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『一坪反戦通信』
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 第172号(2005年10月28日発行)

付録

反戦地主・知花昌一が語る 

— 象のオリの跡地利用と辺野古 —


象のオリ開放区を恐れて強制使用?
 今回問題になっている僕の土地は、強制使用する理由がまったくといっていい程ないんですよ。軍事研究専門家の鑑定書にも、具体的にはもう不要になっていて、アンテナがひとつふたつ欠損しても、知花の土地はアンテナが1本立つか立たないかみたいな場所だから、撤去してもなんのさしつかえもないと書いてある。

 だけどなんで返し渋るかというと、全部返還されないうちに僕だけ返還すると、この土地をどういうふうに僕が使うかということを彼らは懸念したと思う。来る観光客を全部基地の中に入れて、返還された僕の土地でいろいろドンちゃん騒ぎしたり、三線弾いたり、そんなことを懸念したんじゃないかと。全体はまだ基地だからね。

返還の遅れで跡地利用計画に悪影響
 いま問題になっているのは、説明すると長くなるけれども、象のオリの跡地を土地区画整備事業をいれて半分を宅地にして、半分は農地にしようという計画なんですよ。自分たちの金ももちろんかかるけれども、制度資金というのがあって、農業用地として開発すると、そのうちの3割は農業担い手事業ということで住宅が建てられますよという制度があった。それで、金城実さんたちのところとか、琉球村とか、あの一帯はそういう開発をして宅地ができて農地開発された。

 農地整備事業の制度資金のお金と宅地整備事業の補助金というのは全然ちがうんです。宅地はほぼ自分でやらなくちゃいけない。農地は85%か90%は国の補助が入る。国の事業として補助金をもらって村がやる。

 ところが来年からそれがなくなるんです。僕は当初、農地として整備をしてその3割を宅地に確保して、昔からの部落の住宅地は住宅地として、軍用地にとられていたのが開放されて復帰するから復帰先事業として、併せて5割くらいの宅地を編成しようとしたが、それができなくなった。返還が遅れたことによって制度をカットされた。それで僕らの地主会はちょっと右往左往している。

 国の都合で遅れたわけだから象のオリに対しては特別に認めるべきだという声もあるけど、基本的にはそうならない。事業制度がなくなっちゃったからね。それでいろいろ四苦八苦していて、跡地利用計画の実行メニューを変えなければいけない状況にきている。もっと早くやればよかったねって話になるんだけど。そういう差し支えも遅れたことによってでている。

深刻な環境汚染が明らかに
 今日の申請理由の中に、返還作業の原状復帰というのがでてきた。原状復帰はなにかと言ったら、ここは戦前は宅地があり、農地があり、それを基本的に復元をしなければいけない。それに復元保証費というのが交渉によって決まるわけです。形としては建物は基本的にはアメリカ軍のものだから、機械とかそういうものは。秘密のものがあるはずで、それをアメリカが撤去することになる。そのあと建物や付属品に関しては日本政府が撤去する。

 撤去して更地にした段階で、地主に返還するという状態になる。そのあと地主がどうするかというと、これはできませんという。戦前の姿に戻してくださいという要求をするわけです。それはできないから、じゃあ戻すような保証をしましょうということを、お金でやるわけです。これは土地の形状やいろいろなものによって値段が決まる。地主と防衛施設庁との交渉です。これが一つありますね。それがいくらでるかわからない。その土地の形とか地目とかでいろいろちがうから。

 もう一つ問題なのは公害、環境汚染の問題。通信施設では1ヶ所、恩納通信所が返されているが、掘ったら六価クロムとかダイオキシンとかが排水からでてきた。土壌が汚染されていてドラム缶400缶くらいが嘉手納基地の中に土を取って保管しているらしい。そういう汚染の問題があるわけです。

 ここは恩納通信所よりもっと大きな施設だから、当時はフィルムを溶かしたり現像したり、そういうこともあって機密性が高いから全部中で処理をしたみたいです。塵なども外に持っていかずに中で焼却処理をしていた。そこにはフィルムとかいろいろなものが入っていて、フィルムは水銀なんかも入っているから、それを排水を通して垂れ流しているという状況があるわけです。処理場を作っているけれども、処理場の汚染がまちがいなくあるでしょう。

 地主会でも返還されても、ただでは受け取らないよと言っている。ちゃんと土壌汚染に関して明確にしてから、受け取ろうねという話をしているわけです。それが問題です。来年返されることはほぼまちがいないと思う。でも私たちの手に戻って、私たちが宅地を作るには少なくともあと3、4年かかる。

