軍用地を生活と生産の場に!
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
http://www.jca.apc.org/HHK
東京都千代田区三崎町2-2-13-502
電話:090- 3910-4140
FAX:03-3386-2362
郵便振替:00150-8-120796

『一坪反戦通信』
毎月1回 28日発行 一部200円 定期購読料 年2,000円
 第161号(2004年10月28日発行)


【講演記録】
普天間基地の即時閉鎖と辺野古への移設反対
東京行動 報告会

10月25日(月) 牛込箪笥区民センター
 主催:辺野古への海上基地建設・ボーリング調査を許さない実行委員会

安次富 浩(名護ヘリ基地反対協)

 ビデオを早くから来られた方は見てもらいましたけど、あれは四巻目ですね。海上抗議行動です、カヌーを含めてやっているのが最後のほうに出てきます。かなりシビアに、海上では施設局の調査船とぶつかって、向こうの調査をかなり妨害をしている状況を作り上げています。

 今ですね、毎日七十名から八十名、辺野古に支援に駆けつけてくれる人たちがいます。ほとんどが海上に出るという状態になっているものですから、結構座り込みのほうが手薄になっているというところが、そこらへんでの悩みをかかえながら、百九十日の座り込みを続けてきています。

 これから、私たちがどういう闘いを展開していくかということになるわけですが、この台風で少し予定が違ってしまったんですけど、県民会議と相談の上ですけど、一一月二一日にリーフを中心にカヌー、船をチャーターして二千五百メートルを想定したものができればやりたいと。つまり船で繋げてみるということで県民にアピールしていきたいと。

 幸いにですね、かなりのカンパをしていただきまして、最近カヌー三艘を購入しました。常時十艘以上出せる状態ですね。今、漕ぎ手を、泳げる人ならば二、三時間ほど練習して午後漕ぎ手になってもらうという、こういうちょっと無謀なことをやっていますが、もうちょっと落ち着いてやりたいなと思っています。もう一つ、泳げない人でもカヌーをやりたいという人が結構いるんで、泳ぎの練習を教えているメンバーもいたり、それなりに皆分担をして、この闘いを、苦しいです、きついですけれど一方では楽しみながらやっています。最近はダイビンググループも、施設局の委託を受けた潜水夫を海底で待ち受けて、同じダイバー仲間としてこういうことはするなと、海の中で訴えているということも新たな展開として生まれてきています。私たちが予測もしないことが生まれてきて、結構楽しい闘いを展開できているなあと思います。

 しかし、正直言って大変です。百九十日も過ぎているわけですから、国と真っ向からぶつかって。今日一緒に来られた具志堅徹さんなどはですね、船長として毎日行動しているわけですね。相手が国家公務員に委嘱を受けた業者ですから、幸いなことに土日休みということなので、私たちはもう土日は休めるということですが。

 これから沖縄の海は、冬になるとかなり荒れてきます。彼らの調査というのは、実際は計画通りには進んでいない、やっぱり天の恵みと私たちのねばり強い海上での抗議行動で、非常にやっかいな辺野古の闘っている我々とぶつかってしまったなあと本音はそういうところにあると思います。

 国はまた金を与えて、例えば今回の国会で、下地島という案が言葉として出てきたわけですね、国会の答弁で。米軍がフィリピンに行くときヘリあるいは輸送機がそこで給油してきているわけですね、何回も。前から下地島を米軍は狙っていたわけです。一方で自衛隊も狙っているわけですよ。向こうの町長が、一時期自衛隊の移設を容認するようなことで言動があって、地元からものすごい批判を受けて撤回をした事例がありますから。そういう意味では政府も米軍も下地島というのは、別に普天間飛行場の代わりの施設、基地として必要じゃなくて、そこの下地島自体を狙っているということが考えられるわけです。

 今回、外務省で私たちが食い下がってきたのは、あの町村でしたっけ、外務大臣の答弁は結局こういうことなんですね。普天間は閉鎖すると言っていないわけなんですよ。普天間は閉鎖すると言ってないが、下地島の使用を言っているわけですね。それから辺野古の移設については進めていくと。つまり、新しい基地を作り、普天間をそのまま当分残して、下地島に新たに基地を獲得しようと言う、こんな虫の良いことが町村の発言の中には背景としてあるんだと私たちはそう見抜きました。

 ふざけるなと、沖縄県民を愚弄するのは許さんぞと、俺たちが百九十日闘っているのはどういうことかお前らに見せているんだと。沖縄の県民は今度の事故も含めてもう絶対許せないという思いが高まっている、だから辺野古移設は六%しかいないんだよ、それをまた県内移設と言うような形で、下地島というニュアンスを国会で答弁していく、こういうことに対して、ここまで沖縄の人間を小ばかにするんであれば絶対に許さんという思いを代表団全員が外務省にぶつけました。

 先ほど言ったダイバーの新しい動きと同時に、もう一つ報告させてください。若者たちが、学生も中にいますけど、別段どこかに何か所属しているというでない青年たちが集まって今、北谷、那覇でこういう「NO BASE LOVE」というステッカーを売って辺野古に行って行動に参加してみませんかということのチラシを配ったり、車座になって写真を見せたりしています。この若者たちも座り込みで出会ったんですね。全く見も知らない人たちが座り込みで出会って自分たちで何かできないかということから生まれたグループです。

