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『一坪反戦通信』
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 第153号(2004年2月28日発行)

 【連載】 やんばる便り 41
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 一九四三年三月、エイさんは三年ぶりに那覇の港に帰り着くと、その足で故郷・辺野古に向かった。「当時は嘉手納まで汽車(軽便鉄道)が走っていたし、嘉手納からは新垣バス(個人経営のバス会社)があったの」。新垣バスの最終便で夜遅く名護に着いたエイさんは、そこから辺野古まで歩いて帰らなければならなかった。「川を一〇回ぐらい渡りながら歩くので、足袋もみんな破れてしまった」

 紡績工場から、着物をいっぱい詰めた行李を二つ持ってきていたが、「那覇で汽車に乗ったら、荷物も向こうが載せてくれるものと思い込んでいたの。結局、那覇に置いたままになってしまって、家に帰ってから叱られたよ」。行李はあとで取りに行ったが、エイさんの汗と努力の結晶とも言えるこれらの着物は、モンペに縫い直したり、シマでも空襲が激しくなると防空壕に入れたが、雨漏りで腐ってしまったものも多いという。「戦後まで残っていた着物は結婚後、子どもの服に縫い直して着せた。物のない時代だったからね」。会社に積み立てられていた四五円の貯金は、あとで送られてきた。

 「沖縄決戦」を前に、日本軍の守備隊が次々と沖縄に集結しつつあった。エイさんが乗った船に「沈まないかと思うくらいぎっしり」詰め込まれていた兵隊たちはどこへ配備されたのだろうか。沖縄各地で日本軍の陣地構築が始まり、四四年、辺野古の隣部落の久志(くし)にも球部隊の本部が置かれた。

 『辺野古誌』によれば、「シマでも・・数名の守備隊が駐留し・・米軍上陸を警戒する・・・・と共に避難壕を構築する一方、米軍の海上上陸作戦を想定し、大浦湾と辺野古湾を擁する海岸線の丘上地に『山平(さんぺい)壕』と呼ばれる敵軍を迎え撃つ塹壕が・・凡そ二〇米間隔で掘られた。こうした作業も高等科を卒業した一五、六歳の女子青年があたり、掘削作業が大掛かりなことから二見以北の女子青年も総動員され、戦闘態勢が敷かれた」。

 辺野古からも防空壕作りなどのための徴用が始まった。「辺野古の女子青年で結婚していない人は全部――そうだね、四〇人くらいが明治山でのササ(竹ガヤ)刈りに駆り出された」とエイさんは語る。刈ったササは防空壕を作るとき屋根に載せるものだった。「一人ひとりが一メートルの紐を腰に結ばされてね、これがいっぱいにならないと帰してもらえないの。疲れて休んでいると、馬に乗った兵隊が来て連れていかれ、正座させられた上、一時間も説教された」

 誰かが仕事を休むと、区長が本部に連れていかれて説教された。みんな若い女性なので生理などもあるし、毎日、誰かが休む。当時、辺野古の区長だった城間さんという老人は毎日、日本軍に責められて苦しみ、それよりは、と防衛隊に志願して、本部半島の真部山(まぶやま)で戦死したという。エイさんの弟の一人も護郷隊に取られ、一六歳で戦死している。

 「球部隊に大阪出身の兵隊がいたんだけどね。この人が、紡績帰りで大阪弁を話せる辺野古の女子青年と親しく話をしている間に、その友だちがササの間に枯れ葉を詰め込んで束を作ったことがあった。これがまもなくバレて、この兵隊はひどい目に遭わされたらしいよ」。

 球部隊は朝鮮人を三〇人ぐらい連れてきて、食事もろくに与えずに丸太運びをさせていたという。彼らは軍服ではなく朝鮮の服を着ていた。お腹が空いてふらふらし、足を滑らせて転んだりすると、兵隊が死ぬまで叩く。「あんまりひどくて、見ていられなかったよ」と、エイさんは顔を曇らせた。

 朝鮮人たちはエイさんのところに来て「イモはないか」と聞いた。「虫食いのイモしかない」と言うと、「お腹に入ったら同じだから、それを石鹸と交換してくれ(石鹸は軍から支給されていたらしい)」と頼むので、虫食いのイモを炊いて持っていってあげたという。エイさんは、「北朝鮮による拉致事件が問題になっているけど、日本人は朝鮮人にあんなひどいことをしたのだから、仕返しをされて当然だと思うよ」と言った。
 四四年一〇月一〇日、米軍は都市部・港湾・飛行場建設地を中心に、沖縄各地に大規模な空爆を行なった。十・十(じゅうじゅう)空襲と呼ばれるこの空襲で那覇の町は灰燼と化し、軍事施設のある各地域でも多大な被害が出た。辺野古でも海岸に停泊中のヤンバル船が何隻か被害に遭ったが、幸い、集落区域での被害は免れたという(『辺野古誌』)。

