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『一坪反戦通信』
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 第167号(2005年5月28日発行)


内閣総理大臣による強制使用認定取消訴訟 

陳  述  書



            2005年3月15日
 
 1 私は原告の有銘政夫です。

 私は1931年8月にサイパン島で生まれました。去る大戦時の1944年6月、サイパン島は玉砕の島といわれたように壊滅的な戦禍をうけましたが、私はその戦争を体験するとともに父と弟を失いました。終戦により1946年2月に両親の郷里であった沖縄へ生き残った母とともに送還されました。

 その後は、コザ高校を卒業し、越来小学校で勤務した後の1969年9月から沖縄教職員会中頭支部の専従役員となり、復帰運動や青年会運動に関わってきました。1976年には沖縄県教職員組合(復帰を目前にして、沖縄教職員会が改称した)中頭支部の委員長、中部地区労働組合協議会議長に各就任にし、労働運動や平和運動に関わってきました。1992年には中部地区労働組合協議会議長を、翌93年には沖縄県教職員組合中頭支部委員長をそれぞれ退任しました。

 1994年12月に沖縄軍用地違憲訴訟支援県民共闘会議の議長に就任にし、以降現在まで同地位にあります。

2 私は、本件訴訟の対象となっている沖縄市森根伊森原272番の土地(以下、本件土地という)の所有者です。

 本件土地は、サイパン島に出稼ぎに行っていた父・有銘政松が売買により取得したもので、父の戦死(1944年)により私が相続したものです。

 本件土地を取得した当時、父はサイパン島にいましたが、その送金により同土地上に建物を建築して、祖母と姉が居住していました。本件土地が登記簿において宅地となっているのは、そのような事情からです。

 本件土地は、1945年の沖縄戦及びその後の米軍占領により、米軍基地嘉手納飛行場用地として強制接収され、復帰後は、公用地法及び米軍用地収用特別措置法による強制使用手続でもって強制的に嘉手納飛行場用地として日本政府より米軍へ提供されています。

3 去る沖縄戦により、沖縄本島内の公簿公図等が焼失したことから沖縄本島所在の土地の地籍は混乱し、多数の位置境界不明地が現れました。日本政府はその解消のために1977年に地籍明確化法を制定して位置境界明確化作業を実施しましたが、その過程で認証が終了していない土地が残存することになりました。これを地籍不明地とよんでいますが、本件土地もその地籍不明地です。

4 乙第18号証の1の「位置境界の確認の現地立会について(通知)」によれば、位置境界明確化作業の一環として、本件土地につき、現地立入のための同通知書が私宛に送達されているように記載されていますが、このような通知書を私が受領したか否かは覚えておりません。

 同通知書では昭和54年3月16日に嘉手納飛行場第2ゲート入口に集合するように指示されておりますが、私はそこには行っておらず、従って現地立会をしておりません。同号証の別紙中に本件土地の所有者欄に「有銘政夫」と記載され、その住所欄に「沖縄市字美里2229」と記載されていますが、これらはいずれも私が記載したものではありません。

 また乙第19号証の2の「現地確認書」において、本件土地については「現地確認年月日」欄、及び「立会者」欄はいずれも空白となっており、「確認印」欄に私の押印がなされていませんが、これらはいずれも私が現地立会をしていないことを裏付けています。ただ同号証の別紙において、私が確認を拒否した理由として、「今日の地籍調査の目的を那覇防衛施設局により聞いた上、判断し捺印するとのこと」との記載がありますが、私は立入りのための集合場所や現地以外の別の場所で、那覇防衛施設局の職員にそのような発言をした記憶はあります。

5 乙第19号証の2の別紙地籍図において、赤色部分が本件土地となっています。

 しかし、その形状は明らかに違います。前記したように私は戦前は沖縄にはおらず、戦後沖縄へ帰郷した時には本件土地は既に米軍用地となっておりましたので、本件土地を現地で確認したことはありません。しかし帰郷後、本件土地に居住していた姉照屋ウト(1989年2月に69才で死亡)から機会のあるたびに形状はほぼ正方形である旨聞かされていましたので、上記地籍図のような細長い長方形であるはずはありません。しかも本件土地は農家の屋敷でしたから、姉の言っていたようにほぼ正方形であったということが事実を正確に反映していると考えることが合理的です。

