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『一坪反戦通信』
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 第157号(2004年6月28日発行)

ヤマトンチューの平和意識と沖縄
                       
弁護士 河内謙策

 ヤマトンチューの平和意識と沖縄の関係について、私の体験したことを中心に書いてみることにしたい。

 最近、テレビや新聞を騒がせた会社の一つにカネボウ株式会社がある。この会社は以前、鐘ヶ淵紡績株式会社といっていたが、その紡績工場の一つが富山県高岡市にあった。私の生家は、高岡工場の傍らで、全国から集められて工場で働く“女工”さんを相手に雑貨を販売していた。私の母は、“女工”さんの見合いの相手を探すのが趣味で、100組以上の縁結びをしたというのが、自慢の種だった。全国から集められてきた女工さんを相手に商売をし、見合いの世話をやっていたので、全国各地の方言も、かなり理解していた。その母が、“沖縄から来た女工さんは可哀想だ。言葉が通じなくて、よく泣いていた。だけどよくまとまって助け合っている。”と言っていた。本土では、沖縄のことはほとんど知られていなかったし、すこし事情を知っていた母のようなケースでも、“可哀想だ”という人が多かったのではないだろうか。1950年代後半のことである。

 「日本戦後史の画期をなすような60年安保闘争もまた、全体としてみればけっして沖縄を視野のうちには入れていなかった」(中野好夫・新崎盛暉『沖縄戦後史』岩波書店、118頁)。私が“闘う沖縄”をはじめて見たのは、1963年だった。沖縄の日本復帰を訴えるキャラバンが、富山県のような田舎にもやってきたのである。私の記憶では、沖縄から来た人と本土の支援の人、あわせて6〜7人の小さな小さなデモ隊が夕暮れの中を意気揚々と行進して去って行った。私が感激したことは、言うまでもない。

 私が上京し、大学生になったのは、1965年である。1960年代後半は、戦後日本の平和運動の一大高揚期であった。ベトナム問題、日韓問題、原潜問題など、目白押しの状態だった。そのような中で、70年安保問題が浮上してきた。平和運動の中心部隊では、今度の安保闘争では、60年安保闘争の轍を踏んではならない、沖縄問題を一緒に取り組まなければならないということが、かなり意識されていたように思う。72年の沖縄闘争の詳細は、ここでは触れないが、それが日本の歴史始まって以来のヤマトンチューとウチナンチューの大衆的連帯闘争であったことは間違いない。私の属していた共産党系の平和運動では、沖縄問題が重要だという事はみんな理解していたが、今から思えば、そこには一つの問題があったように思われる。それは、沖縄問題を日米安保条約との関係で理解する傾向が強すぎたことである。地域問題として沖縄問題を把握することの弱さ、あるいはアジア全体の軍事・政治・社会・経済構造の関連のなかで位置づけることの弱さと言ってもよい。共産党系の平和活動家の多くが、思想的には“反米ナショナリスト”だったといってもよいと思う。私は、当時の社会党系の平和運動や新左翼系の平和運動のことは良く知らないが、このような弱点と完全に無縁であったとは考えられない。

 私がこのような弱点のことを真剣に考え出したのは、1995年の少女暴行事件のショックからだった。あの事件は、“お前の平和意識・平和思想は何だったのか”を鋭く問いかけた。その結果、私は、自分が沖縄問題について無知で、無自覚の偏見をもっている普通のヤマトンチューに過ぎないこと、そして、1960年代後半から1970年代初頭の沖縄闘争の不十分さが普通のヤマトンチューの平和意識の問題点を克服できず、その結果、本土における20年間に及ぶ沖縄闘争の不在を招いたこと、を発見したのだった。

 紙数が尽きてしまった。1995年以降の私の試行錯誤については、他日を期したい。

                                                                      (2004/06/24)