 辺野古におけるお年寄りたちの闘いに対して、若者たちも今回の沖国大の事故を身に感じて動き出したという、今回の私たちの座り込み行動の中で新たに面白い動きが出てきたということを紹介をしながら、報告を終えたいと思います。


山内 徳信(共同代表・元県出納長)

 今日は月曜日でございますからここに集まっておられる皆さん方、それぞれお仕事を済ませた後、あるいは別の日程もあったかと思いますが、上原さんを中心とした呼びかけに東京のど真ん中でこんなに大勢の人が集まっていただきましたことを、沖縄現地で闘っている者として敬意を表し感謝申し上げたいと思います。

 四月一九日から始まりました現地の座り込み闘争、そして九月九日から海上闘争が始まりました。長い間、上原さんあるいはここにいらっしゃる皆さん方の中にもおられますが、多くの方々が辺野古に新しい基地をつくらすことを絶対に認めないという闘いに参加をして下さっておりまして、重ねて感謝を申し上げます。

 そしてそういう具体的な座り込み闘争とか海上闘争のみでございませんで、「もっと船を増やせ」とか、あるいは「カヌーを増やしてほしい」とかいう条件づきのご支援もいただいておりまして、そういう知らせが入ります時、私をはじめ安次富さんあるいは向こうでずっと必死でがんばっておられる皆さん方から逐一報告をしております。

 私はそういうふうな方々を兄弟姉妹と言います。私は無宗教でございますが、最近兄弟姉妹という言葉を使うようにしています。二一日は関西で同じような集まりがございまして、向こうでもここにいらっしゃる方々は兄弟姉妹であります、と。そして感謝の言葉を申し上げたんですがどうも霞ヶ関と永田町におるあの人々は、日本国民や平和を愛する国民やあるいはその基地撤去で闘っておる私達からすると、とても父親とか母親とは思えません。

 沖縄差別を構造的に政治的な差別としておる集団が向こうにおるわけです。そういうふうなことが現地沖縄におりますと、それが構造的によく見えるわけであります。

 いくつか安次富さんからも具体的な話があったと思いますが、そういう状況にも私達はめげずに、この今の闘いを勝利するまで闘い抜く以外にない、とこういうふうに誓いあっておるわけであります。

 今日は、最初、米大使館から環境省、外務省、防衛庁と防衛施設庁はいっしょでございましたが、私達の「要請」でなく抗議ですね、とても穏やかに「要請」して頭を下げるものでございませんで、行く先々で、本当に沖縄からの民衆の、庶民の、国民の怒りをぶつけてあります。そしてその日米首脳会談で「沖縄の基地負担を軽減する」とこういうふうに合意に達してしておりますが、実は長年「沖縄の基地」、「沖縄の基地」というふうに政治家も国民も私達も使ってきたこともありまして、基地問題はなにか沖縄固有の問題と思っておる日本の政治家、日本の国民がけっこういらっしゃるなあ、と思っておるのです。なるべく基地問題は「沖縄の基地問題」とは言いたくないんです、「日本の問題」と。

 安保条約を結んだのも地位協定を結んだのも、沖縄県民の意思とは関係ございません。日本の政府・政治家がやった行為でございますが、そのシワ寄せは全国の基地の七五%を沖縄に押しつけられておりますから四分の三は沖縄にあります。面積は〇・六%しかないのです。全国の人口の一%であります。一三〇万おりますから。余りにも小さい島に過重な、理不尽な基地を押しつけて平然として横を向いている日本の政治家、とても仲間とか兄弟とか姉妹とか呼べるそういう存在ではないと思っています。

 今日は日米首脳が合意した、基地負担の軽減に対して具体的に沖縄側から提案をさせていただきます、とこういうふうに四ヶ所へ行って申し上げました。それはそのアタマ数だけ減らして、軍人だけ減らして基地の面積はそのままということでは、そういうやり方については沖縄は承服しませんと。

 具体的には辺野古に新しい基地をつくらせない、見直し中止せよということです。そして普天間飛行場を世界一――ラムズフェルドも言いました。彼は飛行機から普天間飛行場を見て「世界一危険な飛行場」と言いました――、その足で辺野古の海を飛行機から見て「こんなに美しい海に」と。こういうふうにしてペンタゴンの親分も危険性と海の豊かさをよく知って帰ったわけです。

 もう一つは、都市型戦闘訓練。最初は都市型ゲリラ訓練と呼んでいたんです。ところが今から十年前、金武町の、今つくっているすぐ西海岸が恩納村ですね。私は恩納村の東、南側の読谷の当時村長をしておりましたから、よく黒砂糖を買って支援に行ったんです。おじいちゃん、おばあちゃんがが座り込んでいますから。なぜおじいちゃん、おばあちゃんかというと、座り込みに入りますと一定期間続きますから若い人が仕事をなげうってずっと座り込むわけにもいかんのです。やはりメシを食いながら生活もしながら、闘いはおじいちゃん、おばあちゃんだけで――その構図は辺野古でも同じことなんですね――。そしてついに都市型ゲリラ訓練場は建物までできたんです。そして集落や役場の窓を開くとすぐに見えるところにつくっていたんですね。そして機動隊がゴボウ抜きをおりましたが、「今日は機動隊が入る、なあ」、「明日は機動隊が入る、なあ」という時には私はサッと一人職員を連れて出掛けるわけですね。そういうふうにしてたたき出されて、西側からたたき出されて――十年間「冬眠」をしていて――、今度東海岸の金武町のキャンプ・ハンセンの中に伊芸区という集落から、直前だと二百五十から三百メートルくらいの距離なんですね。ここは今日までいろいろな事故・事件を起してきた演習場なんです。それを今度つくろうというわけです。不思議なことにこれには今の知事も反対といっているわけです。辺野古は容認しておいて。私達はそういう知事のその姿勢も追及しておりますがこの三つを、基地の負担軽減の具体的な中身としてこの三つを入れろと、今日も外務省・米大使館に行っても防衛庁・防衛施設庁に行っても強く要求をしたのが今日の「要請」でございます。