 軍転法(軍用地転用促進に関する法律)があります。それは返還するという3ヶ年前から通告をして準備をさせる。返還したあと3ヵ年間は軍用地料に見合うお金を保証しますというもので、6ヵ年間の余裕があることになるんです。来年の7月に返されたとしても3ヵ年間は軍用地料に見合うものはあるんです。その期間に区画整備をやるということだけど、土壌汚染、環境汚染に関してちゃんと処理しないと受け取らないということを言っているわけです。そういう交渉をしています。

いじめられた反戦地主
 地主は今450名。98%が僕の村、波平(はんざ)です。私たちの村はけっこう堅実な村で、金銭的に困った状態の人があまりいなくて、外に売ってないんですよ。跡地利用に関しては話をしやすいということもあります。そのうちに受け取る軍用地料はいま1年間で約3億5千万円。53ヘクタール。相当大きい金額ですよ。

 波平という700世帯の部落に3億5千万くらいが入るわけです。これが入るからあまり金銭的にも土地を売ってやらなくてもすんだということがあるかもしれない。これは大きいです。

 30年くらい前は反戦地主の人たちはみんなからいじめられたんですよ。あの当時は3億円ではなく、2億何千万かだったはずだけど、それが、あんたたちが反対して土地が返されたら入らなくなるじゃないかということで、文句をいわれた。それで90名いた反戦地主も僕の親父も含めて潰されていった。いま3億5千万はいる。それがなくなるんですが、でも、みんなもういいと言っている。いつまでも基地があるわけじゃないから、跡地利用をちゃんとやっておけばいいよということで返還を拒否していない。僕も役員として一緒に跡地利用を進めています。

僕の土地代は70坪で一年間26万円
 僕の土地代は供託されています。供託して受け取るという形です。反戦地主だった人たちが潰されていくんだけど、この過程で反戦地主は反戦地主としての地主会がある。契約地主があって、反戦地主があったわけです。

 ところが反戦地主の人たちが契約してしまうから、こことは一緒になりたくない、自民党みたいなことはやりたくないと俺たちは革新だと思っているから。でも契約をしてしまうわけです。

 それで反戦地主と契約地主のあいだに、気持ちは反戦地主で実態では契約している地主たちがいて、この人たちが波平地主会というのを作っている。代表は社会大衆党の議員だった人が中心です。僕の親父たちもそこに入っている。

 地主会は軍用地主会、反戦地主会、波平地主会。防衛施設庁と個別に交渉権をもった地主会で、お金もここにくる。反戦地主は個人個人にくるはずだけど、全部ここにきて個人に分ける。いまもそうです。90名が。ここは300名くらいいる。ここは僕ひとり。全部移って、その中から僕が出たという形です。僕の親父も反戦地主だったけど契約をした。親父から土地をもらうことで僕が契約を拒否してもとの形にもどったわけ。1筆で地主にした。70坪の宅地です。僕の軍用地料は年間26万円。

 供託してお金はあとで取り戻します。一坪は供託して事務局に送るということをやっていますよね。僕の土地は防衛施設庁が取りに来いというが、取りに行かないから供託するわけです。供託しても当然の権利として取りにいくわけです。僕の土地は20何万かだけど、阿波根さんとか何千万、何百万とか土地が大きいから取り戻すでしょう。これを2年も3年も取らないでいたら生活が大変になるからみんな取るんです。

「公開審理」の持つ意義
 今日、有銘さんが言ったように米軍特措法によって収用委員会の判断も狭まっています。今までは、今日追及したように使用する理由というのが問題だったが、米軍特措法が改悪されて理由なんてもういらなくなってしまった。

 収用委員会は何を判断するかといったら補償の金額と期間、この二つだけになってしまった。いずれもそれに使用することが適切であるかどうかの判断をしていた。そうしたら今日みたいな論議は非常に有効だった。この権利を米軍基地に関しては収用委員会からとっぱらったわけ。で、収用委員会にまかされた権限は二つだけ。使用期間と補償金の問題になってしまったんです。

 以前は今日みたいに使用する意味がないじゃないかということもできたわけ。今日はなぜそれをやっているかというと、補償とかそういう問題に関しても使用する度合いが少なければ、補償問題とか跳ね返ってくるんだけどね。

