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『一坪反戦通信』
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 第177号(2006年4月28日発行)

連載

私の垣花(かちぬはな)物語 その(4)

語り 上原成信(関東ブロック)

編集 一坪通信編集部


 やはり、落ちた。島袋名護市長。しかも、あろうことか「V字型滑走路」に「修正」という悪夢のような内容で。正気の沙汰とは思えない。稲嶺知事よ、あなたはまだ希望を持っているか。

 六十二年前の一九四四(昭一九)年、中学を卒業した上原少年は、電気技術者になる夢を抱いて、いよいよ上京する。


■東門沖縄市長の誕生は素直に喜ぼう。「泥棒に追銭」の、米海兵隊グアム移転費用負担は認めない!

 四月二十四日(月)にはいくつかのニュースが入ってきた。朝刊最大の項目は衆議院千葉七区の補欠選挙。二十六歳の女性候補が官僚エリートの自民党候補に勝ったという。民主党ではあてにはならないところもあるが、官僚出身の自民党候補が勝つよりはまあ、よかったかと思った。二番目は岩国市長選挙。三月に住民投票を推進した旧岩国市の井原市長が合併後の新市長として当選した。井原市長にどれほどの覚悟があるかわからないが、岩国住民投票へささやかな支援をしてきた者として、ひとまずはよかったと評価する。嘉手納基地の地元沖縄市では反基地の統一候補東門美津子が当選。首長選挙だけで問題が解決するわけではないが、政府側に首長を握られたときのやりにくさを考えれば、素直に喜ぶべきだろう。

 そして夕刊には米海兵隊グアム移転の費用五十九%(約七千億円)を日本負担で合意と出ていた。額賀とラムズフェルドの猿芝居。額賀がアメリカまで行ったのは舞台演出。海兵隊は勝手に移転すればいい、立ち退き料を払うようなことは絶対認められない。


 那覇軍港地区は今では遊休化したのっぺらぼうの広場として放置されているが、戦争前は一万人もの人が住み、千数百人の児童が通う垣花小学校と野球の強い沖縄水産という実業学校があった。そこには丘もあり沼もあり王朝時代は清国からの冊封使が月見の宴を張ったりしたという。二十年ほど前からこの遊休基地の返還が取りざたされながら一向に進展しない。米軍は不要になった土地でも、代わりに何かを手に入れなければ返還しないからだ。今回の米軍再編のどさくさに紛れて返される可能性は高くなっている。私がこんな思い出話のようなものの掲載を認めたのは懐旧趣味からではない、返還される土地がどんな謂われのある土地か知っておくことは無意味ではないと思ったからである。


☆中学三年で初上京、豚革靴でいい気分

 東京へは、太平洋戦争が始まった一九四一(昭一六)年、旧制中学三年生の夏休みに、母親と一緒に遊びに行ったのが最初だ。当時東京には、二十歳年の離れた兄が代々木に住んでいて、一家を構えていた。のんびりと東京見物していたら、突然、兄から「府立六中(現新宿高校)の編入試験を受けてみろ」と言われた。沖縄を出る時は何も聞いていなかったし、夏休み中は遊び呆けていただけなので、ビックリだったが、嫌がりもせず素直に試験を受けた。試験は大変難しかった。当然のこと不合格だったが、もし合格していたらどうなったのだろう。転校でもしたのかなと今でも不思議だ。

 そのとき東京へ行くということで、初めて革靴を買ってもらった。支那事変が既に始まっていたから牛皮は品不足で、豚皮の靴だった。豚の毛が太いせいか、豚革には毛穴らしい模様が見えたが、初めて履いた革靴というのは気分のいいものだった。

 もう配給制度が始まっていて、沖縄では食糧配給は結構うるさくなっていたが、東京では兄の嫁さんが米屋に増配を申し出ただけで簡単に配給を受けられるということで、東京はおおらかでいいなあと思った。


☆最先端の学校に入りたかったが、あえなく不合格。高輪の通信工学校へ

 一九四四年、三月の中学卒業を前にして、受験のため一月下旬には東京に向かった。卒業式には親が出席して卒業証書などを受け取って、後日東京に持ってきてくれた。

 私の目標は浜松高等工業学校だったが、入学試験は失敗した。その頃はかけもちで受験する人は少なくて、私も浜松一校しか受験しなかったので、不合格になって、はたと困った。滑 ったらどうするかを真剣には考えていなかった。「ナンクルナイサ(なんとかなるだろう」)と漫然と考えていた。こういういい加減な発想がウチナーンチュにはある。なぜ浜松かというと、日本で最初にテレビに画像を映した高柳健次郎という先生がいたから。

 不合格後に、東海高等通信工学校というのを、新聞広告か何かで知った。その学校を卒業して半年間講習を受ければ、高等工業を出たのと同じ電気通信技術者二級という資格が得られるというので、なんだ、じゃあ、これでいいかと思って受験して合格できた。三年間ここで勉強した。その学校が今では東海大学と言われていて、勝手に交友会誌を送ってくる。当時の文部省の規定ではこの学校は各種学校というランクに入っていて、嘘か真(まこと)か知らないが、花嫁学校と同格だと聞いてがっかりしたことがある。校舎は港区の高輪にあった。


☆母親と弟が疎開で上京、昼、働きながら夜、学校へ

 四月から学校へ通い始めたが、五月に母親が小学校に入学したばかりの弟を連れて沖縄から疎開してきた。兄の家は、下は六畳に三畳にお店、二階に三畳と六畳ともうひとつ部屋があったが、子供が二人、兄嫁の母と弟もいて、とにかく大家族だった。私が居候をしているうえに、母と弟が来て皆ですねをかじったんじゃあ、兄貴も大変だと、さすがの私も気がひけた。

 通い始めた学校には夜間部もあったので、夜間部に転部して、昼間は仕事をして経済的に兄に協力しようと考え、学校に相談した。給料をたくさんもらいたいか、勉強優先か、どっちだと聞かれたので、勉強のできるところをお願いしますと言ったら、電気試験所を紹介された。そこへ面接に行って試験らしきものをちょっとやって、採用が決まった。それで給料をもらうようになった。

 母親が上京してから半年近く、早や十月になっていた。 
       (つづく)