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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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『一坪反戦通信』
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 第177号(2006年4月28日発行)

 V字型滑走路合意


 防衛庁は名護市・宜野座市と「修正」と称するV字型滑走路の沿岸案で合意書(付録・講演資料四頁参照)を取り交わした。V字型だと上空飛行は回避できる地区もあると、防衛庁は自画自賛。しかしメインとサブの滑走路を米軍が実際に区別して飛行・使用することはほとんど考えられない。伊波宜野湾市長が言う通り、もし米軍にそんなことができるなら普天間の騒音環境は一変しているはずだ。それに埋め立て面積も当初案より大きく、工事業者がほくそえむ「修正」である。

   那覇空港と防衛庁前で抗議の行動 

 沖縄では去る四日から市民共同行動などが名護市長らの上京に抗議した。関東ブロックなど辺野古実行委員会でも去る四月四日以降、東京市ヶ谷の防衛庁前で抗議行動を行なった。

 去る四日、那覇空港では末松助役がJALの入り口(金属チエック)を通らずにいきなり出入り禁止のドアから入った。市民共同行動も無言で約二十数名がそこに向った。廊下で、「島袋市長様、辺野古の海上基地を受け入れないでください」と書いた紙を掲げてたたずんでいた。警備のガードマンが「そこは入室禁止区域ですから出てください」。いたずらに「乱闘する」のも、無意味なので引き上げた。横断幕を「入り口の前で」広げて、帰りを急ぐ観光客に訴えた。すると、またガードマンが来て、「そこで横断幕を広げるのは禁止されています」。県外で活躍したチームを歓迎するのと同じように「短時間ですむから」と無理やり理解してもらった。

 東京・防衛庁前では午後三時過ぎから、約三十人で抗議行動(七時過ぎまで)。

 また去る六日、稲嶺知事への要請行動。二時三十分県庁ロビー集合、三時から「十五分間」の要請交渉。那覇で行えることは、那覇近郊の人でということで、名護市役所の中庭には、北部地域の人々が「市長への面会を求めて」座り込んだ。

 県庁では調整監が対応した。部屋が満杯なるまで詰めこんむ。「沿岸案を認めず」、従来案(海上案)以外なら「県外」と言う「知事の考え=スタンス」は、かわっていないかどうか確認した。「県議会でも表明したようにそのスタンスには現在も変更はない。また政府及び関係閣僚にもそのスタンスについては十分に伝えている」とのことだった。

 従来案は、消え去ったのではないかと言う問いには、「実質的には消えたと理解しているが、手続き的に残っている」との見解だった。「沿岸案=政府案」、「名護市のバリエーション案」「知事のスタンス」があり、三つの土俵があるので、解決は困難である。「県は、修正案はだめだ」ということを名護市にはっきりさせている。

 「県も地元」と知事は明言しているのだから、九十%以上の県民の意向を汲んで、知事の方から「名護市へそんな交渉やるな」とか「はっきり言うべきではない」かと申し入れた。しかしそれぞれの自治体の独自性も尊重しないといけない、とかで逃げられた。

 県の態度は、名護市へ交渉させて決着すると、「地元がOKなら、仕方がないから県も地元の意向を尊重して了解する」と責任転嫁をしているようにも見受けられる。普段と違って、付き添いの「十五分です」を振り払って、本日はゆっくりとしかも丁寧に対応してくれた。しかし自民党の対応を見ていると、「名護市のバリエーション」までは、「譲り」そうにも見え、懸念される。

 七日は、午前八時三十分から那覇空港で待機行動。防衛庁前では午後三時過ぎから宣伝カーで参加者(十八人)のリレー・トークを行った。四時前に市長は正門からでなく、裏門から入門。七時四十分に、額賀・島袋会談ではV字型の「二本の滑走路」で合意したと報道。がっかり。

 八日はこの案を軸に、稲嶺県知事が防衛庁に来た。防衛庁前行動は参加者三十三人。知事は午前八時三十分に那覇を発ち、十一時三十分から額賀長官と会談に臨んだ模様。午前十一時過ぎから防衛庁門前でシュプレヒコールとリレー・トーク。

 「長官らが市長や知事をいじめているのは不当」、「防衛庁は『悪の巣窟』だ」、「V字型の2本滑走路で合意と聞いて頭にきた」などの発言が続きました。突風が吹き始め、雨も降り出しましたが、「知事は騙されるな! 防衛庁は圧力をかけるな!」のシュプレヒコール。 関東ブロックの上原さんが「知事にはこの声が届いている思って言うが、知事は沖縄県民の代表。県民の九十%が反対しているのだから、沿岸案に合意はすべきでない。拒否するのがむずかしかったら、せめて継続扱いにすることを望む」と防衛庁の方に向ってメッセージ。知事はおそらく長官室で今も「いじめ」にあっていると思われたが、午後〇時二十分に行動終了とした。

   地元いじめの「悪魔の手口」

  五日(水)に名護市長は昼間どこにいたか? 夕方には那覇に帰ったものの、翌六日(木)昼間何をしていたのか? 宜野座村長も五日(水)に東京に来てどこにいたのか? 七日(金)に北部四町村首長は東京にいたが、何をしていたのか? 

 なんと八日(土)も四首長は東京にとどまり、額賀・稲嶺会談の後半に同席したそうだ。九日の産経新聞が「四日に市長は確認書に合意した」模様と書かれていた。

 これらをつなぎ合わせると、
 ●四日(日)午後七時からの額賀・島袋会談で(たぶんV字型滑走路の件も)合意ができていた可能性がある。しかし記者会見では伏せていた。
 ●五日(水)昼間に市長は宜野座村長と東京で合流、防衛庁で名護市に続いて宜野座村も確認書に密かに合意した可能性がある。一千人の村民大会の実に翌日である。同日夕方には沖縄へ戻った。
 ●六日(木)昼間に市長らは県の関係政党、関係機関などに合意を密かに報告した模様。
 ●七日(金)市長は防衛庁で夜七時三十分過ぎに市長・長官がV字型での確認書合意を記者会見で公表。四首長も東京に来て、合意を再確認。翌日まで東京にとどまるよう、防衛庁は沖縄へ帰さなかった。
 ●八日(土)午前から知事は長官から合意するよう要請。後半から同席した四首長も「私どもも合意できます。知事もどうぞ」という舞台が防衛庁によってセットされていた。

 これらは防衛庁が県の関係政党、関係機関などとも連携しながら、周到にお膳立てしていたと考えられる。市長に合意を迫り、村長らも合意に導き、知事を包囲して合意へ誘う。うっかり首長はこの悪魔の手口に乗ってしまった。住民は当事者から除外されてしまった五日間であった。   (吉田)