 いずれにしても、第三者機関としての権限をもっていると思われている収用委員会でさえも、米軍特措法によって権利が剥奪されて裁決がおかしくなった。

 今日は言いたい放題言っているけれど、言ったことの具体的な結果というのは収用委員会の中では哀しいかな、権限としてはないんですよね。期間の問題とかお金の問題等、制約はあるけど、関心をもっている人たちの中には、改めてこういう問題だったんだなということを認識する意味でも、基地問題に関して理不尽なことをやられているんだということを知らしめるためにも、公開審理というのは大事だと思ってやっているわけです。マスコミも入るしね。

 僕の象のオリに関しては、彼らと遣り合いをして遣り込める材料があるわけです。他の土地も、普天間とかいろいろあるけれど、あまり向こうと遣り合いをする材料というのはそんなにはないんですよね。僕の土地に関してはある。裁判にも勝ってきたし。そういった意味でおもしろい公開審理ではあります。

SACOという基地の再編強化と大いなる虚構 
 今日の公開審理で防衛施設局は明確に答えられなかった、どの省の管轄の施設かという問題について、あれは僕も初めてだった。もっと整理をして言うと、あれは2000年と2001年3月31日に返還すると、そのときには移設をして返還する。まあ条件はついているんです。それができなくて今年の5月31日までというふうに延ばしたわけです。

 移設ということで、代替という言い方をするわけです。僕も海軍省の施設だから移設先に建てるのも海軍が使用していくと思っていた。キャンプハンセンというのは海兵隊の施設だから、そこに海軍のものが建つんだと思っていたわけです。

 ところが前回はそれを追及できなかった。今回はやったんだけど、国防省の、なんて言ったっけ、沖縄活動貢献なんとか隊というのは管轄をしているという状況だから、そのものがそのまま行くという話になってきた。そうすると海軍の施設だったものが、そのまま移設というわけではなくて国防省の沖縄分遣隊の連中がそのまま施設を使うという。これは海軍が使うかどうかはっきりしなかったわけです。新しい施設ですよ。海軍はいらないと思って解散命令も出して、みんな引き上げたわけです。

 ところが造っているのは、これは移設ではない。新設であるわけです。それはおかしいんじゃないかと、これからその問題をはっきりさせなきゃいけないなと思っているんですよね。

 沖縄の移設とかって、普天間もそうですよね。普天間基地がそのまま移転するんじゃなくて、ものすごく機能強化して、オスプレイなんかもやらせて、辺野古弾薬庫と直結できるようなもの、あるいは船がつけられるバースみたいな施設と一緒にするといったような形でね。

 彼らはよく考えたわけですよ。ものすごく強化を狙った。みんなそうですよ。象のオリも使わなくていいということで彼らはほっぽりだしたんだけど、国防省が管理をしてまた造らせて、そこに国防省がいくという形でしょ。

 返すといって新しい基地を造らせる。金武町の県道104号線を越えて155ミリ榴弾砲がどんどん飛んでいった。道路を遮断して演習をするわけです。ここは通学路であるし、ずっと反対していた。これが移設されたわけです。

 どこに移設かといったら日出生台とか王城寺原とか、東富士とか矢臼別とかです。もうここではやりたい放題やっている。時間関係なく、雪の中でやったり、飛ばすところもものすごく広大だから、20キロくらい飛ばしても民家に当たらないくらいのところで、やりたい放題やっている。

 その輸送費用も全部日本政府が持つということでやっているわけだから、彼らとしてはもう万々歳ですよ。気兼ねなんかする必要はない。反対運動も起こらないし。移送費用は全部日本政府持ちだし。全部そうです。

 SACOというのがもう基地の再編強化。SACOのむこうの言い方としては沖縄の基地負担を軽減すると。いっぱい基地被害がある中で、そういうことを沖縄のために基地を整理縮小しましょうということだったわけ。実態はどうかといったら、みんないらないものを返そうといいながら、新しいのをどんどん造っていくという、近代的に軍事再編していくという、沖縄の思いを足蹴にして、そして自分たちの目的を実現しようとしている。真喜志さんは、アメリカ軍が60年前にやりたかったことを今やろうとしていると、電気紙芝居でずっと訴えています。

「辺野古とつながる読谷の会」でやっていること
 辺野古はもう絶対できないよ。辺野古とつながる読谷の会というのがあるわけよ。すごい勢力だよ、僕らは。今どういうことをしているかと言ったら、ひとりは中城の、イシンダの司令部前で月水金に立っている。「辺野古に基地を造るな!」と横断幕を持って。7時から8時まで。ひとりだったりふたりだったりするけど。