 皆さん方が毎週、防衛庁に抗議に行っていらっしゃるというのは沖縄にも伝わっております。上原さんからお話をうかがって心から感謝申しあげております。

 私が終始日本政府や米領事館や大使館にずっと言っていますのは、「これは戦後沖縄の機問題で島ぐるみの土地闘争がありました――島ぐるみですね――。ところがこの辺野古に基地をつくろうというのは島ぐるみでは終わりませんと。国民ぐるみ、北海道から鹿児島・沖縄、とりわけ関東とか関西という大きなブロックを中心として、これは国民ぐるみになりますよ。そういう性格があるんです。それでも終わりません。・国際ぐるみ・の闘いになります」。「二十一世紀は環境の世紀」と言われておるのに、個人や個人に認められない環境破壊を、政府がやる時には許されるというのは、これは理屈が通らない。そして諫早(いさはや)の二の舞をするな、と。強硬に押していった時に必ず深刻な政治問題、社会問題、環境問題になりますよ、と。

 すでにアメリカにおいては「ジュゴンを守れ」という裁判の提訴が進められております――私はそういう県民会議の共同代表も仰せつかっておりますが、そういう組織的な動きもやりながら――。ブッシュ・ラムズフェルド・パウエル、それから基地の閉鎖関係のアメリカの国会議員・ハワイ出身のアメリカの国会議員、それからハワイの東西センターにもその訴えの、アメリカの理性と良識に訴える――アメリカは知性ということは喜ばんのです(笑い)――。彼らの歴史は先住民を次々とつぶしていった、そういう歴史でしょう。

 私は理性と良識に訴えるということで、大統領はじめ国会議員にも訴えていたんです。あらゆるここに座って方々、もう「自分で何ができるか」ということを考えていって、現地での大きな闘いはやはり辺野古の漁港の座り込み、海上の――海がシケますとカヌー隊、命がけのですね、相手の調査船とここも抗議船を出して行っておりますから、陸上・海上ともに命がけの闘いが今、進められておるわけです。

 それだけではいかんだろうというわけで、私達は那覇防衛施設局に公開質問状を出して、最初はいいかげんにあしらおうとしていましたが、「文書回答をせよ」と、文書回答をしなければということで二週間に一篇、抗議・要請・要求を続けてついに文書回答をしたわけです。そして課長での対応はお断りします、局長を出せ、局長を出せ。ついに前の局長は出てきませんで、最近若い局長、西正典局長に替わっておりますが、やはり新しい体制を向こうはつくっていき今、名護に入って来て自然を恐れない、神を恐れない、民衆をも恐れない局長は「GOサイン」を出して作業開始をしておりますが、やはりそういうムチャなことは、理不尽なことは必ずつぶれると、あるいはつぶさなければならないと思っておるわけです。

 例えば一つの例を申し上げますと、那覇の県庁前の十字路で毎日、加藤君という青年ですが、彼は前からにも背中にも「辺野古への新基地反対」と言って向こうが青信号になると向こうへ行って歩いていくんですね。またここ青信号になると歩いていくんです。自分の住んでおるところでそういう闘いを創意工夫しております。「加藤君、どうしてここでやっているの?」と言いましたら、「いや、仕事の関係で辺野古に行って座り込むことできないから、仕事終わってからここに来てやります」とか。一例を申し上げたんですが、権力者・日本政府やアメリカ政府に私達民衆からNOという情報をどんどん発信していくことも弱いようでありますが、これは絶対弱くないんです。

 私は読谷の村長時代に、対潜哨戒機P3Cの基地を読谷の今の役場が建っているあの一帯につくるということで、工事が六十%進んでおりましたが私は沖縄の米軍、本土におる米軍、政府も全部訴えたのですが、いよいよアメリカ軍がさらに強硬に出てくるという情報が警察署長から入ってきたんです。読谷を管轄している嘉手納署の署長から「山内さん、来週の火曜日か水曜日、機動隊が出て守られて住民を排除して工事に入る準備が今日決まった」と。「ありがとうございます」と言って、敵の中にも味方をつくって取り締まるはずの警察署長が私に情報。お互い大人ですから他言無用ですね(笑い)。もう時効かかっておりますから。そして思いつめて私はあと一人にまだ訴えていないことに気づいて、時の大統領ジミー・カーターに日曜日一日で手紙を書いて月曜日に午後から県庁に行って、そして中央郵便局で投函して記者会見を開いて沖縄の新聞・東京の新聞いっせいに大きく報道してもらったんです。そしたら那覇防衛施設局も防衛庁・防衛施設庁も頭にきて、カンカンに怒りましてね。外交に関することまで一村長がやるとはけしからん、という。外交は彼らに言わせれば専管事項だとか専権事項とか難しいことを言うんですね。憲法のどこにも「外交についてものを言ってはいかん」とどこにも書いていませんと。外交が間違っていたから日本が太平洋戦争やって原爆を打ち込まれ沖縄戦と悲惨な結果をもたらしたのは、あんたら外務省の先輩じゃないのか? 軍人だけの責任でない。私がやったのはあんた方がいう「外交」じゃない、と。これは民間外交・自治体外交というんだ、と。どこが悪いか?