 現に米軍占領時代になされた土地所有権認定事業の過程で、私名義で土地所有申請書が作成されていますが(叔父有銘政三郎が私に代って作成した)、同申請書の「見取図又ハ測量図」に記載された形状はほぼ正方形に近い長方形であり(甲第  号証)、明らかに乙19の2の地籍図の形状とは異なっております。上記の土地所有申請書は戦後間もない「1947年」に戦前から沖縄に居住していて事情をよく知っている叔父によって実際に作成されたものであり、二人の隣接地主が保証人となっているうえ、姉の証言とも付合しておりますので、その形状は間違いないものと確信しています。

 また本件土地の地積は、登記簿上では489.25平方メートルとなっていますが、本件強制使用手続においては498.66平方メートルとなっています。9.41平方メートル増大しておりますが、その点について、那覇防衛施設局に説明を求めましたが、なんら説明はありませんでした。

6 また乙第19号証の2の地籍図では、本件土地の北側隣接地の地番は「292−2」となっていますが、土地所有申請書の見取図では「273」となっており、明らかに齟齬しています。上記申請書は、「271番地主」と「273番地主」を保証人として作成されておりますので、北側隣接地の地番が「273」であることは間違いのないことです。従って、乙19の2の地籍図は明白に誤りだといわざるをえません。

7 私が本件土地につき、位置境界明確化作業の手続の一環としての現地確認に同意しなかったのは、前記5及び6で述べたように、乙19の2の地籍図に表示された本件土地の形状及び隣接地の地番が明らかに間違っており、それが真実を反映していないことが明白だからです。さらにより大きな理由は、地籍不明地に対する位置境界明確化作業手続による地籍の確定が、米軍用地収用特別措置法を適用して、米軍用地として強制使用するための前提としてなされているからです。

 去る大戦において、サイパン島における戦争被害を体験し、さらに敗戦により着の身着のままで帰郷した私にとって、戦死した父の残してくれた唯一の財産である本件土地が、沖縄の祖国復帰が実現し32年余を経過した現在においても、占領当時のまま人殺しのための米軍基地として継続使用されていることは、とても我慢のできないことです。従って本件土地を米軍基地のために提供することは絶対に反対であり、地籍明確化作業により地籍が確定することによって、強制使用のための前提条件が具備されることになると考えたので、私は現地確認を拒否したのです。

8 以上のように、私は位置境界明確化作業の手続としての現地確認を拒否しましたが、その後の1979年10月頃、嘉手納飛行場内に立入り、本件土地を現地確認したことがあります。

 これは、地籍明確化法の制定をめぐって、在沖米軍基地用地につき、その使用権原が法的根拠を喪失し、4日間の法的空白期間(1977年5月15日から18日まで)が生じたことがあります。それを契機として、私の所属する反戦地主会(米軍用地へ自己の土地を提供するための賃貸借契約を拒否する軍用地主で構成された組織で、「権利と財産を守る軍用地主会」の通称です)及び反戦地主会弁護団が那覇防衛施設局に対して、自己所有地の現地確認及びそのための基地内立入りを要求した結果、それは1979年10月頃に実現しました。

 私は、反戦地主会のメンバーや弁護団と一緒に嘉手納飛行場内に立入り、那覇防衛施設局の職員の案内で本件土地の現地確認を行いました。その際、職員から示された本件土地には境界標が既に打たれており、その形状は乙19の2の地籍図と同一でした。そこで私は、案内・指示した職員に対し、「本件土地の形状は正方形に近く、戦前の屋敷がこんな細長い形状あるはずはない」と明言したことをよく記憶しています。

 また、その際、那覇防衛施設局の職員から指示された本件土地上には建築物はありませんでした。しかし、今回の使用認定申請に関する図面では、その一部に建物が建築されておりますが、それがいつどのようにして建築されたのか、私にはわかりません。

9 地籍明確化法による地籍不明地の位置境界の確定は、小字単位での集団和解方式によるものといわれています。従って、私がその手続に参加していない以上、本件土地の存する小字の「伊森原」所在の土地については集団和解は成立しておらず、従って位置境界も確定されず不明のままです。このような地籍不明地について、位置境界が確定されていることを前提としてなされている本件使用認定は違法であるといわざるをえません。しかも、那覇防衛施設局が位置境界が特定されているとする本件土地の形状及び北側隣接地の地番は既に述べたように明白に誤っておりますので、このような誤りにもとづく本件使用認定は違法なものとして取消されるべきであります。