 そして比謝橋の58号線の壁のむこうでは毎日ひとりかふたりか立っている。今日は536日くらいかな。座り込みしてから。毎日毎日かえながら。

 辺野古で集会があるときには20名とか行くんですよ。金城さんも含めて。読谷から。若い人を含めると20名くらいになる。一大勢力だなと笑ってる。行ったら集会しながら酒を飲んだりして、ちっとヤバイかなと思っているけど。金城さんのペースだから。

 旗をつくったやつが誰にも相談しないで「辺野古とつながる読谷の会」というのを作ってきたから、まあいいだろうってね。38歳と24歳の若い人がずっと続けている。

 それをやりながら1週間に1回ずつ行こうということで、単管登ったりやっているわけです。火曜日は誰、水曜日は誰と曜日ごとに担当を決めて行っています。僕は月曜日担当。単管に登って泊り込みして。月に1回はサバニクラブ15名で、テントに押しかけていって紅芋を持って行ったりして、三線弾いて踊って。わーわーして帰ってくる。

 鍋島というやつがいてね、こいつが相当がんばっている。58号線に立ったのも彼が最初。これじゃもう埒が開かないということで、中間報告が出る間司令部前に立つことになって、機動隊なんかも出てきて大変だったらしいけど。中間報告が出るまでは立つと決めた。

そこを通って高校に送迎する車があるらしいんだ。バスが止まると子供たちは手を振ったりしてやりおったわけ。乗ってくるお母さんたちも一緒になにかなと見たりしていたみたい。これが反対運動に立った途端に、昨日くらいから別の入り口から出入りしているの。この司令部から出なくなった。たいしたもんだとお前らわかったかと。彼らはそういうのを見せたくないわけ。英語で書いてあるからさ。

 毎日じゃないけど、こっちからくると時間がかかるからさ。月水金。そういうこともやりながら辺野古を止めようと。辺野古は辺野古で今すごいやりかたをしているでしょ。だから止めなくちゃと。

 あれは自民党の連中からもあんなのをやるのはバカだよと言われている。あれはもうできない。そうは思いながらも白紙撤回まではやろうということです。

 単管に登ってこうやっている間はすごかったよ。海に落とされてさ。単管に登って落とされて沈んでさ。誰かパクられろと、夏芽さんでもいいしさ、65歳以上になる人はもうパクられろよと。パクられたら運動も広がるし。別に殴るわけじゃないからしがみついて身体で押していけば、パクるならパクられたっていいじゃないか。

 そうなったらそうなったで、また違う展開もある。彼らもだからパクりきれないわけ。

辺野古は止める!
 辺野古沖海上をあきらめて、浅瀬案で1300メートルということになると、今度は県が反対するでしょう。稲嶺だって一応は自分の言ったことは突っ張ろうとしているから。民間空港でしょ。2000メートル以上じゃないと認知できない。15年問題もあるし、民間空港からすると1000メートルにとどまれない。1300メートルというのは。珊瑚は埋め立てになるし。まあ、僕らは楽しみながら、酒を飲みながら、けっこうやってますよ。読谷はけっこうがんばっていると思うよ。金城実を含めてみんなでやってる。いざというときにはわーっと集まるもん。先日500日大会があったわけよ、あのときも10何名か行った。ペットボトルに酒を入れて、ゴザを敷いて一番前に座ってみんなで飲んでいたわけ。

 僕らから言わせるとこんな数少ないやつが1週間に1回、ひとりずつ毎日送っているわけ。自治労とか何千名とかの組合関係だったら読谷だって専従がひとりいるわけだし、みんないるわけよ、専従が。専従が1週間に1回くらい来いよって。単管登ってさ。そしたら止まるんだよね。自治労だったら何名いるか。1ヶ月に1回ふたりくらい出てもまわらないはずよ。土日を休んだら24、5日でしょ。それが50くらいの自治体があるわけだから。ふたりくらいやっても1ヶ月に1回。1ヶ月に1回だったらなんでもできるさ。僕なんかは本当にそう思う。僕も仕事も休まなくちゃならないけど、1週間に1回はなんとか。厳しいときには。今はちょっとなまけて行かれないときもあるけど。辺野古は止める。


(この記録は10月6日公開審理のあとに知花さんが語ったものを、編集部でまとめたものです。)