 そういうふうにしてついに六十%進んでいた対潜哨戒機との交信用アンテナ基地は白紙撤回が実現されるんです。

 ですからやはり民衆とか自治体の人々が力を結集した時に、日本政府を動かしアメリカ政府を動かしアメリカ軍を動かしていく力があるわけです。

 今、自画自賛でもございませんが、読谷の役場とかあるいは陸上競技場とかサッカー場とか、福祉センターはまさに基地の中に建っているんです。私がそこにつくると言った時に、二十一世紀の読谷の拠点を基地の中心につくると言ったら、みなさんから笑いものにされましてね。安保条約があるじゃないか、地位協定があるじゃないかと言ってたんです。安保条約も地位協定も人間がつくりあげた仕組みなんです。自然じゃないんです、富士山じゃないんです。自然を改善したり改廃したりしたりする力を持っているのは富士山じゃないんです、人間なんです。

 そういう不可能と言われせせら笑われていたあの読谷の闘争は、ついに基地の機能をマヒさせて空洞化して基地の真ん中にああいう建物が建ちますと、皆さんの足の裏に針がさされたときに歩けないのと同じようなものです。基地の機能に打撃を与えていく、と。それはまさにみなさんの近くにも横浜の市長・飛鳥田一雄さんがベトナム戦争の時に相模原でしたか、あの戦車を運ぼうとした時に、村雨橋で重量制限で阻止をしたわけですね。まさに私達が追い込まれた時にありったけの智恵をしぼってみる。そういうふうにして権力者を逆に追い込んでいく。そしてこの辺野古の闘いを勝利した時に、日本の政治家・日本の官僚は日本国民の意向を無視してはもはや政治は存在しないと、こういうふうに悟るでしょう。

 ところが逆にあの飛行場ができあがった時に、その銃口はアジアに向けられるわけです、アジアに。そうしますと戦後生まれたアジアの国民たちは、日本国民に対して「戦後生まれた日本の政治家も国民も、戦前の日本と同じようなものだ」というふうに、もう連帯も信頼感も失ってしまうわけですね。そういう非常に深い意味が辺野古の闘いにありますから、これからもご指導ご鞭撻をお願い申し上げまして「十分は話しませんよ」といったのに(笑い)オーバーしてしまいました。たいへん恐縮でございました。ありがとうございます。


長嶺 律雄(市民団体・元NTT職員)

 沖縄で一坪反戦地主会の創立の時から関わっています。沖縄では裁判闘争と一坪反戦地主会の会員の登記関係をやっています。

 私が怒っていることは、この前ヘリ事件が起こった時に、米軍は報道カメラマンを追い回してフイルムを取るという行為に出たわけですね。で、勝手に閉鎖して、基地の中なら治外法権の権利がわかるんだけど、事件が起こって基地の中に我々が入って行って見ようとしたらそれをだめだと言うことは少しはわかるんだけど、何で基地の外で起こってそういうことができるの、こんなの占領状態と全く同じじゃないと、復帰前と全く同じことじゃないかという思いがして、腸が煮えくりかえったんですけど。

 問題は、その後国会答弁で、川口外相は、「これは安保条約上、地位協定上、可能だ」という答弁をしたわけですね。ところが、一昨日の琉球新報の記事を見ますと、米軍側は自分たちの軍用の指令の中に、「基地の外で事故が起こった時には、武力とか強制的に報道を規制したりフイルムを取ることはできない」という指示文書を出しているわけです。ところがそういう指示文書を出しているにもかかわらず、日本の外相川口は、それを、強制的に取り上げたり追い回している、勝手に地域を閉鎖することを当たり前の当然の権利、米国の権利だと言っているわけですね。こんなバカげた外相がどこにいるかという思いをしています。

 で、沖縄で事件が起こりますと、いつもうやむやになってしまうのは、起こした本人をいつのまにか米国本国に帰してしまうということですね。そうすると、新聞社も本当は追及したいんだけど、金が無いもんだからアメリカまで行って犯人を追いかけるわけにはいかないんで、情報薄くなっていつの間にかその事件事故の問題も薄れていくという問題が起こっています。

 沖縄で今起こっていることは、私に言わすと、間違いなく全国に波及しますよ。本土の沖縄化になっていきますよという思いがずっとしています。七五%という基地が、米軍専用施設として沖縄に今集中しているから沖縄だけの問題、沖縄が差別化され起こっている問題とおそらく本土の皆さんは思っているかもしれませんけど、違うんだよという思いで私言いたいんですよね。これは間違いなくそういう状態になってくると、まず米軍が本土に沢山きたときにはそういう状態が起こりますよと。同時にそのことは、今度は自衛隊がそういうことやりますよということを知ってほしいんです。

 防衛施設庁は、最初私たちの土地を取り上げるときに二人一組で来ました、地主に。二人一組というのは理由があるわけです。間違いなく行きましたよという証人として職員誰が行きましたということですね。お願いに来たわけです。で、お願いに来ても形式的ですね、例えば私の子供たちが、両親がいなくて子供たちが「なんか貸さないみたいなことを言っている」みたいな話しをすると、この人はもう貸さないということだから強制使用の理由になりますという感じですね。

