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『一坪反戦通信』
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 第149号(2003年9月16日発行)合併号

【連載】 やんばる便り 37
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会) 

 連載(三二)で、嘉陽からの出稼ぎの特徴の一つとして、岡山県のレンガ工場への出稼ぎが一九三八〜四〇(昭和一三〜一五)年にかけて集中していることに触れた。工場名を品川白煉瓦工場(岡山県片上町〔現在は備前市〕、品川白煉瓦株式会社)と言い、三菱重工や神戸製鋼、川崎製鉄など大手鉄鋼所の溶鉱炉に使う特殊なレンガを製造する工場である。のちに紹介する翁長弘さんによれば、白レンガは「何千度という熱にも耐える耐火レンガ」だという。折しも、日本がアジア太平洋戦争へと突入しようとしていたこの時期、軍艦、軍用機、武器などの製造のために白レンガの需要が高まり、多くの人手を必要としたのだろう。

 それにしても、岡山と嘉陽を結びつけたものは何なのか。その鍵を握るキーパーソンとも言うべき人が、嘉陽出身で同レンガ工場の募集人をしていた前田牛次さん(故人)である。最多期には三〇人前後の嘉陽の若者たちが、前田さんの管理する寮(下宿)で寝起きしながら働いていたようだ。それ以外にも、家族といっしょに社宅に住みながら働いているカヨンチュ(嘉陽の人)もいた。

 牛次さんは、弟の銀三さんとともに、嘉陽から最初に本土出稼ぎに出た人ではないかと言われている。何人かのお話から推定すると、牛次さんは一八九五〜六(明治二八〜九)年生まれ。二〇代の頃(大正時代前期?)、すでに結婚していた妻と子ども一人をシマに残して大阪に出たらしい。何が牛次さんを駆り立て、先駆者としたのかは知る由もないが、以来、戦後、帰郷するまで、彼は大阪を出発点に、関西周辺でさまざまな仕事をしながら、カヨンチュがシマを出る牽引力となった。大阪の人形工場や石鹸工場の監督として、また紡績工場の募集人として、たくさんのカヨンチュを引き寄せている。紡績出稼ぎに出た若い女性が出稼ぎ先で工場を転々とするのは珍しくないが、嘉陽出身者の場合、転職のきっかけとして牛次さんの存在が大きかった。

 品川白煉瓦工場は、牛次さんが本土在住の最後に落ち着いた職場だった。仕事は募集人兼寮の管理人。年齢は四〇〜五〇代になっていたようだ。妻が寮の賄いをしていた。彼女は、牛次さんが渡航したあと、子どもを母親に預けて神奈川県の紡績工場に出稼ぎに出たが、それを知った牛次さんが彼女を迎えに行き、以来、いっしょに暮らしていた。シマの娘たちが多く働いている紡績工場の近くで、沖縄そばやおでん、天ぷらなどを売る店を夫婦でやっていたこともあったという。シマに置いてきた子どもは幼くして亡くなり、その後、子どもには恵まれなかったようだ。

 牛次さんがレンガ工場に入ったのは一九三七〜八年頃と思われる。彼は早速、嘉陽から青年たちを募集してくる仕事を精力的に開始した。一九二一(大正一〇)年生まれの大城武雄さんによれば、牛次さんがシマの若者をみんな募集して連れていってしまったため、「シマには友達がいなくなり、淋しいので、父に相談して自分も行くことにした」という。


 武雄さんは八人兄弟で、家は貧しく、土地もほとんどなかったので、尋常小学校卒業後は山稼ぎ(山から薪などを切り出す仕事)をしていた。タムン(薪)をヤンバル船に売ったお金で、必要な食べものや日用品を買う生活だった。「食べるものと言えば、イモと豆腐、ソーメンくらいだったな。時々、海に出て魚を捕ったり。ソーメン一束、豆腐一丁が五銭だったと思うよ」

 武雄さんの兄は、武雄さんより先に、大阪の鉄工所へ働きに行っていた。武雄さんはお金を稼ぎたいという思いももちろんあったが、それより何より、シマの若い人はみんな出稼ぎに行ってしまい、シマには年寄りしかいない状況だったので、一人残されるのがイヤだったという。牛次さんが初めてシマを出てから約二〇年後のことだ。

 三八年、数え一八歳で武雄さんはレンガ工場の工員になるが、仕事は楽ではなかった。入って三カ月は見習いだが、それだけも持たずに逃げ出す人もいたという。レンガ作りの工程は、製粉(石を砕いて粉にし、土を作る)→練る→成型(餅を搗くように叩いて型に入れる)→乾燥→窯に入れて焼く→荷造り、という順序で、すべて人力だった。武雄さんは成型部に配属された。「工場全体の人数は分からないけど、成型部だけでも五〇人くらいはいたよ」

 朝六時には工場に出て、午後五時が終業だが、残業で七時まで働くこともあった。日当は実力次第で、混合した土を型に入れて一個打てばいくらと計算した。武雄さんはだいたい一日五〇銭くらいだったという。下宿代を差し引いた残りをシマに五円とか一〇円ずつ送金した。「そうすると、小遣いはいくらも残らない。楽しみはせいぜい、仕事を終えたあとラジオを聴くぐらいだったな。当時は双葉山の全盛時代でね、相撲があるときは、ラジオを聞くために工場から走って帰ったもんだ。たまには片上の町に遊びに出ることもあった」

 二十歳前後の若者たちにしては、あまりにも慎ましい暮らしだ。牛次さんの下宿は大きな家で(「会社から提供されていたと思う」と武雄さんは言った)、沖縄の人たちが四〇人ほどいた。そのうち嘉陽の人がいちばん多くて二〇〜三〇人。下宿と言っても部屋があるわけでなく、みんなでごろ寝だったという。昼の弁当を含め三食の賄い付き。「内容はあまりよくなかった」と武雄さんは言うが、当時はどこも同じようなものだったろう。牛次さんは自転車で米やソーメンなどの買い出しに行ったり、下宿人たちがシマに送る送金の手続きなどもやってくれたらしい。牛次さんもその妻も、若者たちへの面倒見はよかったようだ。お盆のわずかな休みには、下宿にいるシマンチュが集まり、シマから持ってきた三線を弾いたり、踊ったりして楽しんだ。

 そうこうしているうちに日本はいよいよ開戦。四一年、満二〇歳になった武雄さんは徴兵検査を受けに一度、シマに帰り、再び工場に戻って働いた。その間に大阪は大空襲を受け、大阪の軍需工場はみんなやられたという話が伝わってきた。大阪で働いていたシマンチュが空襲に追われて岡山に来ていたという。

 武雄さんは四三年、召集されて陸軍に入り、中国大陸を転々としたあと、ベトナムへ送られ、タイで敗戦を迎えた。兄も召集されてビルマへ行ったが、無事に復員してきた。二人が沖縄に引き揚げたのは四六年である。シマに残っていた家族は戦時中、山の中を逃げ惑ったが、幸いにも全員無事だったという。

 次回は牛次さんの後日談と、武雄さんより二年遅れてレンガ工場に入った翁長弘さんの体験をご紹介したい。