラしている兄さんやおじさんが多かったのも、子どもの目には不思議だったよ。



(註・本文冒頭は上原自身が書き、後半の回想部分は編集部で聞き書きをまとめた。次回以降、同様の構成で続く。)