 ところが今は、公開審理に文書を出しているんですけど、その文書の中では「一坪反戦地主会の共有地については、一切了解を得ることは必要ない」と言っているわけです。正式に言っているんですよ。裁判でそこまで言うと恥ずかしいのかどうかわからんですけど、裁判の中では逆に「地主の家に行って了解を得るように事前折衝しましたけれどだめでした」という言い方をしている、裁判の文書の中では。

 これは次の事件が起こってくると裁判の文書の中でも「行かないのは当たり前」という言い方になってきます。そのことを理解してほしいんです。米軍がやったことは、次は防衛施設庁がやってきますよと。これは沖縄だけじゃない、そのことを知ってほしいと思います。


久場 たつの (市民団体・主婦)

 「カマドゥー小たちの集い」という宜野湾市で五、六名でやっている女性の集まりです。これは、一番最初に宜野湾が返還するという話しが出たときにわーと喜んだら翌日には移設条件付きという、恐ろしい、といってもそんなもんだろうなと一応思ったんですけど、それが四十キロも離れていない辺野古ということで、本当に腸が煮えくりかえる思いで。名護でもすぐ反対運動が起きました。だけど当事者である宜野湾市では何の動きもなかったもんで、それでいいのかということで女性が集まり、男の動きが無かったんで、とにかくできることをやろうと。

 名護の人たちは、あまり沖縄の中でも基地というところが少ない所なんですね、地域的に。だから、宜野湾が背負ってきた重荷を今度はかわいそうだから名護が引き受けようというような、そんな生やさしい、やさしさで引き受けるような物じゃないということを伝えようということで、この「声・こえ・KoE」というチラシを出したのがきっかけです。市民投票から始まったんですけど、今回事故があってその時出したのがもう一一号になっています。

 私自身が今パニック障害という症状をかかえていまして、本当だったら毎日朝、午前中寝ている状態なんですね。今日は六時半集合ということで、どこまでできるかわからないけれど、中三の娘がいまして、受験生なんですけれど今回一緒に連れてきて、学校よりも勉強になるということで、普通の人が、市民が政府に抗議する姿というのをどうしても娘に見せたかったわけなんですね。それが当たり前のことなんだと、政府がものを決めるんではなくて、ちゃんと抗議を聞くのが政府の仕事なんだということを娘に見せたくて無理して来てみました。

 今日の感想としては朝から、私は沖縄が大好きで、着いた途端に沖縄に帰りたいタイプの人間なんで、東京にくるとミーグルグルして今ちょっとめまい状態なんですね。あっち行って、こっち行って、四つの要請の内二つは入れまして、その内の四つ目、防衛施設庁ですよね、娘が一四歳なので、申請する側のほうが自主規制したのかどうなのか、申請の中に入れなかったんですよ。どうしてかと、一四歳だろうが何だろうが成人になる、大人になるための一四歳なんだから、見せたいと。これは沖縄でもしょっちゅうなんですね、アメリカ総領事館なんかに抗議要請に行くと子供は入れない、どうしてかっていうと一切言いませんよ。今日は照屋寛徳さんのあれで、向こうの防衛施設局の酒井さんでしたっけ、トップの一言良いですよということで入れました。こんなもんだなあって思って入りました。

 そこで最後に、自分の中でもふつふつと煮えくりかえる物があって、最後にお母さんとして一言聞いてくれと言って直接抗議ができました、娘の前で。これ以上沖縄をバカにするなと。こんな四十キロ離れいている所に移して何をするのかと。私は実家が近いので、窓を開けるとフェンスなんですね、普天間基地の。墜落事故の黒いガスが流れてきて臭いような状態の場所です。毎日毎日、事故の起きる前から私は落ちるというのは知っているわけですから、毎日聞くわけですからおかしい音というのはわかるんですよ。ロータリーの音のひゅんひゅんひゅんとこの音おかしいと、というのがわかる自分が怖いんですけど、わかるんですよ。だから落ちてもおかしくない状態というのはわかってました。

 本当に誰も死ななかったというのは不幸中の幸いなんて言葉じゃないです、これは最後の警告だと思っています。その時娘と一緒に現場を回って、本当に奇跡という言葉が当てはまるというのが良くわかりました。
 私の病気も、この事故のあった後静かになったんです、もちろん市民の反応がすごかったもんで、静かになったら結構症状が良くなったんですよ。それを考えた時にやっぱり私の症状というのはかなりあったんだなあと、低周波というかそういう音というのはやっぱりいらいらの原因ですよね。

 領事館のほうに、沖縄の総領事館のほうに抗議に行った時にですね、ここに沖縄の基地を置いているというのはどういうわけか、危険とわかるでしょうどうして置いているんだと言ったら、日本政府がそう言うからだと、日本政府がそう言っているからといってこんなど真ん中に置いているあなた達は恥ずかしくないんですか、アメリカのジャーナリストが来てこれあなたたちの基地ですよって言ったら皆ビックリするんですよて言ったら黙っていましたね。

 本当にここにきて思うのは、東京で頑張っている人たちの大変さだと思うんですよ。私も宜野湾でがんばっているんですけど、落ちてから恐怖を共有することができる、今まではこんな話しをしたことがない人たちとも、その人たちが「頑張ってね、沖縄のために頑張ってね」、いやいや私は自分の分しか頑張れないよと、できることしかできないからねと言うような人たちも結構いるわけですよ。軍雇用員の知り合いとか、中で結婚した人とか地主とか色々いて、しがらみがあって言いだせない人がいるわけです。でも今回の事故があったもんですから、今まで署名活動とかしたことない人たちが、十名の署名を四、五枚持って帰って全部やってきてくれる状態になりました。その時に始めて恐怖の共有ができたなあって、思ったんですね。

