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『一坪反戦通信』
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 第175号(2006年2月28日発行)

連載

私の垣花(かちぬはな)物語 その(2)

語り 上原成信(関東ブロック)

編集 一坪通信編集部



 名護市長選が終った。統一候補を立てられなかった結果を見越して、沖縄平和市民連絡会は告示前に『緊急声明』を出した、「・・・市長選の結果の如何に関わらず、これまでとは比較にならないほどの力で、日米両政府は辺野古を襲ってくるだろう」「選挙が終ったらもう一度一致団結を。共に闘った日々を思い出そう。新基地建設を阻止しようとしている者は、すべて・仲間・であることを」「日米両政府との本格的な闘いはこれからはじまります」と・・・。

 岩国市では、市長自らの発議で米軍岩国基地への空母艦載機移転の賛否を問う住民投票が三月十二日に行われる。住民投票を成功させようと立ち上がる市民がいる一方で、投票ボイコットを呼びかける動きも拡大しつつあるのが二月末の現状だ。

 さて、約七〇年前の那覇垣花はまだのどかである。上原少年も多感かつ無邪気な日々だった。



☆名護市長選の顛末、お詫びのしようもない

 昨年十月末に米軍再編の「中間報告」で辺野古崎案が出て、新しい阻止行動をいざこれからという時に、名護市長選挙が行われた。岸本前市長の後継者といわれる島袋氏と、基地反対派といわれる我喜屋、大城両氏の三つ巴の争いとなって、島袋氏が当選した。首相官邸などは祝杯を挙げたに違いない。現地の運動体には重苦しい空気が流れた。

 今回は久しぶりに市政をこちら側に取り戻せるかと、期待した人も多かったし、確かにその可能性はあった。反基地の統一候補を立てるための努力はあったようだが、結局は分裂選挙になってしまった。
 私はウチナーンチュのひとりとして、候補者を絞ることさえできなかったのが本当に恥ずかしい。これまで辺野古の阻止活動を支援してきてくれた多くのヤマトゥンチュに対して、お詫びのしようもない。
 終った選挙に、グズグズとこだわっても展望は開けない。気を取り直して新しい行動を展開すべきだろうが、候補者選定についてあっさり水に流していいものか、疑問が残る。敢えて名指しはしないが、責任を負うべき人たちに深刻な反省がないと、また同じことを繰り返すに違いない。

☆岩国の住民投票、成功を祈るばかり

 二月初旬の岩国市長の記者会見の様子をインターネットで見たが、記者たちがひどかった。意地の悪い、市長を追い込むような質問が多く、住民投票に批判的なのがありありだった。それに対して井原市長のしっかりと落ち着いた答弁は立派でしたね。住民投票はぜひ成功させたい。政府は、岩国を丸め込めないと大変だから必死になって抑え込もうとするだろう。私たちはここ一番、みんなの力を集中して、できることをやっていきたい。岩国での基地機能強化が破綻すれば、辺野古崎案を押し通そうとする日米政府の方針が破綻する。辺野古実行委員会では岩国の住民投票への、運動資金援助を呼びかけている。


☆修身の成績が甲から丙へ

 小学校二年生時に結核で喀血した。それ以後虚弱児童で、学校で「めがね肝油」というのを飲まされた。その薬の飲みにくさは先生方もよく知っていて、肝油の後は口直しにドロップを二粒くれた。

 入学したのは校区外の垣花尋常小学校だったが、三年の夏休みに宿題をやらなかったので、二学期になって先生に合わせる顔がないと親に泣きついて、本来の校区の天妃(てんぴ)尋常高等小学校に転校した。転校すれば夏休みの宿題帳を出さなくてもいいだろうと皮算用したのだったが、転校先の先生に「登校する時は前の学校の宿題帳を持っていらっしゃい」と言われて、げんなりした。

 天妃は役人や商人の金持ちの子どもが多く、半分はヤマトゥンチュだった。彼らは、地元の子どもと違って、「でぃきやー」(勉強ができる)で、垣花では私も「でぃきやー」だったが、天妃ではだめだった。

 五年の時、友人と三人で昼休みに二階の窓から窓への渡りっこをしていて、三番目の大城君が渡り損ねて落下、鎖骨を折る大けがをした。授業の合図のベルが鳴って、くわえタバコで機嫌良く二階に上がってきた担任の許田重勲先生は、「大城君が落ちた」と聞いて、さっと顔色が変わった。その情景はしっかり頭に刻み込まれている。二番目で窓渡りに成功した私のその期の修身は前期の甲から丙に転落した。

☆綺麗な芸者に「かわいい坊やね」といわれ・・・

 親父は腰弁の職工で、母親が雑貨屋のような店をやっていた。菓子、泡盛、缶詰、果物からマッチや蝋燭、ちり紙まで売れそうな物をなんでも扱う店だった。

 奥武山(おうぬやま)の島の西のはずれに「風月楼」という料亭があって、そこは沖縄の上流人士の社交場で、大和芸者がいた。芸者の姐さんたちは垢抜けして綺麗だった。彼女たちもよく店へ買物に来ていて、時には、「オヤ、可愛い坊やね」などと言われて(ホントに可愛かったかどうかは別として・・・)、いい気持ちになっていた。

 大宴会の時は、そのさんざめきが外にもよく聞こえてきた。彼女たちはもちろん三線(さんしん)ではなく、三味線を弾いて唄った。「鹿児島おはら節」だけは分かったが、学校では小学校唱歌しか教えてくれないので、そのほかの日本民謡は、全然知らなかった。  
                          (つづく)