 エイさんは、この十・十空襲のあと(一〇月末頃)伊江島飛行場を造るために徴用され、一カ月ほど伊江島で働いた。「伊江島に着いたのは夕方だったので、泊まるところを探そうと、ある壕に入ったら、人の頭や人肉が散らばっていて、とても寝るどころじゃないの。その晩は、製糖工場の鍋の上に板を敷いて泊まったよ。寝返りすれば落ちるので、なかなか眠れなかった」

 徴用された人びとは、老若男女を問わずモッコを担がされ、兵隊に監視されながら、エイさんの言葉を借りると「蟻の行列のように」飛行場建設に従事させられたという。「着の身着のままで、下着を洗うところもないさね。若い娘にはつらかったよ。空襲警報が鳴ると、みんな『アンマー(おかあさん)!』と泣きよったよ」

 伊江島には日本軍の慰安所があり、朝鮮から連れてこられた若い女性たちがいたのをエイさんは見ている。
 伊江島から帰ってくると、こんどは「嘉手納飛行場の建設に行ってくれないか」と日本兵に言われたが、エイさんは「どうせ死ぬなら、ここで親といっしょに死ぬ」と言って断った。「行かなくてよかったよ。あれから空襲が激しくなったからね。行っていたら、死んでいたかもしれない」

 「そのあとも、山平壕を造らされたり、竹槍訓練をさせられたり、また、現在キャンプ・シュワブの中になっているビーチの近くに特攻艇の陣地を作るということで、世冨慶(よふけ)の山から松の丸太を担がされたこともある。大浦湾には日本の海軍がいて、駆逐艦が入っていたよ」

 いよいよ空襲が激しくなると、エイさんの一家も山に避難し、三カ月ほど避難小屋で暮らした。久志岳や辺野古岳周辺には点々と避難小屋があったという。「食べ物がないでしょう。避難小屋の周辺に埋められていた地雷を缶詰と間違えて開けて、死んだ人もいたのよ」

 四五年四月、米軍が辺野古に上陸。集落を占拠し、空襲を免れた家々に火を付けて焼き払ったという(前掲書)。「米軍が上陸してきてからは、若い娘だから米兵に捕まらないように用心した。危なかったことも何度かあるけど、でも友軍(日本軍)よりはましだったね。米兵は、住民は殺すなという教育を受けてきていたから」

 エイさんたちはまもなく山を下り、焼け跡からの生活が始まった。その年の冬に、母の四九歳のお祝いをしたのをエイさんは覚えているが、お祝いといっても、米軍の残飯がご馳走だったという。

 七月頃、日本人二世の米兵がエイさんのところに来て、「草刈りより看護婦をしないか」と言った。エイさんは看護婦になりたいと思っていたので、友だちといっしょに野戦病院に行くことにした。病院といってもテント小屋があるだけで、その隣は、二重の柵が張られた犯罪兵などの収容所になっていたという。「宜野座(ぎのざ)の野戦病院(現在の宜野座高校の敷地)がいっぱいで、収容しきれない人がそこに運ばれてきていたけど、薬も何もないので、傷口に湧くウジを取って捨てるだけが仕事だった。ウジは、取っても取っても、次の日にはまた湧いてくるの。爆弾でお尻の肉が抉られた四〜五歳の子どもとか、梅毒にかかり、痛くて泣き叫んでいる朝鮮人慰安婦もいた。思い出すだけで胸が痛くなるよ。毎日、穴を掘って、亡くなった人を埋めるのが日課のようになっていた・・」

 戦後、シマの人と結婚したエイさんは「九人の子どもたちを育てたけどね、それは海のおかげよ」と言う。夫と母が採ってくるタコや魚、貝などを名護の市場に持っていって売り、そのお金で食べ物や服を買って帰った。「売りきれないからもう採ってこないで、と言うほど採れたよ」

 海の話になると顔を輝かせ、「ほんとにこの海は日本一さぁ」と言うエイさん。「だからね、基地建設には絶対反対よ」

 エイさんたちの思いを子や孫たちに繋ぎ、大切な宝の海を損なうことなく引き継いでいきたいと、改めて思う。  
【了】