 東京で頑張っている人たちも本当にむなしい限りじゃないかと私は思うんですよ。先日記者が来て沖縄の運動と日本の運動、本土の運動は違うんだと、本土の運動は日米安保がどうの地位協定がどうと難しいって言うから、それが根底にあるんだから難しいと思う人たちの貧弱さなんではないですか問題はと言ったら黙っていました。

 頑張っている人たちに対して、恐怖を共有するためにですね、東京湾に持ってくる運動というのを本当にやって欲しいなあと今思っています。これはいつもヤマト発信のテレビを見ていて、日本っていうのはすごいあぶない状態じゃないのかなととても思います。地に足が着いていないような状態のような気がして。だから本当に東京湾にあって軍事基地がどういうものか肌でわかって欲しい、当事者になって欲しい、みんな。その方が日本人にとってもすごくいいことになるんじゃないかなと今思っています。今、沖縄のことを考えたときに、日本のことを考えなきゃいけない。そうすると、日本に良くなってもらわなきゃ沖縄としても困るんですよ。だから、東京湾にという運動を是非展開してもらいたいと思ってきました。


秋山 勝 (市民団体・沖大非常勤講師)


 一人だけ沖縄から来たヤマトンチューです。一一年前に沖縄に住むようになりました。

 もう、沖国大の話しも、それから、普天間の、辺野古の話しもみんな当事者から話されているので私は一つだけ。去年ですね、私たちはイラクへ、沖縄市民連絡会としてバクダットに行きました。そして戻ってきて基地との関係で嘉手納なり普天間での闘いをやってきたんです。沖国大に落ちたヘリは、ちょうどイラクへ向かう準備をしていたヘリです。だから、落ちたその翌々日、ホワイトビーチからCH-53Dを積んでイラクへ行きました。普天間基地にある五十数機の内の四十数機は、イラクに行っています。それから、辺野古にあるシュワーブ、ハンセン、金武湾、都市型戦闘訓練施設を作る金武、キャンプハンセンのある所、含めて五千人の沖縄の海兵隊部隊がイラクへ行っています。

 沖縄で、自分たちの危険に対して、生活の問題から基地に対して反対する闘いは、同時にイラクを殺している沖縄の米軍に対する闘いと繋がっていくという、あるいはそうでなければならないというふうに私の思いはありました。イラクの人々と会ってきて以降は、特に自分たちが住んでいるところで何ができるのかということを強く思いました。今でもあの子たちの表情を忘れることができません。

 私は年金生活者で同時に琉大と沖大の非常勤をやっていますけれども、明日は授業止めますと、休講にしますと、こういう目的で行きますと、イラクへ行く時も言いました。学生にこういう目的で行くので休講にしますということを言ってきましたが、是非、中央での行動と県知事を追いつめる行動と辺野古と普天間の地域の現地における闘いとがきちんと繋がっていかないと、先ほど山内徳信さんや久場さんなんかのお話にあったように、もう沖縄ぎりぎり、最後の警告だと思います。

 この地に何か起これば、相当数の死傷者が出ると思いますが、実は我々のそういう声と関係なく日本政府とアメリカ政府の間で、いわゆる駆け引きで日米交渉という形で自分たちの運命が決められようとしているんだと。今、そういう時期に入っていて、年内だとかあるいは二、三ヶ月の間に沖縄の運命も決めるという時にです。確かに三万人集まったから、多少沖縄の負担軽減の配慮だとか、そんなふうに言っていますけど、実際は一言も普天間の閉鎖を言っていません。辺野古の中止を引き出していません。逆に普天間の軽減うんぬんということで、下地島空港などというふざけたことを言っています。これは沖縄返還協定の問題から九五年の少女暴行事件以降の普天間返還、いつも日米両政府が沖縄の人々の声が高まると多少譲るようなふりをして逆にひどいことをやってくるもんですから、今手を抜いてはいけない、今こそやっぱり頑張らなくてはいけないなということを思いまして、代表団の一員に入れていただきました。また沖縄に帰って頑張ります。


山城 博治(平和センター事務局長)


 山内代表がこの集会に是非参加したいということでありましたので、じゃあ私もご同行しますということで、その立場で聞いてほしいんですが。

 私は二点に絞って話させていただきたいと思います。辺野古で四月一九日に闘いが立って、五月二六日には金武で闘いが立っています。八月一三日にはヘリが墜落して、沖縄中が今、反戦反基地の闘いの渦のなかにあります。政府が九六年のSACO合意のように、どういう形で沖縄県民の盛り上がった闘いの炎を刈り取りにかかってくるかをずっと気にして見ております。

 最近言い出したのは、小泉が一〇月になってにわかに沖縄の基地の負担軽減ということを言い出しております。中身はご承知のようにありません。あったのはイラクに行っている三千の部隊を帰さないんだというふうな議論をして、これは自民党の中でも物議をかもして、人的な削減だけでは話しにならんと、面的な意味での削減も必要じゃないかという議論が、今新聞紙上に現れているところです。多分そういう形では沖縄の怒りは収まらないであろうというふうに思うわけです。