甲第10号証

         2005年3月15日

  真栄城玄徳

1、私は、米軍嘉手納飛行場内に4筆の土地を所有していますが、これらの土地は現在強制使用手続きでもって強制的に米軍用地として提供されています。これらの土地は、全て沖縄市字森根石根原に所在していますので、それぞれの土地についてはその地番だけで特定し、説明したいと思います。

私は、墓参等の理由で何回かこれらの土地のある一帯に立ち入っています。立入の際は親戚の年長者らも一緒に入っていて、その人達から戦前の土地の状況を聞いたりしています。

4つの土地の地目は登記簿上359番と385番の土地が山林で361番2の土地は畑、362番の土地は宅地となっていますが、地目については戦前の地目の状況とほぼ同じのようであります。

2、361番2の畑には、戦前サトウキビとかサツマ芋が植えられていたそうです。359番の山林は戦前は松林となっていて、その枝や葉は燃料に使用し、木は燃料又は建築材として使用されていたようです。この土地の中には親戚や当時の近隣に在住していた人達のお墓が立てられていますが、墓の中にはお骨は入っていないようです。現在この土地には松以外の木が生い茂っています。

3 385番の土地も戦前は山林でしたが、この土地は何時の間か切り開かれて土地の一部が平坦な状態になっています。現在その平坦な部分に米軍相手の売店が建てられていて、一部はその駐車場として使用されています。

4 362番の宅地は戦前、農家の主屋が在り、その近くにアサギと呼ばれていた附属建物があったそうです。他に敷地内には、畜舎があって、その中で豚や牛が飼われていたとのことです。

5 これら4筆の土地のある字森根石根原は、いわゆる地籍不明地域となっています。勿論戦前においてはこの地域の土地も位置境界は明確であったと思いますが今次大戦により、各筆の土地の付置境界を明らかにするものはなくなり、地籍不明地域になったものです。

6 乙第18号証によると1979年に位置境界明確化作業の手続の一つとして、現地立入の通知が私のところに送られているようですが、どのような通知が送られてきたのか覚えておりません。これらの土地の境界確定のための現地立会をしたことはありません。又現場で境界杭を打ったこともありません。乙第18号証1の現地確認書に署名押印を求められたこともないと思います。

  ただ那覇防締施設局の職員が自宅に訪ねてきたことはあります。この時は職員を自宅の中に招きコ一ヒーを出したりして話し合ったりしました。又私が勤めている中頭教育会館に職員が訪ねてきたこともあります。いずれの場合も私は真っ向から話し合うつもりはない等と言ったことはありません。私は職員に対し「私は反戦地主会の会員である。会員の中にも色々の考え方の人達がいる。私は地主会のみなさんと協議して対応したい。直ちに署名することはできない」と述べたと覚えています。

7 これらの土地の位置について説明します。
  まず361番2の土地の位置は、認定申請書添付図面の位置とほぼ同じだと思います。しかし、土地形状は実際とは違っています私の聞いた話では362番の屋敷があった場所は361番2の土地の南東側の角方向に位置していて、その屋敷があった部分だけ361番2の土地は削られた形だったと聞いています。又361番2の土地の南東の位置に隣接して359番の土地が位置しているように認定申請書の添付図面にありますが、36番2の土地の西側に隣接して359番の土地はあったと聞いています。従って359番の土地は位置がまったく違っていることになります。385番の土地はほぼ実際の位置及び形状と認定申請書の添付図面の付置形状と一致すると思います。

8 甲第11号証ないし甲13号証は今時大戦後私の祖母である真栄城カメが4筆の土地について所有権の申告をした際に作成された土地所有申請書及び見取り図のようです。私の4筆の土地の実際の位置形状はこの見取図の位置形状のとおりだと思います。私が現地において親戚の方達から聞いた位置形状と見取り図の位置形状がほぼ一致しているのです。

9 私の4筆の土地についてなされた強制使用の認定申請は、本来の土地の付置形状とは違った場所の土地を私の所有だと断定して申請されたものだと思います。

 従って、私の所有地の特定は那覇防衛施設局の一方的な作業によってなされたものであって、その特定された土地は真実の私の所有地とは一致しないはずです。

 このような特定の仕方で強制使用の申請がなされることは本来認められないはずだと考えています。