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『一坪反戦通信』
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 第176号(2006年3月28日発行)

連載

私の垣花(かちぬはな)物語 その(3)

語り 上原成信(関東ブロック)

編集 一坪通信編集部


 三月五日。「普天間基地の頭越し・沿岸案に反対する県民総決起大会」に三万五千人余が参加。この日は米軍基地を抱える全国各地で大小の集会が開かれた。

 岩国では千五百人の参加で、三月一二日の住民投票の成功に向けて「3・12GO!」の人文字が描かれ、一二日の本番では過半数の投票率で住民投票が成立。九〇%近い反対率で、岩国基地への空母艦載機移転計画に、市民が「ノー」の意思を示した。

 三月末現在、米軍再編当該自治体のほとんどが「計画は受け入れられない」と拒否の姿勢を示しているなか、島袋名護市長だけは「微修正」の名のもと、防衛庁側と協議を重ねている。

 イラク開戦三年目の二〇日には、米マサチューセッツ工科大学(MIT)のノーム・チョムスキー教授は毎日新聞のインタビューで「イラクでも失敗し、今またイランを先制攻撃論で脅している。いつでもどこにでも大規模な軍事攻撃を行うというブッシュ政権の政策は、ロシアや中国の軍拡をも誘発している」と強調。ブッシュ政権が依然四〇%近い支持率があることについても、「政策は失敗しても、支持が急減するわけではない。ナチス時代のヒットラーがいい例だ。それにヒットラーの時代とは比べ物にならないほど周到な宣伝が行われていることを忘れてはならない」と語った。

 ヤマトの粋筋の姐(ねえ)さんに「かわいい坊やね」と言われていい気持ちになっていた成信坊やも、一九三九年、二中(現・那覇高校)に入学する。



妥協するな!名護市長、県知事

 額賀と島袋市長の話し合いがどう動くか、ハラハラしながら見守っている状況だね、今は。腕を拱いて見ている場合ではないが、具体的に何ができるかというと、これという名案はない。じれったいというか焦りを感じている。せめて手紙を名護市長や稲嶺知事に出すということかな。

 稲嶺知事は「容認できない」と頑張っている点ではいいが、その根拠が妙と言えば妙だ。「前の辺野古沖建設案がなぜ駄目なのかという説明がない」のが容認できない根拠らしいが、その理由を説明されたら「容認する」ことになるのか? われわれとしては「今までの案ならよくて、沿岸案は容認できない」というのは辻褄があわない気がするが、彼の胸中が何であれ、拒否の姿勢をどこまでも貫いてくれさえすればいい。

 岩国の市民投票の成功もあって最終報告なるものが四月にずれ込む気配だ。今のところはこれからに備えて物理的にも、精神的にも相手側と太刀打ちできるような準備をしておくことだ。

山原船、渡地、泡盛、缶切り

 昔の那覇港には山原船(やんばるぶに)が薪を積んで沢山やってきていた。山原船は三、四人で操っていたと思うが、渡地(わたんじ──那覇港の奥まったところで小さな船が停泊するところ)に船が入ると、夕方には使い走りの若者が四合瓶を持ってうちの店に泡盛を買いに来た。船の中で乗組員の骨休めの酒盛りをするのだ。その時たいてい缶詰のいくつか、鮭缶などを買って行った。

 昔は缶切りというのは貴重なもので、普通の家庭などにはなくて、缶詰を買った店でサービスに開けて貰うのが一般的だった。缶切り自体が今風の使いやすいものではなく、長さ二〇センチ程の先の尖った棒状のもので、その棒の先を缶の真ん中に突き立て、刃の部分を缶の縁に合わせて調整し、縁に沿ってぐるっと回して缶を切るという代物で、それを扱うにはちょっとしたコツが必要だった。私はおだてられて、得意になって随分たくさんの缶を開けたものだった。

中学入学、軍事教練、運動嫌い

 一九三九(昭和一四)年四月に県立二中に入学した。中学校では教練という科目があって、兵隊あがりの教練教師とその他に配属将校という現役の将校(少尉)がいて、両方で教練をやっていた。一、二年生は徒手訓練で素手のままの訓練だったが、三年からは歩兵銃を持たされての訓練だった。

 鉄砲は三八式という日露戦争で使った銃の払い下げ品で、天皇の菊の紋章は潰してあった。その銃は五連発で、一度に五発の弾丸を装填し、引き金を引くごとに一発ずつ次々に発射することができた。他に日清戦争で使った平田銃という一発づつ弾を込めては撃つ銃も十数挺あった。また、特に小柄な二、三人のためには騎兵銃という小さくて軽い銃も数挺あった。

 銃というのはすぐ赤錆が発生するもので、しょっちゅう分解掃除が必要で手入ればかりさせられていた。しかし、教練で実際に実弾を撃つということは一度もなかった。弾丸がなかったのかも知れない。

 小学校での虚弱児童も、中学に入ってからは、いくらかひ弱ではあったが、体操や教練も休むことはなく、行軍や一万メートルマラソンなど一通りのことはこなした。でも、体育系の成績は悪く、運動は嫌いであった。

中学時代のマイブームは 
  手作りの 模型電車とラジオ

 一学年上に又吉真彦(またよししんげん)という理科好きの先輩がいて、彼の影響で理化学同好会というサークルに入った。放課後は物理の準備室(実験器具などの収納室で、『子供の科学』などの雑誌も備えられていた)に入り浸って、模型電車やラジオなどを手作りして遊んでいた。その頃はラジオというのはよほどの金持ちの家にしかなく、しかも一般家庭の配電はもっぱら電灯用の定額制で、夕方から朝までしか送電されなかった。昼間は電気が来ていないからラジオがあっても聴けなかった。

 一九四二年に沖縄でも首里の観音堂付近に放送局(JOAP)ができた。それまでは熊本や台北の放送局を聴いていた。夜は電離層に反射して上海の中国音楽もよく聴こえた。自作のラジオはもっぱら夜、レシーバで聴いていた。それを一度親父に聴かせたことがあるが「こんな蚊の鳴くような音では駄目だ」と相手にされなかった。
(つづく)