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『一坪反戦通信』
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 第173号(2005年11月28日発行)


本土の想像力、沖縄に創造力を

〜「『沖縄のこころ』への旅」(高文研刊)を書いて

元・朝日新聞論説委員  稲垣忠


 「書き出しから面食らったよ」。この本を読んだ本土の友人の一人の言葉である。

 私はこう書いた。「たぶん、日本の『本土人』には、実感をともなっての理解を、なかなかいただけないかも知れない。そんな話から始めたいと思う」。

 取り上げたのは、名刺の住所に「沖縄県」の「県」を絶対に使わない三人だった。牧師の平良修さんは「沖縄・佐敷町」としていた。詩人の高良勉さんは「琉球弧・南風原町」、建築家の真喜志好一さんは「琉球国建設親方」と印刷し、それで「沖縄に住む人間」であることを宣言していた。

 平良さんは一坪反戦地主会の代表世話人の一人。「ウチナーンチュは歴史的に日本国家に尊厳を侵された。だから日本国家権力に組み込まれることを拒否する」と、「県」を使わぬ理由を語った。

 友人が「面食らった」のは、この事実の意味、つまりは、そこに至る精神状況の深遠さに直面したことだ思う。

 私は沖縄についてほとんど無知な本土人へ問いを用意したつもりだった。これらの人々のことを考えてほしい。その上で、あなたはどう読み進めてくれるのか、と。


 「押しつけられた運命」が生む隔絶感

  「尊厳を侵された歴史」とは、「一六〇九年(薩摩の侵攻)」と「押しつけられた運命」という二つのキーワードが物語る。

 薩摩の圧政ー明治政府の琉球処分ー本土防衛の防波堤にされた沖縄地上戦ー戦後の米軍という異民族支配ー巨大な米軍基地付きの本土復帰。歴史体験がさまざまな屈折と反発、異議申し立てを生んだ。

 二十余年の沖縄との縁は、その「こころ」のヒダに向き合い続ける「旅」のように思える。軌跡をたどり、残したいと思った。

 国民的人気の映画「寅さん」シリーズ。六九年の第一作から十年以上たっても、寅は沖縄を歩かなかった。沖縄マスコミ労協の幹部は、山田洋次監督に直談判する。「沖縄は日本ではないのか」。痛烈な言葉だった。本土復帰八年にして寅は来た。

 山田さんは米軍基地そばを走るバスの中で寅をひたすら眠らせた。「沖縄をただ遊ぶところと思うバカな観光客が苦々しい」と、私に語った。戦闘機の編隊のごう音を気にもせず、基地被害を考えぬ本土の若者たち。「何しろ寅はバカですから」と、看板作品の主役さえ自虐的に喩える山田さんの言葉にすごみを感じたのである。

 沖縄タイムスの会長を務めた新川明氏については、多くのエピソードを紹介した。「反復帰論」を展開して本土を拒否した記者活動、詩人として学生時代から激しく米軍支配を糾弾した作品の数々。「異端者」・「少数者」を任じた。「沖縄を考える時、畏怖の念をもつ」と大江健三郎氏は自分の著作で評した。時に激しく切り結んだ大江氏との交わりに、私は紙幅の多くを割いた。

 朝日新聞連載の大型企画「新人国記’85」の沖縄編の取材で、「沖縄のこころとは何か」と質問した私に、今は亡き西銘順治知事は「ヤマトンチューになりたくてなり切れぬ心だろう」と答えた。保守のドンの言葉は、今も「沖縄のこころ」を語る際に取り上げられる歴史的発言となった。
 

 「平成の乱」の高揚と挫折

 十年前、米兵による少女強姦事件を契機に、沖縄が「人権と平和的生存権」を前面に掲げ、本土政府と対立したいわゆる「平成の乱」。大田昌秀知事や、知事を支援した知識人、市民の動きの内面を取材した。

 「沖縄の振興策」という経済的要因と引き替えに、大田さんは、本土も巻き込んだ多様な反基地のうねりを一挙にしぼませる「苦渋の決断」をした。私は「過ち」と考えてきた。その検証をしなければならないと思って筆を進めた。

 大田さんは、鉄血勤皇隊員としての沖縄戦体験から「沖縄のこころ」と題した著作も出し、平和を訴えてきた。自宅は普天間基地の近くだったが、国の防音工事は「基地容認につながる」と拒否し続けた。信念の強さの姿を記事にしたこともあった。

 だが、理念を高らかに掲げた「乱」の最終局面で市民の力の強さという政治のダイナミズムを信じ切れなかったのだろう。啓蒙学者は「政治家」にはなれなかった。

 「乱」が幕開けしたとき、ウチナーンチュは「シタイ!」(よくやった)と元気づき、幕が閉じられて激しい「チルダイ」(虚脱感)に見舞われた。

 落差を生み出した「苦渋の決断」について、沖縄の知識人の多くは沈黙してきた。私は奇妙な思いにとらわれ続けている。
 

 「辺野古」の火は新たな導火線に

 だが、くじけぬ人々がいた。普天間基地移設反対を掲げ、「辺野古のたたかい」を持続させるおじい、おばあたち、さらには、本土からも含めた支援する人たちだ。

 さる六月、現地ルポをした私は、テント村で七十三歳になった平良さんに会った。「今はここに」と渡された名刺には「沖縄・沖縄市」と、やっぱり「県」の字」はなかった。七十歳代の奥さん、牧師をしている息子さんも、たたかいに加わっている。「いのちをかけているんです」と平良さんは、穏やかだが、毅然とした口調だった。

 「埋もれ火」のように、八年余りも火をともし続けてきた辺野古からの訴えは、日米両政府のご都合主義的な「米軍再編」を拒否する大きなうねりを新たに呼び起こす導火線になりつつあると思える。

 本土人が「沖縄の痛みと本土の責任」にどう想像力を持ち、行動するか。沖縄人自身も「自立」への創造力を示せるか。問い、問われる沖縄、と私は書いたのである。