 今、全国の自治体でいわゆる三位一体改革で財源難に陥っています。私共の稲嶺さんが最近こういうことを言っています。特別交付金、交付金そのものが特別交付金なんですが、更に特別をかぶせて特別交付金制度なるものを沖縄だけ適用せよと小池に要請して小池さんがわざわざ官邸で沖縄の意向に添って努力をしたいというふうなことを言っているわけです。

 つまり、九五年の闘いがSACO合意であり、そして県内移設であり、そして十年で一千億円の北部振興策という形で絡め取られたように、私はどうもこのあたりに小泉さんの狙いがあるのかなあというふうに思ったりもします。是非ここは、こういうふうなことはやっちゃならんわけですよね。全国同じようにどこも三位一体改革でバラバラで、失業に更に失業を重ねている中で、沖縄だけこういうふうなやるというのはもう差別見え見えでありまして、私はそういうふうな形のことはいくらなんでも政府はできないんじゃないかと思っているんですけど、わかりません。これはやってくるかもしれませんし、そうであれば働く者としての誇りもかけながら、このことについては対峙をしていきたいというふうに思っています。

 あと一点申し上げれば、労働運動がどこの世界でも地域でも非常に弱っております。何とかしてですね、労働者の、組合の力を改めて結集をして、今、反合理化闘争も厳しい闘いを強いられておりますが、是非とも沖縄という立場に立って、普遍的な働く者としての生き様といいますか、怒り、生活のためにも闘ってほしい、ふんばってほしいということを呼びかけながら平和運動センターとして力を尽くしていきたいというふうに思っています。

 全国の皆さんの力添えをいただいて、辺野古で沢山の取り組みをさしてもらっております。また同時に、横須賀を始め岩国を始め、全国で小泉の言う日米同盟による基地の強化が走っていることも事実です。そういうことをやっぱり共に連帯をしながら、この国を戦争をさせないという取り組みをしたいというふうに思います。

 沖縄にいてわかるのは、小泉の政権が中国大陸の伸張というものについて非常に恐怖を持っている。今年の県の総合防災訓練で、ファントムもおおすみも全部総動員して八重山で防災訓練をしました。無かったのは潜水艦と戦車だけです。これが入れば東京都なみにいわゆる自衛隊を総動員した防災訓練が起きる。この時に与那国や八重山で自衛隊が駐屯していく、この構造はいわゆる彼らが言っている中大危機を契機に沖縄の先島に全部に自衛隊の基地を張り巡らしていく、いわゆる中国包囲網だと思うんですね、こういうふうに走っている。

 ここにくると非常に危なっかしい感じがしています。沖縄の課題というよりは全国の課題です。再び、これ以上戦争に走らせちゃならない、そういう課題をお互い担っているんだろうと思います。私共も沖縄の小さな地域ではありますが、是非踏ん張って闘いを立てたいというふうに思います。またこれからも共にがんばりたいと思います。よろしくお願いいたします。


豊見山 雅裕(市民団体・NTT労組)

 辺野古の座り込みのほうで、現場の空気をできるだけ伝えたいなあと今思っています。実際に来られた方も一杯いらっしゃると思うんですけど、本当に広い人が来るんですよ、親子連れで来たり。

 小学生の子たちがですね、小学校五、六年の子たちが何名かで来て、そこにたまたま安次富さんが気を利かしてサザエパーティをしたわけですね、網焼きして。その子供たちにあげたら、子供たちが生まれて初めて食べたとか言って、一杯食べたんですね。そして僕の方で、冗談で、こんな美味しいの食べたんだから新聞に書いてくれよと言ったらその一週間後に書いてくれました。「どこどこの一一歳、辺野古の座り込みの現場に行ってサザエを食べました。友達は五つ食べました。私は四つしか食べませんでした。くやしいです」。本当に子供たちは、その中で海の豊かさというものを知っていくわけですね。

 あるいは高校生達が文化祭の中で、座り込みの現場をずっとドキュメント撮ってて、インタビューをして学校で放映して。それは一校だけじゃなくて複数の学校、高校がそういうことをやって。あるいは近所の高校生達がバスで訪ねてきて座り込みをして、そしてオバア達と交流していく。それは安次富さんが言ったように、そこでまた新たな出会いがあって自分たちで何かしようじゃないかと。辺野古に来なければ会わなかった、会うことが無かったかも知れない人たちが出会ってですね、座り込みをしていると。例えば土日なんかは意外と暇だったりしますから、一緒にサンシンを引いたり、歌を歌ったり、踊ったりして、そういう場で楽しみ、辺野古で出会った人たちが例えば大坂に帰って、大坂で再度連絡を取り合って何か自分たちでできないかということで、辺野古の思いを伝えたいと言うことで、そこで毎週やっている。国会前でもやってますよね。そういう形で広がっていく。

 もう一つは、漁協内で最初は、四月一九日は、座り込みを始めたわけです。私、ウミンチュと話しをする関係があるもんですから話ししたんですけど、とっても冷ややかでした。最初は、国と県が決めたことをたかが住民が、住民というか市民の連中が座り込んだって持つもんかみたいのが、一週間過ぎて、十日過ぎて一ヶ月過ぎたらもう見る目がだんだん変わってきましたね。挨拶したら「おう」と「まだ頑張っているなあ」本当にその中で変わってきた。

 私は実は現役の会社員なんです。休みを使い果たして、今欠勤状態なんですけど。実際この闘いをするために退職した方もいます。私の場合には、職場の人たちがサポートしてくれていろんなことをしてくれて、給料はないんですけど、本当に変わってくるんです。

