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『一坪反戦通信』
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 第178号(2006年5月28日発行)

連載

私の垣花(かちぬはな)物語 その(5)

語り 上原成信(関東ブロック)

編集 一坪通信編集部


 インド洋には、島全体が巨大な米軍基地と化したチャゴスという島があるらしい。島の人々を強制移住させて造られたという。まず、イギリスが植民地化し、次にアメリカに貸与したのだとか。
 チャゴスを沖縄に、イギリスを日本に置き換えてみよう。「沖縄の米軍基地再編」「日米合意」を目にした時、真っ先に頭に浮かんだ構図がそれだ。

 一九四五年、沖縄は戦場になった。上原成信の父親の遺骨はない。

◆政府の詐欺行為

 去る五月一五日の集会に沖縄から招いた平良夏芽牧師は、「命がけでやってボーリングは阻止できたが、今から振り返ると日米政府に踊らされていたのかとも思う」と言っていた。あれだけ苦労した結果が「v字型滑走路二本」という悪夢のような日米合意になっては、そう言いたくもなるだろうが、平良さんたちの「非暴力実力阻止」行動に防衛施設庁がギブアップしたのも間違いない。政府の施策を民衆の手で潰すことができたという一つの実績ができたのだから、自信を持って今後に対処しようと励ました。

 五月一一日のテレビ放送で「政府案を認めたのか」という記者の質問に「絶対にそうではない」と、稲嶺知事は力を込めて答えていた。ところが防衛庁長官は岩国市長などに、沖縄も合意したのだから空母艦載機の移転を受け入れて貰いたいと、嘘をついて説得しているらしい。詐欺行為である。耐震設計の偽装だけでなく、政府の詐欺行為に対してマスメディアはしっかり追及すべきだと思うが、どこも取り上げてない。


☆ヤマトゥグチ(日本語)が話せなかった 母親が再び疎開・・・

 母は明治生まれでヤマトゥグチ(日本語)は、こんにちは、おはよう、ありがとうぐらいしかわからない。私と兄が家にいる間はいいが、二人が家を空ける昼間は兄嫁とその母親の三人だけで会話もできないから、ひとりポツンとしていることになる。それに東京の寒さは厳しく、沖縄から来ると相当にこたえる。

 一冬越した翌年春、所在なげにしている母親に、友人から聞いた宮崎県の大島町の話をした。「沖縄から疎開してきたウチナーンチュが大勢いて、ウチナーグチ(沖縄語)も通じるよ」と言ったら、そこに行きたいと言う。それで母親と弟を宮崎へ連れて行った。宮崎市郊外にある大島町には沖縄疎開者用の集団住宅が建てられ、百人ぐらいが生活していた。

 その頃は沖縄とはまったく連絡がとれなくて、マスコミの報道以外に情報はなかった。そのマスコミ情報も大本営発表だけで、沖縄は大変なことになったという程度の情報しかなかった。親類縁者などの消息を知るすべは全くなかった。

 母親は敗戦後すぐの八月末に、この地で急死してしまった。
 

☆鮮烈だった徳球の演説

 沖縄出身の共産党書記長徳田球一が四五年に刑務所から出て、四六年に衆議院議員になる。その時の選挙演説をラジオで聴いて目からウロコが落ちる℃vいをした。扇動的な演説で、これまでの権威、特に天皇をクソミソにやっつける内容はほんとにそうだよなぁと思ったものだ。

 私らが受けた教育は「天皇は神様だ」という教育だから、「かしこくも」と言う言葉が出るとパッと姿勢を正す。次にくる言葉が「天皇」だから直立不動になっていないと教官に殴られる。そういう形でしか天皇というものにつき合いがないからタネを明かされると、な〜んだとなったのだ。

 それまで日本を牛耳っていた連中は追放され、共産党や労働組合が力を持ち、「明日は革命だ」という気分が高まって、胸がワクワクした時代だった。天皇制批判も誰はばかることなく行われた。夜学から帰って貧しい晩飯を食いながら聞いた徳田球一の激烈なアジテーションは今でも印象に残っている。
 

☆米軍占領下、帰沖できなかった沖縄人
 戦後、在東京のウチナーンチュの先輩方が奔走したのが海外から引き揚げてきた沖縄人の支援だった。沖縄に帰りたくても米軍が入域を許さず、引揚船が着いた地に住みつくしかない人たちの救援をどうするかが大問題だった。それこそ衣食住にわたってのことで、横須賀の兵舎を払い下げてもらって住居にしたり、マッカーサー司令部に泣きついて日本軍の軍服を払い下げて貰ったりした。

 沖縄県人会の活動は各地域に特色があり、関西では戦前の早い時期に結成された。「朝鮮人と琉球人お断り」とされる劣悪な社会環境のなかで、沖縄からの出稼ぎ者が受ける低賃金や首切りに対して、団結して労働条件を守るという、労働組合の役割までも、県人会活動で担っていたのが大阪を中心とした関西県人会だった。

 関東では鶴見、川崎に関東大震災後の復興作業の労働力補充で沖縄からやってきた人々が住み着いた経緯があって、県人会組織としては、東京より歴史は古い。


☆県人会の「復帰運動」時代
 東京沖縄県人会の結成は一九五六年九月九日。沖縄で島ぐるみ闘争が始まった直後のことだ。プライス勧告反対を日本政府に訴えに来る沖縄代表の受け入れ窓口が必要だった。東京沖縄県人会というのは「復帰運動」を推進するために作られた組織といっていい。

 六〇年代は、東京県人会だけでなく鶴見、川崎の県人会も一生懸命復帰運動をやった時期で、日比谷あたりで復帰問題についての集会があると、県人会の旗を押し立てて、労働組合などと一緒に集会やデモをやり、メーデーにも「沖縄県人会」の旗が翻っているというそんな時代があった。
(つづく)