 地元の人たちもそうなんですけど、多くの人たちが話しをしたら「俺だって反対だよと、そんなの基地を作るのに賛成の人いないんじゃない」と言いながらも、ただもう少し話しをしていくと政府が、国が決めてやってきたことに対して、しかも背景には米軍とキャンプシュワブが出てくるような、そういう共同で仕事をするような基地に対して住民が闘って勝てるのかみたいな所があったと思うんですね。だけど、今日で百九十日ですよ。その前の八年間があったわけでしょ。本来なら数年前に彼らは着工したかもしれない。四月一九日に彼らは業者の人たちを含めて押しかけてきた、実力阻止したわけですね、で百九十日です。まだ彼らの思惑通りに全くいってないわけです。現在作業ヤードすら漁港内に作れていない、その残骸があります。

 だんだんだんだん私の知り合い、周りの人たちも何か勝てそうだなっていう、勝てるかもしれないという、もちろん私は勝てるつもりでいるし勝てると思うんですけど。だんだんそういう雰囲気に変わってきている。これは私は、本当に大きなことだと思います。勝ってごらん、沖縄は変わりますよ。これは辺野古だけの話しじゃ決してなくて、金武町の人たちが私に声をかけてくれたんですね、この前与儀で県民集会があったんですけど、そこで僕を見たと言う人がいて「頑張ってるね、だから私たちも頑張れるのよ」と言ってくれる。いろんな所で知り合いが多くなって、この間名護のそば屋に行ったら、全然知らない人に背中をばんばんばんばん叩かれて、「頑張ってるなあ、おい」と言って、もう知らない顔なんですけど、本当に雰囲気が変わってきているんです。

 ここまで百九十日も、私も初めはそこまで想像していなかったんですけど、私たちは、本当に沖縄が変わりつつあるし変わっていると思うんですね。もっと決定的に変えようと思っています。


當間 孝太郎(市民団体・元琉大職員)

 私はしんがりになりましたけど、少し脱線するかもしれませんけどお聞きください。

 私は那覇に住んでいますけど、私の家から辺野古のテント村までは六〇キロあります。往復約三時間くらいですね。高速を利用しますので、高速代とガソリン代入れますと三千円弱を、一回につきですね。

 日本という国は国家財政の半分が借金財政だと思うんですよ、国債発行してですね。その他に七三〇兆円もの国債を抱えているとかで、何で世界一豊かなアメリカに一兆円もかけて辺野古の基地を作るのかということが不思議でたまらないんですね。

 話しはちょっとそれますけれど、六〇年前の一〇月一〇日、私は偶然上原先生と同郷の那覇の港の出身ですけれども、たった一晩で那覇の町は壊滅したんですよ。燃えたのは土地の登記簿やら戸籍簿やら全部燃えたんですね。私の父が当時三九歳で防衛隊で南部の戦跡で亡くなりました。行方不明です。家族は五名ですね、終戦直後は飢えとマラリヤで何回か死にかけたこともあります。アメリカさんは民主主義が建前ですからね、大急ぎで戦前の土地を持っていた人の認定作業があったわけです。そのころは、大半の男が戦死していないわけですよ。女子供ではわからんわけですね。従っていろんな間違った認定がされて、それが現在まで続いております。個人的に言いますと、私の父は二百坪の畑がありました、ちょうど今の那覇の航空自衛隊の近く「がじゃんびら」というところがありますけど、マラソンで通る。現地に行けばわかりますけど、結局それは所有権無しの状態です。

 私、那覇高校を卒業しまして杉並の高円寺に友達と間借りしまして、日雇いとかアルバイトをしながら勉強しようと思っていた矢先にですね、砂川で軍事基地拡張の闘争があるという話しがありまして、その日に、昭和二九年の暮れごろだったと思うんですけどそこに行きまして、何回かの激しい衝突の後についにごぼう抜きされまして背中を叩かれてワイシャツもぐちゃぐちゃになったりしてその日は帰ってきたんです。ちょうどその頃は朝鮮戦争が終わった時期で、非常に不景気で一日にコッペパン二食の時代があったんですね。国会では、貧乏人は麦を食えという時代なんですね。こちらからちょっと行きますと、神田の一橋という所でしょうかね、共立講堂で重光葵の改進党だとか吉田茂、鳩山のいわゆる保守合同ですね、それがあるということを聞
きまして見に行こうと思って近くまで行ったんですけど警備が厳重で入れなかったんですよ。

 その保守党が戦後五十何年間も継続しまして、その結果世界に誇れる平和憲法が徐々に徐々になし崩しにされて、今や日本は世界第二の軍事国家になっていると言えると思います。ところが私たち沖縄県民から見ますと、軍事的にも政治的にもアメリカの属国じゃないかというふうに思っているんですよ。それに対して何故日本国民が、日本の全体の国民の方々がどういう認識を持っているのか私にはわかりませんけど。

 この会合の案内状のコピーを見せてもらったんですけど、沖縄の痛憤の声を聞きたいというふうなことが書いてあったような感じがしますけど、私の個人の痛憤の気持ちは、何故名護の市長が岸本なのか、何故沖縄県知事が稲嶺なのか、何故東京都知事が石原なのか、何故日本国の総理大臣が小泉首相なのか、全部憲法に逆行するような方々が日本を牛耳っているような感じがして、それが私の痛憤の声、私個人の声です。

    (テープ起こし、まとめ・写真は編集部)